国立劇場 2月文楽公演 第三部

時間が出来たので、途中からだが、二度目の三部を見に行った。文楽の同じ興行を二度見に行ったのは初めて。文楽は初日近くても、かなり舞台の完成度が高いので、公演中も、それほど大きな変化はないのではと思っていた。しかし、最初に行った、興行2日目と二度目に見た今回では、完成度や演出が大きく異なり、またもや文楽の楽しみのひとつを見つけてしまった。


道行初音旅

最初に見たときは、前半の三味線の音程やリズムがばらついていたのだが、今回は、5人が、まさに一糸乱れぬ演奏。いくら拍手をしても足りないくらい堪能した。特に、清治さんと清志郎さんのツレ弾きは、感動もの。二人の三味線の音が一本にしか聞こないほど寸分の狂いもない合奏や、清治さんが弾く旋律を清志郎さんがそのまま受けて引き継いだり、清志郎さんが弾く旋律を清治さんが受けたりという箇所があるのだが、それが、全く一人の人間が一本の三味線で弾いているような息の合い方。また、文楽のああいう合奏形式を見るといつも思うのだが、全員鋭い目付きでまっすぐ客席側(劇場の壁?)を見ているのも、いかにも文楽的でいい感じ。例えば、クラッシックだと楽譜を見ているか、指揮者を見ているか、実質何も見ていないかだし、他の邦楽は、まっすぐ前は見ているのだが、あんな鋭い目付きをしてはいない。何ゆえ彼等は、揃いも揃って、あんなに鋭い、まっすぐな目付きをしているのだろう?そして、三味線の音も、彼等の目付き同様、とっても鋭角的なのだった。ともあれ、聞いていて、心から幸せな気分に浸れた。


川連法眼館の段

前回みたより、更にメリハリが利いて、完成度が高くなっていた。たとえば、津駒大夫の語り分けも、よりはっきりしていたし、さらに、感情も前回よりずっとこもっていたように思う。また、勘十郎さんの早替りの時なども、お囃子の太鼓と共に、ちらと舞台の方を確認し、狐の登場の場を無音にして人形と勘十郎さんに観客の視線が集まり、より劇的な登場になるよう気をつけてらっしゃったのが印象的だった。

奥の咲大夫の語りが素晴らしいのは言うまでも無く、燕三さんの三味線もよかったのだが、前回は気がつかなかったことで、面白かった演出があった。最後の方の場面で、一度は、源九郎狐はその場から立ち去るものの、義経がもう一度、狐を呼び出そうとし、源九郎狐がひょいと現れるシーンがあある。そこで、何と、燕三さんが、源九郎狐の出と一緒に「コーン」と遠吠えのような合いの手を入れていたのだ。あまりに自然で、かつ、程なく、寛太郎さんとのツレ弾きに入るので、驚く暇もないのだが、面白い演出だ。そして、このツレ弾きもまた迫力があるだけでなく、人形の方の足遣いの方の足拍子も三味線と張り合うほど素晴らしい間合いで、そこに人形の大振りの所作が加わり、大迫力の場面だった。

勘十郎さんが遣う狐も更に狐らしくなっていた。最後の宙乗りは、前回は、客席の方を向いたまま宙に浮かんでの幕切れだったのだが、今回は、狐忠信に、セリ下がった家体の屋根の方に向かって何度も何度も初音の鼓を押戴き、義経に向かって感謝を表す仕草をさせて幕切れとなっていた。こういう、細かい端々まで物語世界が表現されていると、観ている方も、一瞬であれ、舞台上のことが夢か現かという気分になり、本当に楽しくなってしまう。

そして、心に未だに残っているのは、義経のことだ。義経は、他の段では、それほど感情を表さないのに、この段では、冒頭に、義経の前に現れた本物の忠信に向かって「漂泊してもうつけぬ義経、謀らんとは推参なり。」と怒りをあらわにしたり、源九郎狐を観て、自分のことを「一日の孝もなき父義朝を長田(おさだ)に討たれ、日蔭鞍馬に成長、せめては兄の頼朝にと、身を西海の浮き沈み、忠勤仇なる御憎しみ、親とも思ふ兄親に見捨てられし義経」と述懐し、扇を震わせて男泣きに泣くのだ。この義経千本桜という浄瑠璃の冒頭は、「忠なるかな忠、信なるかな信」で始まるが、この浄瑠璃の中で一番この言葉に相応しいのは、義経ではないか。父を知らず、兄には見捨てられても、最後まで兄への忠義を捨てず、兄を信じて自害する。この四の切では、義経が、まさかの時は判官になり代はつて敵を欺け、と、自らその名を送った源九郎狐が、初音の鼓を賜って、帰っていく。この初音の鼓は、義経が頼朝を打てとの詔を表すものとして賜ったものであるが、同時に源九郎狐の両親でもある。この鼓を源九郎狐に与えることで、義経の分身である源九郎狐は、両親を得、義経の直面した兄を打てとの難題も、無にしてくれる。歴史を変えることはできないが、ここで小さなハッピーエンドをもたらすことで、作者はせめて物語の世界で、悲劇の武将、義経に安らぎを与えたかったのかもしれない。