国立劇場 文楽5月公演 第二部

加賀見山旧錦絵

筑摩川の段、又助住家の段

筑摩川の段は御簾内でした。冒頭、謡掛かりで始まるのが意外でした。なぜ謡掛かりで始まるのかは、この場面からはちょっと分からず。また、同じ詞章の謡曲は私は思いつかないけど、何か出典あるのでしょうか。


又助住家の段は、事前に床本を読んだ時は、あまり面白くないお話なのではと思っていた。というのは、物語のモチーフとして出てくるのが、敵討、妻の身売り、愛想尽かし、人違い、突然切腹して身の潔白を晴らす等々、どこかで聴いたようなお話ばかりで、公演が終われば思い出せないようなストーリーなように感じたから。


しかし、特に後半、呂勢さん宗助さんの、本当に本当に圧倒的な迫力の床を聴いているうちに図らずも感動してしまいました。悲劇的な内容とは裏腹に、だから義太夫節大好き!という気分にさせてくれる段でした。わたし的には5月公演では、第一部の桜丸切腹と、第二部のこの段が白眉でした。


もちろん圧倒的な演奏に感動したのですが、なぜこのような、どちらかといえば陳腐なお話でこんなに感動するのだろう。考えてみると、多分、私が陳腐だと思った物語のモチーフは、むしろ義太夫節という音曲が感動を呼ぶために欠かせないモチーフなのだろうと思う。作者や作曲者は、これらモチーフを上手く組み立てて、主人公やその周りの人々を心理的に追い込み、最後に主人公の犠牲と願いの成就を両立させることで、主人公に感情移入して聴いている者の心を緊張させ解放し、感動をさせることを狙っているのように思える。これを優れた太夫が語り、三味線で奏し、人形を遣うと観る者は感動するということなのだ。この浄瑠璃が作った作者と作曲者は、そのような浄瑠璃のお作法を重々承知していて、敢えて、見方を変えれば義太夫節の本道のストーリーを以て浄瑠璃で感動させることを狙ったのではと思った。とにかく、圧倒的な義太夫でした。


草履打の段、廊下の段、長局の段、奥庭の段

私がこれまでに見たり聞いたりしたことがある加賀美山は、一つは2009年2月に紀尾井小ホールで駒之助師匠はじめとする女義の方々と文雀師匠のお初ちゃん、和生さんの尾上、玉女さん(現・玉男さん)の岩藤という配役で、草履打と長局のダイジェストをされたのを観たことがあったのと、もう一つは今年2月に呂勢さん・燕三さんで草履打の素浄瑠璃を聴いたもので、本公演で観たのは今回が初めてでした。


私にとって予想外で驚いたのは、お初ちゃんが尾上と大きさ的にも所作的にも、それほど変わらない年齢に見え、また、千歳さんも、そのように語っていたこと。というのも、2009年2月に文雀師匠が遣われたお初ちゃんは、白石噺のおのぶちゃんか、せいぜい帯屋のお半ちゃんぐらいの幼さに見え、人形の丈も、尾上よりも明らかに小さい大きさでした。また、女議の駒之助師匠も、甲高い早口で語られていて、そのお初ちゃんは見た目にも耳にも、幼いながらも賢く、正義感も強くて勇猛果敢な、ボーイッシュな女の子、というイメージでした。なので、『加賀見山』のお初ちゃんというのはそういうものだと、今までずっと思い込んでいたのでした。


今回は自分が思っていたお初ちゃんとあまりに異なる姿だったので、一人、唖然として見ていたのでしたが、色々考えてみても、やっぱり、文雀師匠・駒之助師匠のお初ちゃんも、十分ありだと思う。長局の段の中に、お初ちゃんのことを描写した表現として「年端もゆかぬ」という詞がお初ちゃん自身と尾上の独り言として、二回も出てくる。お初ちゃんがいくら心を尽くしても、結局、尾上が岩藤への遺恨を抱えた苦しい胸の内を吐露せず自害してしまうのは、年端のゆかないお初ちゃんにそのようなことを告白する訳には行かないという配慮なのではないだろうか。


ああ、あの2009年2月に紀尾井小ホールで観たあのお初ちゃんは、いったい、文雀師匠と駒之助師匠の、どちらの工夫だったのでしょう?また、あのときは和生さんは尾上が初役とおっしゃっていたが、今回はあのときよりずっと良かった。叶うことなら、もう一度改めて、あの時の文雀師匠のお初ちゃん、今の和生さんの尾上と玉男さんの岩藤、そして駒之助師匠で、あのお初ちゃんの長局が観てみたい。


そんな訳で、私の目の前には勘十郎さんのお初ちゃんがいて、千歳さんが迫力ある浄瑠璃を語っているのに、私の目には文雀師匠のお初ちゃんがありありと見え、耳には駒之助師匠の浄瑠璃が聴こえ、全く頭が混乱してしまいました。まだ観る機会が残されているので、次回は虚心坦懐に観てみたいと思います。