国立文楽劇場 4月文楽公演 妹背山婦女庭訓(その3)

関西元気文化圏共催事業 平城遷都1300年記念事業協会=後援
4月文楽公演 吉田簑助文化功労者顕彰記念

通し狂言妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)

◆第1部 11時開演
 初 段 小松原の段・蝦夷子館の段
 二段目 猿沢池の段
 三段目 太宰館の段・妹山背山の段

◆第2部 16時開演
 二段目 鹿殺しの段・掛乞の段・万歳の段・芝六忠義の段
 四段目 杉酒屋の段・道行恋苧環・鱶七上使の段・姫戻りの段・金殿の段
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3173.html

しつこく妹背山のメモのつづきです。

三段目 太宰館の段

この後の妹山背山の段で起こる悲劇を引き起こす背景が提示される段。

定高が亡き夫の跡目を継ぐ太宰館。訪れた入鹿(玉輝さん)が、隣の紀の国の領主の大判事を呼びつける。冒頭から定高と大判事の言い争いがあり、両家が領地の遺恨により犬猿の仲であることが分かる。そこに入鹿が現れて、入鹿は大判事の息子、久我之助が天皇の妾者(おもいもの)であり入鹿が自分の後室にしようとしている采女の居場所を隠しているのではないかと詮議する。

この詮議は実はこれから始まる本題の詮議を導くためのもので、ここから入鹿は大和の国の領主定高と紀伊国の領主大判事の二者を自分の配下に置くため、巧妙なロジックで二人を進退極まった状況に陥れる。

まず最初に、両家の確執が実は見かけだけのもので実は申し合わせて天皇采女を匿っているのではないかという、あらぬ疑いをかける。その証拠として、久我之助が雛鳥と密通しており、両者が既に縁に繋がれている者同士であるから、両者とも詮議は免れないと指摘する。当然のことながら、大判事は「アヽイヤ倅が性根はいざ知らず。采女殿の儀はかつて存ぜず。わが詞に偽りあらば弓矢神の御罰を受けん」と見得を切る。定高も同様に「ヲヽわらはとても少弐が妻。家に換えて采女殿は匿はぬ。水責火責に逢ふとても知らぬ事は存じませぬ」と主張する。

定高・大判事の二人にこのように言わせてから、入鹿は「まづ汝らが面晴れなれば匿ひはせずといふ潔白に、定高は雛鳥を入内させよ。まつた大判事も覚えなきに相違なくば久我之助は今日より朕が目通りへ出勤させよ。きつとその旨心得よ」と難題をふっかけ、「もし少しでも容赦致さば両家は没収、従類迄も絶やするぞ。性根を定めはや行け」と追い打ちを掛ける。小松原の段ではまだ雛鳥と久我之助の恋の行方は成り行きによっては両家の和解の糸口になったはずなのに、この入鹿の言葉によって、決して成就できない悲恋となってしまうのだった。

また、結局、入鹿はこの罠を仕掛けることでどちらに転んでも両国を自分の配下に治めることが可能となり、意気揚々と馬上の人となる。


床は英太夫と團七さん。團七さんの三味線が重厚で迫力があった。ただ、英太夫の語りが三味線にかき消されて聞き取れない箇所が結構あった。この場合は、せっかく團七さんが重厚な三味線を弾いていらっしゃるので、どちらかといえば、その音量に見合った声量で聞きたかったかも。


妹山背山の段

仮床が出て、床は掛け合いとなる。床・手摺共に上手に久我之助・大判事、下手に雛鳥・定高がそれぞれ配され、その間には領地争いの境界線であり、七夕の棚機姫と牽牛の間を隔てる天の川の暗喩である妹背川が流れるという、この演目の一番の見せ場の段。


上手には山住居に蟄居する久我之助(紋寿さん)がおり、その川を挟んだ隣には久我之助を慕って作り病で仮屋敷で雛祭をする雛鳥(簑助師匠)と腰元達がいる。

久我之助は既に自分に采女を匿っている疑いがかけられていることを知っており、このことが二人の間に暗雲が立ち込めていることを知っている。一方の雛鳥側は未だ今後の運命を全く知る由も無く、ただただ久我之助に会うことだけを考え、泣き入っている。そのような雛鳥に対し同様にことの成り行きを知らない腰元共は、「したが申し雛鳥様。お前の病気をお暗示なされこの仮屋へ出養生さしなさつたは、余所ながら久我様にお前を逢わす後室様の粋なお捌き。女夫にして下さりませと、直にお願い遊ばしたら」と雛鳥を慰める。

そこに定高(文雀師匠)と大判事(玉女さん)がそれぞれの館に現れる。二人は申し合わせ、定高は雛鳥が入内を得心した時に、大判事は久我之助が入鹿の配下となることを承諾した時にそれぞれ盛の桜木を流すという合図を送ることを約束し、各々館に入る。

定高は、この時点ではまだきっと雛鳥をどうにかして入鹿に入内させようと考えていたのではないかと思う。定高は女ながらに亡き夫の跡目を継ぎ、夫のためにも家を存続させなければならないという大きな責務があった。また愛しい娘のことを考えれば、入鹿のふっかけた「入内か家の断絶か」という難題がある以上、結句、上手く雛鳥を納得させて入内させるのが彼女のためにも最善と考えたのだろう。当初は出来るだけ入鹿への入内を明るい話として持ちかけるために、さも雛祭が楽しいかのように振る舞いつつ、話を切り出したのではないかと思う。

しかし、当然のことながら、雛鳥の反応は「『はつ』とびつくりうろ/\と詞は涙、ぐむばかり」というもので、定高は雛鳥の久我之助に対する思いが真剣であることを知るのだった。そこで定高は、雛鳥が入鹿に入内しなければ久我之助は切腹しなければならないという事情を明かす。そして、雛鳥が入鹿に入内するれば久我之助は助かること、入内することになれば桜を川に流す約束であることを話し、「恋しと思ふ久我之助助けうと殺さうと今の返事のたつた一つ。貞女の立て様サア/\サヽヽサ見たい」と桜の枝を雛鳥に向けきまり、覚悟を迫るのだった。この場合、もし雛鳥が入内に納得しなければ雛鳥は死ぬしか無い。文雀師匠の定高の、何があっても雛鳥に入内すると言わせるという気迫と、簑助師匠の雛鳥の、その母の気持ちが痛いほど分かりつつも久我之助への思いは決して絶ち切れないという切ない思いが交錯する場面だ。結局、雛鳥は、「母様段々聞分けました。お詞は背きませぬ」と答える。


一方の背山では、久我之助が父、大判事に切腹を許される。「邪智深き入鹿、久我之助が降参せば命を助けん連れ来れと、情けの詞は釣寄せて拷問にかけん謀、責め殺される苦しみより切腹さすれば采女の詮議の根を絶つ大功」という考えからだ。自分の息子の介錯をすることになった大判事は「侍の綺羅を飾り厳めしく横たへし大小。倅が首を切る刀とは五十年来知らざりし」と悔み嘆くのだった。


妹背山の方では、入内の準備をはじめようとする定高に対し、雛鳥が「女夫一対いつ迄も添い遂げるこそ雛の徳。思ふお人に引離され何の楽しみの女御后。茨の絹の十二単、雛の姿もエヽ恨めし」というと、女雛を落として首を落とし、はらはらと涙を流す。

これを見た定高は、恐らく雛鳥が仮に入鹿に入内してもすぐに自害してしまうと悟ったのだろうか。定高は、「娘入内さすといふたは偽り、まつこのように首を切って渡すのぢやわいなう」と前言を翻す。そして久我之助までが自害することの無いよう、入内を得心した印の桜を流すこととし、「祝言こそせね、心ばかりは久我之助が、宿の妻と思ふて死にや、ヤ」というと二人はお互いに引き寄せ合って泣き崩れるのだった。二人は母一人娘一人でお互い最大の理解者だったのだろう。話はそれてしまうけど、4月文楽公演パンフレットによれば、近松の妻と娘についての記事が浄瑠璃作者・福松藤助の「浪華行日記」にあるという。そこには「へっついや(竈屋、半二の家業)とおもひきや。半二あれば女房あり、女房あればよき娘ありて只、親父となつたりけり」と書かれている。簡単な記事だが、半二をしっかりと支える妻と慎ましやかな良き娘の姿は、定高と雛鳥を彷彿とさせるものがあるように思えてしまった。

そして雛鳥無事の知らせの桜を川に浮かべると、雛鳥は切り殺され、久我之助は自害するのだった。定高は大判事に雛鳥の首を久我之助の息がある内に渡し、嫁入りにすると大判事に告げる。そして、雛道具を川に流し潅頂するといい、雛道具をさながら嫁入り道具のように妹背川に流しながら、娘に最期の死化粧を施すのだった。この時の愛しそうに雛鳥の死に化粧をする定高だったが、この死に化粧は嫁入りの化粧でもあり、定高は娘を誇らしく思っているようにさえ見えた気がした。かくして、二人の死を以てして両家の不和は解けるのだが、最もそのことを望んだ雛鳥と久我之助は、既に死出の旅に立っており、定高と大判事ばかりが残ったのだった。


ここで、床妹山の清二郎さんの三味線に加えて寛太郎くんのお琴が入るのだが、10日に聴いたときは、三味線とお琴が1音近く音がずれていてのけぞりそうになった。多分、清二郎さんが舞台に出ている1時間ぐらいの間に清二郎さんの三味線の方が音が自然と下がってしまったということではないだろうか。この場合、舞台で演奏しながらお琴の方をチューニングするのは構造上断然不利なので、三味線側が合わすしか無いのだけど、清二郎さんがほんの数拍の間に大方音をあわせてしまったので、かなり感動した。演奏しながらチューニングするなんて至難の技だ。それにその時、寛太郎くんが全く動じず大きな音で演奏していたのにも感心した。基準となる方の楽器(この場合、琴)がある程度の音量で弾いてくれないと清二郎さんがチューニングしにくくなってしまうのだが、実際、あの場で音の合ってない琴を堂々と弾くというのは並大抵の神経では出来ない。仮に小心者の私だったら泣いちゃうね。

それにしても、こんなところに難関が待ち受けているとは思わなかった。クラッシックの楽曲だったらお客さんの注意をよそに反らしている間に音合わせできるような回避策を入れたりするのが普通だ。けれど、この雛流しの場面の三味線と琴の曲を作った昔の三味線さんは、おそらく回避策を採るなどということは思いもしない直球勝負の人で、万が一音がずれていてもすぐさまリカバリーする自信があったのだろう。また、後の歴代の三味線弾きの人々も誰も上手いことごまかそう等とはせず晴れて現在まで難所のまま残っているのだから、すごい。物語に感動し、演奏の陰のトラブルシューティングに感動し、大変忙しい段切りでした。


床は、背山側が住師匠、文字久さん、富助さん、錦糸さん、妹山側が綱師匠、呂勢さん、清治師匠、清二郎さん。もう、豪華な競演すぎてクラクラしました。敢えていえば、楽しかったのは冒頭で背山側の富助さんと妹山側の清治師匠の表現の違い。それから、呂勢さんが後半、アクセルがかかって大変素晴らしいことになっていました。ああ、毎日あんな風に感情を爆発させて一日を終えたら良く寝られそう…。


というわけで、まだつづく予定…?