国立文楽劇場 文楽4月公演 第1部

関西元気文化圏共催事業 文楽4月公演
◆第1部
伊勢物語(はでくらべいせものがたり)
 玉水渕の段(たまみずのふちのだん)
 春日村の段
作:奈河亀輔 初演:安永4年(1775年)4月 大坂嵐座(歌舞伎) 4月または5月 大阪豊竹定吉座(人形)
勧進帳
初演:明治28年(1895年)2月 稲荷座

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1748.html

楽しみにしていた4月公演。桜が散るように、あっという間に観終えてしまった。これを書いている翌日は、雨。外の雨をながめながら、夢かうつつか、うつつか夢か、と、ぼっと考え続けていたい気分だ。


伊勢物語

伊勢物語、というよりは、伊勢物語の世界を一部借りている、時代物。それに、伊勢物語や同時代の歌からインスパイアされた登場人物名がつけられてもいる。内容は、忠義とか、紛失したお宝とか、身替りの首とか、典型的な江戸時代の時代物なので、伊勢物語のもつ、風流・みやびな平安時代の雰囲気を意識しすぎると、違和感を感じなくもない(大体、競伊勢物語の主題である忠義なんて、文章の端々で何かと都会的センスを誇らしげに披露する伊勢物語の作者の手にかかれば、下々の武士の田舎者じみた発想と切り捨てられかねない!)。おそらく、競伊勢物語の初演当時は、典型的な時代物のバリエーションのひとつとして、たまには、こういう趣向も面白い、という見方がされたのだろう。

今回は、玉水淵の段と春日村の段が演じられたが、イヤホンガイドの高木秀樹さんの解説によれば、この間に本来は、惟仁親王と惟喬親王皇位争いの段があるらしい。面白そうだが、残念ながらその段は上演が途切れてしまっているそう。江戸時代のお芝居では、たいてい、惟仁親王=いい人、惟喬親王=悪者、という図式になっているそうだ。ああ、そういえば、今年一月の国立劇場の初春公演では、松也丈演じる惟仁親王亀蔵丈演じる惟喬親王に嫌がらせされてたなあ。(追記08/12/14)後日、たまたまここを読み返して、納得がいかず。惟喬親王はある意味、藤原氏の横暴の被害者だし、紀氏筋で有常も業平もお仕えした親王なのだから、この物語上、惟喬親王が悪者じゃ、話がややこしくなりそう。うーむ、謎じゃ。過去の私よ、何故ここのところをきちんと聞かなんだ。


玉水淵の段

主人公の一人、信夫(しのぶ)の名は、伊勢物語の一段目にある歌で、百人一首にもある河原左大臣源融)の「陸奥の しのぶ文字摺り 誰故に 乱れ染めにし我ならなくに」から採られてる。伊勢物語の成立時期と同時代の歌で、かつ、光源氏のモデルとの呼び名の高い源融の有名な歌から採ることで、観客に平安時代の風情に浸ってもらおう、ということなのだろう。次の春日村の段では、信夫の母の小よしが、融が陸奥に来た時に小よしの家に泊まり、文字摺りを見て、その歌を作り、さらに在原業平が文字摺りの狩衣を着て(伊勢物語の一段目に業平が文字摺りの狩衣を着ていた様子が出てくる)流行らせたという由来を語り、お陰で文字摺りが売れて、繁盛したということを語る。さすが、大阪町人の芸能、巷の本屋さんに溢れるマーケティングの教科書を読むまでもなく、販促の基本パターンなど、浄瑠璃にも出てくるくらいの常識というわけだ。

口を語った相子大夫の語りは、掛け合い以外では、私は初めて聴いた。ほんの短い部分だったけど、こうやって段々、階段を上って行かれるのだろう。そして、観客もその人の成長を見続けるのだ。パフォーマンスは一回限りのものだけど、結局、長い人生に亘って観続けることも、こういった伝統芸能の楽しみのひとつなのだ。すごいことだ。

玉英さんの信夫が可愛かった。玉英さんは、可憐な娘の役が本当に良く似合う。その可憐さを少し私に分けて下さい。幸助さんの鉦の鐃八も面白かった。紛失した神器の御鏡を探して(昔の人は、大事なものをよく失くす!)、禁断の玉水淵の湖底を素潜りで捜索するのだが、飛び込み方とか、平泳ぎする様子とか、鏡のようなものを見つけて、岸に上ってから頭に鉢巻にしていた手拭いきを取って、まずは鏡の方を拭き、それから念入りに自分の体を拭くところとか、目を奪われてしまう。


春日村の段

一番、心打たれたのは、やはり文雀師匠の母小よし。文雀師匠の使う母は、理屈抜きに、子供が自分の一番の楽しみで、何よりも大事に思っている様子が伝わってくる。ひょっとして文雀師匠のお母様がそのような人だったのだろうか。

信夫の実の父である紀有常が、突然、小よしの家を訪ねてきて、昔、隣に住んでいた太郎助こそ自分だといい、小よしと有常は再会を喜ぶ。この有常が、全く江戸時代の服装(盛綱陣屋の盛綱みたいな服装)だし、室内には仏壇はあるは、煙草盆はあるはという具合で、全然、平安時代していないのが、面白い。また、信夫は小よしとの別れに際して、妹背川、と歌ったりする。明らかに曽我入鹿の時代の「妹背川女庭訓」を意識しているのだと思うが、江戸時代に作られた話だし、今の感覚では不思議な時代考証だが、御位争いの話で、あまり生々しすぎるのもいけないということなのかもしれない。こういうチグハグな時代考証に文句を言ったりせずに楽しめるのが、江戸時代の人々のの面白いところだ。

住大夫師匠が切を一時間以上語り、堪能した。


勧進帳

期待を裏切らず、おもしろかった!能楽、歌舞伎、文楽と三つの芸能で共通した演目で、こういうのは、細部を知る楽しみがあるので、本当は何度も見たい。文楽勧進帳は、お能と歌舞伎の良いとこどりをしたような内容で、かつ、特色である語りが全面に出た演出になっている。

まず、呂勢大夫の富樫の名乗りの台詞が、義太夫お能の台詞の中間のようで、興味深かった。ベースは、お能の謡だけど、フレーズの端々が義太夫節に傾く、といった感じなのだ。

勘十郎さんの弁慶のかっこよさは、思ったとおり。勘十郎さんの立方の人形はいつも高く掲げられていて、それだけで、迫力がある。今回は、左遣いや足遣いも出遣いで、幸助さんが左、蓑紫郎さんが足だった。左や足が、とても大変なのがよくわかった。お二人とも姿勢の良いのに感心してしまい、私も5秒ほど、居ずまいを正した。幸助さんは主遣いのときも荒事っぽい役が多いが、折り目正しい楷書の荒事で、かつ、勢いがあって、観てて気持ちいい。和生さんの富樫も意外にも骨太で、かっこよかった。

弁慶と富樫の問答の部分は、語りを重視するせいか、じっくりした問答になっている。歌舞伎は、お互いのセリフが被ったりするくらい急きこんで演じることがあり、間合いの緩急に対する考え方がかなり違う。

それから、歌舞伎やお能では四天王が弁慶の後でスクラムを組んで詰め寄り、弁慶チーム対富樫チームが鋭く対立するのだけど、さすがに三人遣いの人形では、スクラムは組めないようで、その部分がなくちょっと残念。これは、無いものねだりです。

勧進帳の読み上げやら、弁慶と富樫の問答やらで富樫は納得して、一旦は関を通そうとする。いままで、ここが不思議だった。というのも、前日にも本物かもしれない山伏を三人も切ったと言っていて、前日は無差別に山伏は関を通さない方針をとっていたようなのに、どうして富樫は今回は義経一行を通そうと思ったのだろうと思っていたのだ。これについて、イヤホンガイドで、有力な東大寺勧進をする山伏だと主張しているので、という趣旨の解説があった。なるほど、さすがに富樫も官僚なのだ。富樫のように長い年月を経て演出が変わってしまった役は、元の設定と後の設定が混在していることがあり、そのもつれた糸が、おおもとは何処につながっているのかを知るのは楽しい。

関所を無事通って、遠くまで来たところで、背景が松羽目から海岸となる。松羽目の背景が転換するなんて、目から鱗だが、イメージしていた通りなので、違和感なし。ところが、今、渡辺保氏の「歌舞伎ナビ」という本を見てみたら、山間とある。私が海岸と思っていたのはなぜだろう。たぶん過去の歌舞伎公演で聴いた小山観翁さんによるイヤホンガイド知識だったような。地図で見てみると、安宅は海に面していて、江戸時代は北前船で栄えた町とのこと。ということは、とりあえず、海岸に出たことも十分考えられるけど、平泉に行こうとしているわけだから、陸路の方が近道なので、山間部というのも、おかしくはない気がする。しかし、安宅の関を通ったということは、船に乗ろうとしていたと考えるのが自然。。。というわけで、本当のところは、どうなのでしょう?

富樫が追ってきて酒宴になるところで、最初は弁慶は杯でお酒を飲むのだけど、次にこれじゃ足りないと、蔓桶の蓋で飲む。お能や歌舞伎では蔓桶を使っているので蔓桶が出てくるけど、文楽には蔓桶は出てこないのに、蓋だけ出てきて面白い。延年の舞になるところで勘十郎さんの弁慶が扇を後に放り投げたら、介錯の人がナイスキャッチ!心の中で拍手した。

そして最後、弁慶が合図をして四天王と義経が、逃げていくところ。お能や歌舞伎では、猛ダッシュでいなくなってしまうのに、文楽では、四天王は富樫達に軽く一礼していなくなる。義経に至っては、今まで目深に被っていた笠を上げて、富樫に顔をちらっと見せる大サービス。能楽、歌舞伎、文楽の制作時期の時代的な考えの違いが出ているということだろうか。

三味線は、清治師匠を筆頭として、燕三さん、清志郎さん、清丈さん、龍爾さん、寛太郎さん、清公さん。燕三さんが、今回の公演では、この勧進帳のツレ弾き二枚目のみで、ちょっとさびしい。きっと、空いた時間は、次の公演や将来の仕込みに使って下さるのでしょう。今後の公演を楽しみにしています。