国立劇場小劇場 5月文楽公演(その2)

<第一部>11時開演
祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)
  金閣寺の段 爪先鼠の段
太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)
  浅草雷門の段 新吉原揚屋の段
連獅子(れんじし)<第二部>16時開演
新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)   
  野崎村の段 油屋の段 蔵場の段
団子売(だんごうり)
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3318.html

先日のつづきです。


連獅子(れんじし)

お能の「石橋」の小書「連獅子」というよりは歌舞伎の「連獅子」に取材した景事ということになるのだろうか。もちろん、歌舞伎の「連獅子」自体はお能の「石橋 連獅子」を素材にした松羽目物だけど、歌舞伎も文楽も独自の演出を加えているので、文楽の「連獅子」とお能の「石橋 連獅子」との共通点はせいぜい獅子の親子が出てくるとか、白頭、赤頭を使っているとか、そのくらいになってしまっている。文楽の「連獅子」は、母が出てきてホームドラマになっているあたりが、とっても文楽チック。

一応、前場後場のような構成になっているのですが、前場は人形の振り付けがイマイチ。振り付けが人形の良さを活かしきれていない感じ。細かい所作や狭い舞台内をグルグル立ち位置の移動する場面が多いので、人形でやるとゴチャゴチャした印象の方が強くなってしまう。歌舞伎役者があの踊りをしたら多分キレイにまとまると思うのだけど。

一方の後場は、人形がキレイにきまる型とか、人形にしか出来ない所作が要所要所に入っていて、明らかに後場の方が振り付けの出来が良いように思う。何故こんなことになっているのだろう。曲そのものは景事らしく楽しくまとまっているので、後場だけの半能にするとか(短すぎるか…)、前場の振り付けを新しくするとかしたら、きっともっと楽しめそう。


<第二部>

新版歌祭文(しんぱんうたざいもん) 油屋の段 蔵場の段

野崎村の段については先日書いたので、油屋の段と蔵場の段について。
油屋の段では、久松(清十郎さん)の乳母お庄(和生さん)や、実はお庄の子でだはの勘六(玉也さん)といった新しい登場人物が出てきて、それぞれに久松のために働く。そこに秀逸な道化の役回りをする小助(勘十郎さん)が底の浅い企みをして、笑いもある起伏に飛んだ段だ。そして、蔵場となるのだが、最後、鈴木弥忠太との結婚を説得されたお染が衝撃的に井戸に飛び込んだのを見て、久松は蔵の中で自殺するという衝撃的な結末となって、唖然。


それにしてもつくづく不思議なのは、これだけ久松の周囲の人々が活き活きと描かれているのに、久松がどういう人間なのか、何を考えているのかはここまで観ても一向に分からないこと。半二が久松のことを上手く書けなかったという可能性も無くはないけど、これだけ周囲の人々の喜怒哀楽を鮮やかに書いているのだから、久松だけ書けないということは無いだろう。そんなことを思いながらパンフレットの「鑑賞ガイド2」というページを見ると、「(紀海音の「袂の白しぼり」や管専助の「染模様妹背門松」などの先行作品と比較すると)お染久松の恋に、宝刀詮議にまつわるお家騒動の筋をからませるという、近松半二らしい独特の技巧をこらした脚色に特色がああり、お染久松の恋よりも二人を巡る人々を中心に物語が展開します」という一文があり、興味深く思った。となると、意図的に久松のことを書きこまなかったという可能性もあるように思えてくる。つまり、半二は恐らく、久松とお染の周囲の人々の久松・お染に対する思いや献身を描きたかったのではないかという気がしてきた。そうすると、その場合、なまじ久松が個性的であると話が複雑になるため、お能におけるワキが受動的であるのと同じように、久松も受動的な性格なのかもしれない(お能のワキの役割はもっと多様なので、語弊があるかもしれないけど)。もっと文楽らしい例えでいえば「紛失したX」("X"には、「刀」とか「書状」とか「茶入」とかお好きなものを代入して下さい)のようなものかもしれない。「紛失したX」(=久松)をめぐって周囲の人が様々な働きかけをするけれども、X自体は何もしない。

もしそうなら、久松というのは、おみっちゃんやお染に恋焦がれられたり、お庄に対して子供のように振舞ってしまうほど、心優しい、大人しい性格でなければならないけど、それ以上の部分はミステリアスに隠しておき、受身で流されていくというのが正しい久松像なのかも、等と思った。もう一度観たら違った感想を抱くかもしれないけど、今回は一回しか観れず残念。


団子売

団子売の前の蔵場の段は唖然としたまま幕となったので、団子売が無かったら暴動が起きるところでした(?)
お陰様で楽しく追い出されました。床はまたまた清志郎さんの気合の入りっぷりがすごかったのでした。オーケストラであれだけ気合を入れるのといえば、パーカッションぐらいだから、そう考えると、やっぱり三味線というのはメロディ楽器ではあるけれども、打楽器的要素がかなり強い楽器なんだなと思いました。とにかく、景事には常に清志郎さんが入っていて欲しい今日この頃なのでした。


というわけで、私の5月の文楽月間は終わり。あうるすぽっとの相子さん&清軌さんのワークショップも行きたかったけど、都合により断念。残念無念。

実は、このメモを書いているのは、5月23日。この週末も第一部を見ました。床も人形も15日よりずっとずっと進化していて、本当に楽しかったです。何といっても、「祇園祭礼信仰記」金閣寺の段の清治師匠の三味線。特に、井戸に投げ入れられた碁笥を東吉が取り戻す場面の清治師匠の三味線は人間業とは思えない。それから、勘十郎さんの爪先鼠の段の圧倒的に美しい雪姫。玉也さんの深い人物造形の大膳。呂勢さんの、華のある豪快な語り。さらに、「碁太平記白石噺」の文雀師匠のおきゃんでいじらしいおのぶ。証拠がなければ姉とは認めず!と言っておきながら、甘えたそうに膝の上で着物の上で手を交互に外側に滑らせながらもじもじする様子や他の遊女達にからかわれてぷんぷん怒る様子は本当に子供らしくて可愛らしかった。考えてみれば、私は合邦庵室の段で文雀師匠のおきゃんで一途な玉手御前を見て、文楽にはまったのでした。それから、おのぶから惣六まで変化自在な島師匠の語り。それからそれから…と書き出したらきりがないけど、本当に心から楽しみました。今、胸が一杯なので、この思い出に浸ったまま、次の文楽鑑賞の機会である清治師匠の紀尾井ホールの復曲の会を楽しみに待とう。


そういえば、文楽公演のパンフレットの巻頭エッセイが能楽師シテ方宝生流の重鎮、近藤乾之助師でした。

文楽を含め、様々な語り物を鑑賞されていて、さすが名人は心がけが違うのだ。興味深かったのは「これは大変失礼な言葉かも知れないのですが、文楽では何となく野暮ったさが感じられるように思います。人形の遣い方、語り、舞台上で繰り広げられる戦いが素朴というか、土臭い感じ。私はどんなに美しい人でもその中にちょっと野暮ったいものが見られると親しみやすくて好きなのです。文楽もそこがとてもよいと思います。」という指摘。能楽師の第一人者ならではの明快な表現で指摘されていて、確かにそうだなと思った。

お能は抽象芸術であり、芸能のエッセンスが詰まったものであり、昔から古典であり且つ決して古くならないもの。例えていえば、金とかダイヤモンドのようなものだ。一方の文楽は、どこまで行っても泥臭さがつきまとう。でもその中に――三味線の旋律、太夫の語り、人形の所作、三業一体となった調和の中に――泥中の蓮みたいにお能に負けないくらい洗練されたものや人間の根底に訴えかけるものを見出す時がある。おしるこに塩をひとつまみ入れたら甘味が引き立つのと同じように、そういう泥中の蓮を見出す経験をしてしまうと、最初から洗練されていると分かっているものを観るより一層うれしく感じてしまう。最近、私は、お能を観るほど文楽が面白く感じ、文楽が面白く感じるほどお能も面白く感じるという堂々巡りをしている状況なのだけど、このエッセイを読んだら、何故そうなのか少し分かった気がした。


それにしても、また乾之助師のお能を観たくなった。7月に国立能楽堂で袴能があるみたいなので、楽しみ。