国立文楽劇場 4月文楽公演

※第1部の感想は5月公演の分にあわせて書いています。

祖父は山へ芝刈りに 祖母は川へ洗濯に
楠昔噺
きぬた拍子の段 徳太夫住家の段


冒頭は角書き通りの、昔話の『桃太郎』を彷彿とさせる、ほのぼのとした始まりです。


おばあさんが川で洗濯しようとして足を出すと、おじいさんが「どこぞの仙人が見たらば」と言い出します。これは『今昔物語』の巻十一に出てくる久米仙人の話みたい。粂仙人といえば、2012年9月の国立劇場で上演された近松半二の『粂仙人吉野花王』にも出てきました。この『粂仙人』の初演が寛保三年(1743年)豊竹座で『楠昔噺』は初演は延享三年(1746年)竹本座。『楠昔噺』の方が3年後らしいです。『今昔物語』の久米仙人のお話はそんな頻度で出てくるほど人気のお話だとも思われないので、これはライバルの豊竹座の数年前の演目で出てきたエピソードを軽いパロディにしてしまう余裕の現れなのかも。竹本座・豊竹座両座が当時の人形浄瑠璃の黄金時代を謳歌する様子が目に見えるようです。


角書の「祖父は山へ芝刈りに 祖母は川へ洗濯に」は砧拍子の段(砧はホントは難しい方の字なのだけど…)では、「桃太郎」ばりのほのぼのとした形で出てきます。が、後半に、祖父徳太郎が「祖父は山へ芝刈りに 祖母は川へ洗濯に」と孫達に言ってやってくれと言う場面では、「そんなこと孫達に言ったら、一生トラウマになるわ!」というようなホラーな展開。太宰治の「お伽草紙」や芥川龍之介の「桃太郎」といった昔話のパロディにも負けない、浄瑠璃お得意のどんでん返しです。


太夫住家の段の冒頭に出てきた物売りが「さてもくたびれて、ぐったりと一寝入り」と出てきますが、この物売りはすぐに実は宇都宮公綱であることが明かされます。私の事前の予想では、宇都宮公綱は「公」という字が付くので、公家っぽい感じの登場人物なのかなと思っていたですが、全然違いました。「公」は「公」でも坂田公時の「公」、ということらしく、公綱は『妹背山婦女庭訓』の鱶七的風貌でした。一方の楠正成は検非違使の首で絵図でおなじみの口髭を蓄えた容貌。これがよく見る絵図にあまりによく似ていて笑ってしまいそうになりました。


で、二人揃ったところで、ここで勝負すれば話が早いのに、「互ひに『戦場』『戦場』と詞を残し、別れ行く」と終わるのが浄瑠璃のお約束。いつもここで戦ってよ!と思ってしまいます。義太夫節の前身の古浄瑠璃の時代は金平浄瑠璃というのがあり、むしろ戦いのシーンが観客に大受けだったと言われています。実際、以前、白河郷の旧東二口村の文弥人形による『出世景清』を観たとき、戦闘のシーンでは人形遣い総出でしっちゃかめっちゃかにやりあっていて、とにかく面白かったので、そんな金平浄瑠璃もそんな感じだったのではないかというのが私の想像です。新しい時代の義太夫節に戦闘シーンがないのは、その頃になると、大坂の観客にはそういう素朴な演出は受けなくなったということなのでしょうか。


…と書いたものの、実はかなりの時間、爆睡していました。唯一見たことない演目だったのに。是非東京でも上演していただきたいです。次こそリベンジしたいです。


曾根崎心中


もう飽き飽きしたと思っていても、やっぱり見ると夢中になってしまいます。簑助さんがお初をやらなくなった今、勘十郎さんのお初が『曾根崎』を牽引していると思いました。


今回は徳兵衛が清十郎さんという珍しい配役でした。やはり玉男さんとは個性が違います。もちろん、玉男さんの方は何度も徳兵衛をされているだけあって、細かい部分に工夫があり本当にかっこいい。一方、清十郎さんは今回、本公演では多分初役で、素朴に演じられているところが逆に徳兵衛が普通の人だったというリアリティにつながっている感じでした。そんな徳兵衛を勘十郎さんのお初がリードして、物語の上でも説得力がありました。


ほかの配役では、「生玉社殿の段」が睦さんと清志�カさんだったというのが意外でした。私は生玉社殿の段がとても好きで、出来ればいつか呂勢さん清治師匠で聴いてみたいと思っていました。今回、睦さん清志�カさんが良い感じでやっていたので、もう世代的に呂勢さん・清治師匠という配役の可能性は低くくなってしまったのかなあ。しかし聴いてみたい。


道行は呂勢さんと咲甫さんの相性が良くて良く、去年の『仮名手本忠臣蔵』のお軽と平右衛門を思い出しました。また、寛治師匠は三味線もゆったりと色気と風情があって、素敵でした。


それと、私が拝見したのは日曜日の夕方だったにもかかわらず、襲名披露の第一部に負けずとも劣らず、お客さんが入っていて、驚きました。『曾根崎』は第二部の後半の演目で、文楽を見飽きるぐらい観ている人なら、普段かからない『楠噺』を観に来たとしても、『曾根崎』までは残らない人もいるのではと思います。となると、わざわざ日曜の夕方に『曽根崎心中』を観るお客さんというのは、おそらく普段はあまり文楽を観ないお客さんで、今月、有名な『曽根崎心中』がかかっているということで、来ている方々だったのではないでしょうか。


となると、文楽をよく観る私には『曾根崎』は食傷気味ですが、観客の裾野を広げるためには、『曾根崎』をしつこく上演する意義というのは小さくないのではないかなと思いました。せめて、配役で驚くようなことをしてくれれば、よく観るファンも曾根崎連発に少しは耐えうるかもしれません。または演技の型も色々作ってほしいですね。昭和の復曲ならだから、もっと自由にやっていたいてもよいのではないでしょうか。


展示


新呂太夫襲名記念の展示でした。一番驚いたのは、初代(天保年間から明治40年)からすべての代の方の写真があったこと。それから、清治師匠の口上での挨拶に出てきた若い頃の先代呂太夫さんが、阿部寛ばりの男前であったこと。「文藝春秋」と「流行通信」の切り抜きがあったのですが、あの「流行通信」がわざわざ取材するのも、むべなるかなという感じでした。5月の襲名公演で清治師匠が先代呂太夫のエピソードとして、映画界からも誘いがかかったが、若太夫が反対したため、映画には出演しなかったというようなことを話されていましたが、たしかに先代呂太夫が映画デビューしたら、きっとものすごい人気がでて、義太夫の修行どころではなくなったかも。それにしても「流行通信」の切り抜きまでとってあるとは。


また、興味深いことに、お薬が展示してありました。これは、二代目呂太夫?という人が「はらはら薬」というのを売っていて、「はらはら屋」と呼ばれていたという証拠の品のよう。この「はらはら」というのは「はらはらする」の「はらはら」ではなく、「上はら(胃、胆嚢、膵臓脾臓など)」と「下はら(小腸・大腸)」の両方に効くから「はらはら薬」なのだとか。勉強になりました。今も販売されているようです。


そして、これらの展示のかなりの数が呂勢さんの所蔵のものでした。あらためて、すごいコレクションです。東京では展示がなかったので残念でした。