国立文楽劇場 初春文楽公演 第一部

関西元気文化圏共催事業 初春文楽公演 ◆第1部
花競四季寿
 万才 海女 関寺小町 鷺娘
増補忠臣蔵
 本蔵下屋敷の段
夕霧 伊左衛門曲輪文章
 吉田屋の段

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1919.html

金曜の夜、どうにか週末に大阪に行けそうだという見込みがついたので、土曜日の朝、新幹線に飛び乗った。本当は、土曜日に夜の部を観て、日曜日に昼の部を観たいと思ったのだが、チケット売り場で聞けば、日曜日の昼の部は、満員御礼とか。残念だけど、新年早々そーゆー目出度い理由なら、まあいいか。ということで、第1部のみの観劇となりました。


花競四季寿 万才 海女 関寺小町 鷺娘

「万才」が新春、「海女」が夏、「関寺小町」が秋の情景、「鷺娘」が雪の中、ということで四季の組曲になっている。とても凝ったドラマティックな作りで、面白い曲だ。


特に良かったのは文雀師匠の「海女」と「関寺小町」。


「海女」は、最初の海の書割に素浄瑠璃という演出がとっても凝っていて、いとをかし。後半、海女が登場して、恋に恍惚となった表情が、お能の松風のシテ、松風が、去っていってしまった在原行平のことを想いつつ恍惚とした表情で舞う様子と重なり、ちょっとどきっとした。もっとも、こちらの文楽の方は、最後はタコが出てきたりして、ちょっとチャリがかって文楽らしく終わる。この後、関寺小町も文雀師匠が遣うのだが、その海女と関寺小町のギャップがまた、よかった。


そして、関寺小町には、今まで見てきた文楽の演目の中で一番と言っていいほど、感動した。この関寺小町を観れただけでも、文楽の神様がいるなら(浄瑠璃神社か西宮今戎神社辺りにおはしますか?)、その神様に感謝したいくらいだ。

詞章やストーリー自体は、謡曲の関寺小町とは一致している訳ではないようだ。お能には、関寺小町、卒塔婆小町、鸚鵡小町、草紙洗小町、通小町等の一連の小町物と呼ばれる曲がある。草紙洗小町以外は老いさらばえて、零落した小町の伝説に基づいたものだ。この文楽の関寺小町も、そうした零落した老女の小町を主人公として、老いの姿をはずかしと思う気持ち、深草少将が百夜通ったという話等の伝説を散りばめて描いている。


私は今まで小野小町には、あまり関心がなかった。確かに歌は全くの素人にさえはっきりと分かる程の上手さだけど、安倍清行や僧正遍昭との贈答歌など、面白いが才能が全面に出ていて私のような凡人にはとっつきにくい感じがする。けれど、この文雀師匠の小町を観て、天才であるが故に他人には理解されない孤独の苦しみを抱えた人だったのではないかという気がしてきた。

小町には絶世の美女という伝説があり、歌から伺い知る限り才女でもあり、幾らでも世間並みの幸せを得ることが出来たはずなのに、安易に幸せを手にしようとせず、零落した。衰えて行く自分にも目をそらさず、「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」という歌を作った。例えば古今和歌集の中で小野小町の歌を改めて読んでみれば、彼女ほど自分の生の感情を、突き放して客観視して歌った歌人は他にないのではないかと思う。


才色兼備でありながら、落ちぶれてしまっても自分と向き合って戦っていた小野小町の姿に胸打たれるものがあった。私は年をとったら、出来れば、馬場あき子さんのような、ほがらかな永遠の女学生になりたいと思うけど、一方で、小野小町のような人生にも尊敬の念を持つ。俄然、小野小町に興味が出てきた。


最後は、小町は「柴の庵に帰りけり。柴の庵に帰りけり」という詞章と共に、まるでお能のように、その場を去るために歩き出し、舞台の暗転と共に消えた。私はその余韻に浸りたくて、そのまま帰ってしまおうかと思ったくらいだった。とはいいつつ、すぐ後の鷺娘も可愛かったから、結局見ちゃいました。


増補忠臣蔵 本蔵下屋敷の段


あの地図と虚無僧の装束ははそーゆー来歴で加古川本蔵の手に入ったのかーと関心しました。

しかしそういうことなら、九段目の話は、実は加古川本蔵の発意ではなく、ほとんど若狭之助の仕掛けたお話ということになる。それはそれで、主君としてどうなのだろうか?大星由良之助の家に加古川本蔵が行けば、無事に帰れないことは百も承知の筈だ。たとえ由良之助が本蔵の気持ちを分かっていたとしても、主君の仇打ちを妨害した人なのだから。それで、若狭之助は加古川本蔵の本心を探ろうとしたのか。そして本心を確認した上で本懐を遂げさせてあげようとする気遣いなのだろう。うーむ。これはこれで、それなりに感動するものの、やっぱり、加古川本蔵自身の考えで大星家に行ったことにして欲しかった気もしないでもない。

きっと戯作者の作意としては、当たりを取れる狂言ということで忠臣蔵の増補を考えようと思い、仮名手本忠臣蔵の中で比較的唐突に見える九段目の「加古川本蔵虚無僧姿にて現る」のシーンの解題をしてみました、ということなんだろう。だって、あのシーン、いきなり虚無僧姿で現れて、加古川本蔵がコスプレ?とか思ってしまいませんか、そうですか。


ところで、歌舞伎だと、仮名手本忠臣蔵の大序の桃井若狭之助は60代ぐらいの幹部がやるので、若い人ということを忘れがちなのだが、文楽ではちゃんと若い源太の首だった。紋寿さんの若狭之助が若いながらも立派な武士でカッコよかった。もちろん、玉女さんの加古川本蔵も渋くてカッコよい。それから、井浪伴左衛門を見て、既に元禄の頃から阪神タイガーズファンがいて、黒と黄の太い横縞の着物を着用していたことも初めて知りました(もちろんウソです)。


夕霧 伊左衛門曲輪文章 吉田屋の段

上方歌舞伎文楽に駄目人間なボンは沢山出てくるけど、一番好きなのは吉田屋の伊左衛門!七百貫目(イヤホンガイドによれば今のお金にして7億円ぐらいとか…!)の借金を作っておきながら、心中しようなどと物騒なことはこれっぽっちも考えたりせず、「この身が金ぢゃ。総身が冷えてたまらぬ/\。」とかいって、全然懲りてなくて、明るいのがいい。曽根崎心中の徳兵衛クンをはじめとする心中してしまった他の狂言の人達、来世では、是非、伊左衛門クンを見習ってね!

それから、喜左衛門は確かに良い人だけど、客とはいえ、若人に7億円も散在させるのは、大人としてちょっとどうだろう?浄瑠璃の常で金額は大げさな額となっているのだろうが。それとも、最後には身請けのお金がどっさり届くほどだから、7億円散在しても、痛くもかゆくもない、ビル?ゲイツみたいな大富豪のボンなのかも。うん、伊左衛門のあの能天気さを見ると、そんな気がしてきた。

和生さんの遣う夕霧が色気があって素敵だった。勘十郎さんの伊左衛門も拗ねてふて寝したり、夕霧のクドキのたびにコタツごと移動してはコタツに突っ伏したりするところが可愛い。それから冒頭のチャリも面白いし、大道具も何かと凝っている。これは何度でも見たくなりますね。いーなー、吉田屋。大好き。