文楽劇場 初春文楽公演 第1部(その1)

初春文楽公演
第1部 午前11時開演
 二人禿 ににんかむろ
 源平布引滝 げんぺいぬのびきのたき
   九郎助住家の段
 傾城恋飛脚 けいせいこいびきゃく
   新口村の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2013/2937.html

ずっと仕事が目が回るほど忙しくて寝不足。それで、朝、大坂に向かう新幹線に乗ったら爆睡してしまい、新大阪駅近くでやっと目が覚めた。「とうとう文楽、観に来た…」と感無量で茫然自失していたら、まさかの新大阪駅での降りそびれ。車掌さんの車内アナウンスが西日本のアクセントに変わってそのことに気がついた。超焦って次の新神戸駅でソッコー折り返したら、さらに新大阪駅で在来線が止まっている。急いで踵を返して地下鉄まで走ったり。とにかくいろいろあったけど、何とか無事、開演前に文楽劇場につきました。そこまでして文楽を観たい自分に対して我ながらあきれるしかない…。


源平布引滝 九郎助住家の段

今まで上っ面しか観ていなかったと痛感させられるような、発見の多い、胸に迫る九郎助住家の段でした。

そもそも私は、実盛が元は源義朝に仕えて当時から武名名高い源氏方の本流の武士だったということを、あまりきちんと考えていなかった。けれども、そのことをきちんと踏まえて考えれば、見えてくることがあるのでした。

たとえば、九郎助住家には瀬尾十郎と実盛の二人が組になって訪ねてくる。瀬尾は平清盛からの命を受けているが、実盛は重盛公(小松殿)の意向を受けているのだ。清盛が平家の悪の象徴なら小松殿は平家の善の象徴で、実盛に課された役割は、表向きは葵御前が産む子供が女児であれば助けるというものだ。けれども小松殿は、本当はどちらであっても生かするつもりで実盛にその任に当たらせたに違いない。なぜなら生まれてくるその子が源義朝の弟である木曽先生義賢の子息であるなら、源氏にとっては何としても守らなければならない子だからだ。小松殿の「たとへ源氏の胤なりとも、女ならば助けよ」という意向と、検分の役割を実盛に与えたということから、小松殿の真意は見えてくる。この状況であれば、元源氏方の実盛は、産まれた子が男児だった場合は「女児だ」と言いくるめるなどして必ず瀬尾の詮議をうまくかわし、子を助けるはずだと、小松殿は考えたのだろう。

瀬尾もそのくらいのことは最初からお見通しだったかもしれないが、実際には、九郎助夫婦の思わぬ機転で、葵御前から女の手が生まれたということになる。加えて実盛の詭弁とも言える講釈もあり、その場は瀬尾が先に注進に行くということになる。しかし瀬尾は実際には注進に行かず、小柴垣に隠れて九郎助住家の様子を伺っている。そのときはまだ瀬尾もこの後の自分の運命を知らなかっただろう。

生まれた子供だといって錦に包まれた女の肱を受け取った実盛は、その女の肱は自分が宗盛公の竹生島詣の御座船で切り落とした女の腕だと直感した。その手にあった白旗は源氏にとっては大事な御旗で、間違っても平家の手に渡すわけにはいかない。実盛は、平家に仕えてはいても、それを平家に目の前でむざむざと奪い取られてしまうのは忍びなかったのだろう。平家の人々は小まんの手から白旗さえ奪い取れば、小まんのような人間には用はなかったかもしれない。しかし、実盛は白旗を平家の手に渡すくらいなら、小まんの命を奪うこともやむなしと考え、白旗を握る小まんの肱を琵琶湖の水に切り落としたのだ。

ところが、九郎助夫婦の「ナウ、それはわしが娘の小まんぢゃ」という言葉から実盛はことの次第を全て理解したのではないだろうか。私自身は今までどうして実盛や瀬尾が太郎吉は源蔵人行綱の子であることを知っていたのだろうと思っていたが(知っているとは直接は書いていないけれども、二人の行動はそのことを知っている前提で描かれているように思われる)、おそらく矢橋の仁惣太が注進に行った時、そのことも注進されたに違いない。

実盛にとっては、命をかけて源氏の白旗を守った小まんの行動は、いたく胸に迫るものだったのではないだろうか。実盛はその源氏時代の戦功から義朝亡き後、平家でも重用された。敵方であった自分を重用してくれる平家の情けに対し、いったんは過去を忘れ、平家に仕える武士になりきることも考えたかもしれない。しかし、小まんのように平家の何某を親に持つ身でありながら、源氏のために命を落とした女もいたのだ。ひるがえって自分は名負うての源氏方の武士であったにもかかわらず、現在は平家に魂を売り渡したも同然の状態だ。太郎吉の「ヤイ侍、ようかヽ様を殺したな」という言葉は、彼の肝に相当、こたえたことだろう。

そして同じように、小まんの出生の秘密が明らかにされることで、自分の生き方を問われることとなった人がいた。瀬尾は小まんが持っていた剣の話を小柴垣の陰から聞いて、小まんこそが、かつて自分が部屋住みの頃、瀬田に捨ておいた娘だと悟ったのだ。瀬尾は今や太郎吉が多田満仲の末裔、多田蔵人行綱の息子であるだけでなく、自分の孫であることも知った。その孫は、義賢の子息の誕生に立ち会ったことで、このまま仕えれば、若宮幼少のみぎりよりの側近として「七つの年から奉公せば、木曽の御内に一といふて二のなき家来」、かならずや自分以上の栄達も望みうると考えたのだろう。逆に、もしここで仕えることができなければ、太郎吉は一生、「土百姓」としてその生涯を終わるだ。

若宮に今から仕えるためには、葵御前の「もっとも父は源氏なれども平家某が娘と九郎助の物語。一家一門広い平家、もし清盛が落とし子かも知れず、まず成人して、一つの功を立てた上で」という詞に何とか叶うようにしなければならない。そのためには、平家でも名を馳せた武士の自分が犠牲となればよい。そう考えた瀬尾は小柴垣から躍り出て、太郎吉を挑発するため、罵詈雑言を浴びせ、小まんの亡骸を蹴飛ばす。太郎吉はその挑発にのって
「ようかヽ様の死骸をば、踏んだな蹴ったな」
と、瀬尾の脇腹に母の九寸五分を突き立てえぐる。

いくら母の敵とはいえ、瀬尾という並びない屈強な武士に、一人刃向かって脇腹を突き刺しに行くという行動に出ることのできる子供は一体、どのくらいいるだろう?やはり武士の血が流れる自分の孫だと、瀬尾は思っただろう。痛みに悶え苦しむ息の下で、嬉しくもあり、行く末頼もしくもあり、という心境だったに違いない。瀬尾は自分の正体を明かして実盛に葵御前への奉公の取りなしを頼むと、自ら刀を両手で自分の首筋の後ろに当て、きりきりと言う音を立てながら斬首するという壮絶な最期を見せて、息絶える。

そして実盛だ。太郎吉は実盛に対して母の仇を討とうとするが、実盛は、太郎吉に対して、四十に近い自分が七歳の子供に打たれれば必ずやお情けと知れて、手柄にはならないと諭す。しかし成人して義兵を挙げれば、その時は実盛は錦に身を包んで故郷に帰り討ち死にしようと約す。

さらに九郎助が、
「孫めが大きうなるうちには、其元様は顔に皺、紙は白髪でその顔変わろ」
という。その詞を受けて実盛はさっと刀を鞘から少し出し、自分の顔を写し見ると、
「成程、その時こそ、鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん。坂東声の首取らば池の溜りで洗ふてみよ。軍の場所は北國篠原、加賀の国にて見参々々」
と応える。これはそのまま『平家物語』巻七真盛(さねもり)での実盛の最期を予言する詞になっている。

加えて実盛は、
「互ひに馬上でむんずと組み、両馬が間に落つるとも、老武者の哀しさは、軍にしつかれ、風にちゞめる古木の力も折れん」
と語るが、これはお能の「実盛」の終曲部にある一番のクライマックスで実盛自身が語る詞だ。お能では実盛は自分の武士としての名声が傷つくのを憂うが故に、手塚太郎は名乗ったものの、実盛は最期まで名乗らなかったということになっており、それが武士の鑑として実盛の人間性を特徴付づける行為として、お能の「実盛」のテーマともなっている。

ところが、面白いのは、この浄瑠璃では、実盛が名乗らない理由として別の理由を暗示している。九郎助夫婦が、命を助けられた義仲は「恩を思ふて討たすまい」というのだ。つまり、実盛は討たれる時は自分の故郷の越前篠原で錦の直垂を付け、手塚太郎に討たれようとするが、その際、自分が実盛であると名乗っては義仲が恩を思い討たないだろうから、名を最期まで名乗らなかったと暗示している。

この浄瑠璃の中ではその指摘に対して実盛は何も答えないけれども、初演当時、謡曲などの影響で、実盛といえば「名を惜しんだ武士」という印象が強かったにちがいないから、実盛がその九郎助の指摘に答える場面を用意するというような野暮なことをしなくとも、当時の観客は、あっと思い当たったに違いない。

平家物語』には実盛が名乗らなかった理由は書いていない。世阿弥作のお能の「実盛」では、義仲の側近とはいえ、武名の知れ渡っていない手塚太郎光盛に対して名乗ることを惜しみ、名乗らなかったと解釈している(恐らくこれが実盛が名乗らなかった理由として当時、信じられていたことだろう)。そして、並木千柳(並木宗輔)等の作である浄瑠璃では、新たな解釈、「実盛だと名を名乗れば、義仲が報恩の思いから彼を討たなかっただろうから」という理由を提示している。実際、もし名乗ったら、手塚太郎は、実盛はなるほど高名で良い敵ではあるけれども、義仲の命の恩人であり老武者でもあるわけだから、おそらく彼を討ったりはしなかっただろう。実際のところ、それも実盛が名乗らなかった理由の一つだったということは大いにありうるようにも思われる。この二つの解釈は、お能が内蔵する仏教的禅的な美意識と、浄瑠璃が内蔵する「武士の情け」と「義理」という美意識の違いが顕著に現れている部分であり、お能浄瑠璃も好きな私としては、ゾクゾクしてしまうほど面白く感じる部分だ。

しかも、浄瑠璃で提示された「木曾殿が恩を思って実盛を討たないということが無いように」という理由で名乗らなかったと想定して『平家物語』の「真盛(さねもり)」を読んでも、十分、話として成立する。私達はそこに、素の『平家物語』の実盛の最期と、世阿弥の創作したお能の中の実盛の最期、並木宗輔等が創作した実盛の最期を重層的に読み取ることができるのだ。そして、ひるがえって浄瑠璃の話に戻れば、そういう武士の情けを知り、かつそれに甘えず自分で自分を処する実盛像が十分成り立つからこそ、この浄瑠璃は人の感情を強く揺さぶるのだと思う。


まだ書きたいことは山ほどあるのですが、仕事の方も落ち着いていないので、とりあえずこのメモはこれ切りとして、後日、その2につづけようと思います。