府中の森 芸術劇場ふるさとホール 文楽地方公演 夜の部 

  • 解説
  • 伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)

  火の見櫓の段
  作:菅専助・松田和吉・若竹笛躬 初演:安永2(1773)年 北堀江市の側の芝居

  • 生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)

  明石船別れの段・宿屋の段・大井川の段
  作:山田案山子  初演:天保3年(1832年) 稲荷座
http://www.fuchu-cpf.or.jp/theater/play/20071020_detail.htm

恋に生きる情熱的な娘二人のお話で、とても楽しかった。


まずは人形遣いの幸助さんの解説。普段、声を聞くことのない人形遣いさんの話を聞くのは何だか面白い。


「伊達娘恋緋鹿子」はいわゆる八百屋お七のお話で、「火の見櫓の段」では、お七は恋人の命を救うために、勝手に打てば死罪という半鐘を火の見櫓に登ってかき鳴らす。恋人を助けるために、自分の命を捨てて江戸中に半鐘を響きわたらせるのだ。これはシチュエーション的にすごい。玉英さんの人形は美しく髪を振り乱して鐘を打ち続け、太夫の語り(というかほとんど唄)も三味線も緊迫感のある音楽になって場面を盛り上げる。最後は恋人の命を助ける鍵となる刀が無事お七の手に入り幕となるのだが、その後どうなったのだろう。火の見櫓の段の前後の話を見てみたい。


一方の「生写朝顔話」の主人公深雪も、お七に負けない情熱的な娘。
おまけに深窓の令嬢には似合わず行動力のある娘で、例えば明石船別れの段では、船の上で偶然窓の外に恋人阿曽二郎の船を見つけると、二郎の船に飛び乗ってしまう。また深雪は二郎に別れたくないと必死に訴え、二郎が承諾すると、両親に別れの手紙を書いてくる、と、再度ひょいと両親の船に飛び移ってしまう。不幸なことに両親の船に飛び移ったことで二郎とは別れ別れとなってしまうのだが。
ところで、二郎が一緒に行くことを承諾する場面が面白い。深雪と二郎の顔が近づき最後に二郎が二人の顔を扇で隠すと、同船している船頭が見てられないとばかりに、手ぬぐいをクルクル振り回す可愛い場面だ。なんだかハリウッド映画のラブコメディにでもありそうな演出ではないか。

宿屋の段では、恋人阿曽二郎と別れ別れになった悲しみで目を泣きつぶして盲目となってしまった深雪が、朝顔と名を変え宿屋を回って琴曲を披露することで生計を立てている。偶然、再度恋人の阿曽二郎が朝顔のことをききつけ、もしやと思い、座敷に呼ぶが、ここの琴の演奏は、まるで阿古屋のよう。阿古屋の岩永左衛門と同じように琴の音に聞きほれて思わずリズムをとってしまう悪役、岩代多喜太までいる。
琴は当然人形が弾くわけないので(時々人形の方からバチンという爪弾く音が聞こえてきたが)鳴物の方が演奏するのかと思いきや、清丈さんという三味線の方が弾いていたので、驚いた。三味線ばかりやってればいいのではないから大変だ。
と、しみじみ見ていたら、阿曽二郎とは気づかぬままに別れた深雪は、その後、宿屋の主、徳右衛門から自分を呼んだのは阿曽二郎で既に出立したと知らされて、狂わんばかりに嘆いたからびっくり。さっきまでのしおらしさとの対比がすごすぎる。追いかけようとする深雪を徳右衛門が盲目の身では危ないからと止めるも、深雪は杖で徳右衛門を突き飛ばして(!)追いかけていってしまう。

大井川の段では、阿曽二郎が向かったという大井川まで二郎を追いかけて来る。その時の深雪も、情熱的だ。川越達から阿曽二郎は既に大井川を渡ったばかりか大水のために川止めになったと聞くと、深雪は、わっとつっぷし、両の手で地面を叩き、転げまわって嘆き悲しむ。ここは太夫(文字久太夫さん)、三味線(清志郎さん)、人形遣い(紋寿さん)の三行が渾然一体となって素晴らしく、深雪に同情すると共に文楽の魅力にゾクゾクしてしまった。

深雪は、それならいっそ大井川に身投げしようとするが、間一髪、奴の関助と宿屋の主、徳右衛門が止めに入り、徳右衛門の切腹のお陰で深雪の目も治り、さあ改めて二郎を追いかけよう、と希望のある終わりだった。

印象的だったのは、愛する人のために、大井川の川辺でのた打ち回って嘆く深雪の姿だ。彼女くらい純粋に激しく愛に生きる女性は浄瑠璃の世界でもそんなにいないのではないか。それでも恐い烈女というよりは、むしろ可愛い娘の印象を残すのは、何故だろう?
それにしても、大井川では身投げしなくてよかった。あれだけの怨念で身投げしたら間違いなく第二の安珍清姫伝説となり、別のお話になってしまっていたでしょう。

などと帰り道にも色々思い返しては楽しくなり、ますます文楽が好きになった夜だった。