どうも昔の人は、「砧(きぬた)」という言葉に風情を感じたらしい。


本来、お洗濯の一工程だから実際は年中やっていたのでしょうが、秋の夜から明け方にかけての時間帯、京に住む妻が遠くに遠征している夫を想いながら、寂しさ4割・恋しさ6割で打つのが、古典文学的にはGoodなようだ。


お能の「砧」だと、夫と妻の位置関係が逆になって、筑前にいる妻が、いつまでも京から帰ってこない夫のことに対する狂おしい思いを込めて、砧を打つ。おー、こわ!!


また、この前、文楽で観た競伊勢物語の春日村の段にも砧が出てきた。信夫という娘が実は紀有常の娘であり、諸々の理由から育ての母の小よしと別れることになった際、小よしは砧を、娘の琴と歌に合わせて打っていた。


この時、小よしと信夫の間は身分違いという口実で仕切りで隔てられ、お互いを見ることができない。ここで小よしは砧を持ち出して打ちながら合奏することで、さりげなく離れている寂しさを演出する。さすが、融の大臣が陸奥に来た時、忍ぶ摺に「陸奥のしのぶ文字摺 誰故に 乱れ染めにし我ならなくに」というキャッチ・コピーを作ってもらって、忍ぶ摺を売りまくっただけのことはある(注:本当は違うけど、この物語上は、そういうことになっているのです)


そして、実は、このシーンと同時進行で、この物語のクライマックスとなる大変な出来事が起こっていて、この砧&琴&歌の合奏の後は、それどころの話ではなくなる。


この場面での砧は、嵐の前の静けさのを演出するものでもあったのだった。