国立能楽堂 定例公演  子盗人 碇潜

狂言 子盗人(こぬすびと) 茂山忠三郎大蔵流
能   碇潜(いかりかづき)船出之習(ふなだしのならい) 岡久広(観世流

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1776.html

小盗人

睡眠不足からか、半分は見てたと思うのだが、全く記憶を再構築できない。
子供の人形が、歌舞伎並にリアルで、へーっと思ったことだけは覚えてるが。。無念!


碇潜 船出之習

面白かった。シテの岡師は謡も素晴らしいし、先日の宗家に負けず劣らず舞もかっこよくて、また機会があったらぜひ見てみたい。地謡も良かった。また、囃子方は何と言っても大鼓は亀井忠雄師だし。

曲は義経千本桜の碇知盛の元ネタの曲とのこと(こちらをご参照ください)。碇知盛は大好きなので、楽しみにしていた。観てみたところ、特に現行の演出では、ものすごく似ているというほどでもなかった。前シテは能登守教経の化身だし(そういえば教経は千本桜では大詰の奥で三段に乗る人ですっけ。。)、後シテの知盛も碇は担がないし、安徳帝は話の中でしか出てこないし、その話の中で安徳帝は史実通り、入水してしまう。でも、そういう細かいところを無視すれば、後場は、だいたい、大物浦と同じ、という感じ。

まず、前シテは、あの浦島太郎の玉手箱開封後のスタイル(着流に水衣、腰蓑無し)の船頭さん。最初は渡し船を頼む旅僧に対して、舟賃を払わないと乗せないよ、とせこいことを言うのであるが、旅僧が舟賃の代わりに法華経を読誦しましょう、と言うと、喜んで船に乗せる。そして、旅僧に合戦の様子を語ってほしいと請われると、たちまち、ただものならぬ雰囲気を醸し出す。そして、壇ノ浦の合戦で、義経を追い込んだが、結局義経は味方の船に飛び移ってしまったことや、安芸太郎と次郎を冥土の道連れにと左右の脇に挟んで入水した(これは史実ではないらしい)ことなどを語り、跡を弔うことを頼み、消えて行ってしまう。

後場では、船の作り物が出て来る。引廻幕が引かれると、船上には、二位尼(関根知孝師)を真中に、向かって左に知盛、右に大納言局(北浪貴裕師)がいる。本来は知盛一人なのだそうだが、「船出之習」の小書がつくと、二位尼、大納言局も出るのだそうだ。

そして、船上に並んだ三人のうち誰かが語り出すのだが、三人とも面をしているので、「誰がしゃべっているのでショー」状態(ま、状況証拠から二位尼ということは分かりますが)。そういえば、文楽では、人形は口は動かないのに、誰が話しているか分らないということは、まず無い。たとえ太夫の言葉が聞き取れなくても、人形の動きから判断できる。面白い。

で、口火を切るのは二位尼で、安徳帝の最期の様子を語る。「この国と申すに、逆臣(げきしん)多き所なり、見えたる波の底に、竜宮と申して、めでたき都の候。行幸をなし申さん」と安徳帝に奏上すると、「さすがに恐ろしと思しけるか」、以下、地謡が引き継ぎ、「竜顔におん涙を、浮かめさせ給ひて、東に向かはせおはしまし、天照大神(てんせうだいじん)に、おん暇申させ給ひ、その後西方にて、おん十念も終わらぬに、二位殿歩み寄り、玉体を抱き目をふさぎて、波の底に入り給ふ」となり、かなり悲惨。ここは二位尼地謡になっていて、二位尼が自らも語ることにより、ますます悲劇性が増すように思う。

この後、二位尼、大納言局は切戸口からささっと出て行ってしまい、知盛一人の舞となる。これが、かっこよかった!長刀を持って、寄せ来る敵を次々と長刀で切りつけるのであるが、力強い地謡と早く力強いパッセージの囃子(亀井忠雄師、林光壽師、小寺佐七師)に乗って、鬼気迫る舞で、こちら側に長刀を向けられると思わず、うっとなる。

それでも知盛は、最後はとうとう、「今はこれまで、沈まんとて、鎧二領に兜二はね、なほもその身を重くなさんと、遥かなる沖の、碇の大綱、えいやえいやと引き上げて、兜の上に、碇を戴き、兜の上に、碇を戴きて、海底に飛んでぞ、入りにける」、となって終わる。このあたりは、どうも、碇知盛のラストシーンに影響を与えていそうだ。

パンフレットの説明によれば、観世流の現行演出(後場が知盛一人)は、江戸後期のものだそうだ。「能楽ハンドブック」の曲目の部には、橋掛りで碇を担ぐ、あの碇知盛そのままの写真があるので、千本桜の作者である二代目竹田出雲達は、ひょっとすると、碇潜のお能を碇を担ぐ姿で観ていたのかもしれない。お能は武士のものということになっていたというが、元禄忠臣蔵の御浜御殿ではないけれど、贔屓衆の手引きで庭の木の蔭から観たりしたのかも。

二段目とお能の関係を考えてみると、もっと面白いことがありそうだ。例えば、渡海屋では、田村を知盛が舞うし、大物浦では、船弁慶、碇潜の影響を受けている。それに知盛の六道の苦しみに関する述懐は大原御幸の詞章に似ている。また、渡海屋を前場と見立てて渡海屋銀平を前シテ、大物浦を後場と見立てて知盛を後シテ、相模五郎や入江丹蔵の注進をアイ(これは少々きついか。。)と、能の形式を利用しているようにも見える。

千本は二世竹田出雲、三好松洛、並木千柳が分担して書いたというが、誰がどの段を担当したかは明らかになっていないらしい。二段目を書いた作者は一体誰なのだろう。どうして、こういう形式で書いてみようと思ったのだろう。答えのない問いだけども、時間を超えて、そんな問いを発してみたい気がしてくる。

(追記) 前シテの面:朝倉尉、後シテ:三日月、二位尼:姥、大納言局:小面。。。面とか装束とか、何となく、つい、メモっときたくなるのだ。今後、なんの役に立つのか知らないけど。。。