紀尾井小ホール 清治 近松復曲三夜 第二夜

事前に「津国女夫池」の詞章を岩波の新日本古典文学大系近松浄瑠璃集 下」で見つけたのでざっと読んでみたところ、かなり面白く、賞賛する気満々で馳せ参じた。実際に素浄瑠璃としてかかると思っていたよりもっと面白く、大変楽しかった。人間関係が若干入り組んでいるけれども、今回拝聴した段は素浄瑠璃で聴いても特に混乱することもないし、人形付きなら更に分かりやすいのではないだろうか。本公演でかかる日が楽しみ。


対談 清治師匠 山川静夫さん

清治師匠はそもそも鳥越文蔵氏と渡辺保氏の奨めで、「津国女夫池」の復曲を思いつかれたそう。そして、呂勢さんがご覧になっていた文楽劇場の資料室にある竹本錦大夫という方のお稽古の本にその朱章(三味線の譜)があることを知り、その譜を元に復曲されたとか。そもそも「津国女夫池」は義太夫のお稽古では伝承されていたけれども、文楽ではとうの昔に上演は途絶えていたそう。すごい、宝探しのようなお話。そういう曲の素浄瑠璃が聞けたことに感動。

面白かったのは、三味線の譜。詞章の右隣に朱書で指で糸を押さえるポジションを書き、さらにその右隣にリズムを書くらしい。驚くのは、三味線譜には休符というのが無いというお話。邦楽は特に休符というか間というものを重視しているんじゃないかと思うし、そもそも休符がないのにどうやって拍子をとるのだろうと思うけど、無いものは無いらしい。清治師匠は、ご自身で丸等の記号を使って休符とされているとか。

そういう話を聞くと、今更ながら五線譜とかスコア(全パートの楽譜を合わせたもの。義太夫節太夫の本と三味線の譜はバラバラらしい)ってすごい発明だと思う。五線譜なら現代音楽で音階以外の音を出すようなものでないかぎり、どんな曲でも一応、表現可能&再現可能だし。そしてこれらのお話から推測するに、もしある義太夫節の曲を再現可能な形で記録・保存しようと思ったら、太夫の本と三味線の譜と録音された音源の三つが必要、ということになるのだろうか。

とにかくそういう訳で、朱章を見ても音は分かるがリズムが不十分にしか分からないというような状況だったようで、清治師匠もその点に苦心されたようだ。そこで、同じ譜を違うように弾くことができるという実例を清志郎さんが登場して実演。さすがにいつものように気合いを入れて弾かれるということはありませんでしたが、好青年らしい笑顔で客席の女性達のハートを鷲掴みされていました(多分)。

それから、もう一つ、非常に印象的だったのは、本曲とは直接関係ないけど、復曲つながりで山川さんが読まれた野澤松之輔の山川さん宛の手紙。
自身が復曲するときのことが述べられていて、「三味線の譜は清書されたものより、お稽古や公演を聞きながらの走り書きの譜や、作曲時の試行錯誤の後が残る第一稿の方がずっといい。その臨場感は復曲をする上でとても参考になる。先人の苦労を尊重し、その跡を出来るだけ残したい」という趣旨だった。私が過去に聴いたことのある松之輔が補曲した曲というのは、大抵、非常に面白い、華麗な手がついていたので、むしろ先人の作品を越えて200%楽しくするぐらいの意気込みで作曲していたのかと思っていた。けれども、松之輔の先人を想う気持ちを聞いてちょっと感動。


浄瑠璃「津国女夫池」

文楽5月公演の「祇園祭礼信仰記」の「爪先鼠の段」で真柴久吉が金閣寺の究竟頂に幽閉されている慶寿院を助ける時の詞に、「信長が諌めにより、慶覚公にも還俗あり、義照公と諱(いみな)を改め、足利の家を起さんと、軍勢催促最中なり」というものがあるけれども、まさに、あの祇園祭礼信仰記と同時進行で、「その時、義照公側では…」というお話(もちろん、本来は近松作のこちらの方が先行作なので、祇園祭礼信仰記の方が、「その時大膳側では…」のお話といった方がよいのでしょうが)。


文次兵衛住家の段 千歳さん、清二郎さん

この段の主人公の三木之進と清滝が御台にお供して三木之進の両親の住む大阪福島に道行するところから。三木之進と恋人の清滝は三木之進の両親から二人は実は兄妹と言われて驚愕する。そこに現れた兄妹猫が妻恋の末、庭の古井に落ちる。その様子に自分達の行末を見る思いで、自害に向かうところまで。

出だしは地味に始まったので、このまま付いていけるか心配になったけど、中盤以降は特に三味線の聴かせどころが多くて、清二郎さんの三味線に聞き惚れてしまいました。特に終盤の猫達の自滅から最後まではスピード感があって、ノリノリなのでした。


女夫並び池の段 呂勢さん、清治師匠

三木之進と清滝の述懐から、二人で女夫池にて自害することを決心し、自害せんとする。そこに親たちと御台が追いつくが、既に二人が自害したものと誤解する。嘆いた親たちは、実は二人が本当の兄妹ではない理由を切々と語る。それを聞いた三木之進達は喜び、母の前夫の敵を討つと宣言するが、実は、母の前夫を殺害したのは、三木之進の父であり母の夫の文次だった…。

事前に詞章を眺めた時は、どんでん返しに次ぐどんでん返しというのが印象的で感動的なお話という感じはあまりしなかったのだけど、素浄瑠璃として聴いてみると、非常に感情的に揺さぶられるものがあった。特に、文次は妻の前夫を殺害するという罪を犯してはいたけれど、それ以外の点では良い夫であり立派な父親であったのだろうと思う。それが、このような急転直下の展開でいつかは避けられないと思っていた罪の告白をしなければならない状況に追い込まれ、潔く正直に告白したこと。そして、その妻は、前夫よりも今の夫との人生の方がずっと長いにもかかわらず、前夫への義理立てと今の夫への愛情の板挟みとなって自害せざるをえなかったという状況。そして残された三木之進と清滝の、悪意はなかったとはいえ、自分達の縁が両親を死においやってしまったという悲しみ。そういった悲劇が、呂勢さんの語りと清治師匠の三味線により、浮き彫りとなった。いつもは悲劇であっても良いパフォーマンスだとニコニコしてしまうのを抑えられないのだけど、今回はむしろ悲劇にじーんときてしまって、拍手すらしたくないというくらいの感動なのでした。

そして、こういう近松の心理描写の凄さを思うと、彼が後年、何かと約束事の多い時代物より、世話物の特に心中物やら女殺油地獄のような作品を書くようになったのは、彼の本意が和歌や謡曲から引いた美辞麗句よりもそういった人々の心の葛藤を描くことにあったからなのかも、と、思えて来るのでした。


というわけで、来年の曲も既に候補が二三、決まっているそうで、次回も心待ちにしています!
…とかなんとか言ってるうちに、今年前半も終わってしまった。後半はどうなることやら。