国立劇場小劇場 9月文楽公演 第一部

<第一部>11時開演
良弁杉由来(ろうべんすぎのゆらい)
    志賀の里の段、桜宮物狂いの段、東大寺の段、二月堂の段

三島由紀夫=作、織田紘二=脚色・演出、豊竹咲大夫=作曲、鶴澤燕三=作曲、藤間勘十郎=振付、国立劇場文芸課=補綴
鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)
    五条橋の段、五条東洞院の段
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3486.html

今月は実家に帰らなければならない用事が何度もあり、チケットを何枚か無駄にし、かろうじて一部を全部観劇できたのが千穐楽となってしまった。でも、観ることができて本当によかった。

何と言っても一番感動したのが、「良弁杉由来」の二月堂

特に和生さんの良弁上人が良かった。08年2月に、女義の竹本駒之助師匠の語りで和生さんの良弁上人と文雀師匠の渚の方を観たけれども、確か、和生さんは良弁上人は初役とかで、動きにもイマイチ確信が無いように思われるところもあったような気がした。そういう意味で、その時は、良弁上人の物語というよりは、渚の方の物語という風になっているように思えた。それはそれで、そもそも「良弁杉由来」は鷲に攫われたという貴種流離譚お能の「隅田川」を混ぜたようなストーリーだから、渚の方が主人公だって、別に考え方次第だとは思ったけれども。

ところが、今日、良弁上人は、まるで生きている本当の僧のようだった。二月堂に向かって拝む後ろ姿には、生死も居場所も分からない父母を心から恋い慕い、一度で良いから会いたいという悲痛な願いを片時も忘れたことのない、純粋な気持ちがにじみ出ているように感じられた。そして、杉の木に張り付けられた書付を見た時のはやる心、渚の方の話を聞きながら確信を深めていく様子など、つい、良弁上人の気持ちになって観てしまうのだった。さらに、良弁上人が、渚の方に「そなたがたヾ今申されし、錦の守りは、もしやそも、この品にてはあらざるか」と言って懐から取り出した守り袋を渚の方に差し出す時、お互いに親子ということが分かり思わず渚の方に抱きつく時、杖を付いて帰ろうとする渚の方に「恐れながらこの輿へ」と輿を勧める時、良弁上人は、きっとこれまで何千回も何万回もこの場面を夢見ていて、今日、このように実現した嬉しさをしみじみ噛み締めているに違いないという気持ちにさせられた。本当に素敵な良弁上人だった。

また、文雀師匠の渚の方も相変わらず、素敵だった。私は文雀師匠の渚の方が大好きなのだ。文雀師匠の渚の方もまた、駒之助師匠の時とは少しイメージが異なり、駒之助師匠の時は、良家の奥方という片鱗を残す可愛らしい渚の方だったけれども、今回は、桜宮物狂いの段もあったせいか、狂う程に悲しみを湛えた老女という風に感じられた。

そして、綱師匠と清二郎さんの床も言わずもがな、とても素晴らしかった。来年の襲名公演が本当に楽しみ。

それにしても、今回、一度しか拝見できなかったのは、返す返す残念。可能性は低いでしょうが、またいつか、同じ人形と床の配役で二月堂を観てみたい。

「良弁杉由来」は、他に桜宮物狂いの段が面白かった。ちょうど、お能で言うと、「隅田川」に当たるストーリー。舟人から子供が死んでいると聞かされるのではなく、生きていると聞かされるところが違うし、そこが文楽らしい。床も清治師匠と呂勢さんで堪能しました。


もう一つの、「鰯売恋曳網」は、三島原作の楽しいお話。玉三郎丈&勘三郎丈の歌舞伎の方は、確かチケットが取れず観られなかったので、今回の文楽が初見でした。全然、新作の違和感のない作品でした。これはもう、レパートリーに入れて欲しい。以前、咲師匠が、様々な既存の旋律が使われているとおっしゃっていたけれども、私は数カ所しか分からなかった。もっと沢山聴かないといけないな。また、清十郎さんのブログを拝見したところ、振り付けが藤間勘十郎師で「面白く拵えてある」と書いてあり、実際、中々楽しい気分になる振り付けでした。しかし、あまりに振り付けが素敵すぎるので、この二人(特に勘十郎さんの遣う猿源氏)、鰯売より踊りのお師匠さんになった方が身入りがいいのでは、等と思ってしまいました(?)。それにしても、「猿源氏」ってこういう話だったのか。古典全集や江戸期の読本集等で「猿源氏」というタイトルは見るけれども、中身は知りませんでした。色々、読本などをあさってみると、今まで知らなかった楽しいお話があるのかも。


というようなわけで、楽しい文楽9月公演でした。特に今回は全部を観ることが出来たわけではないので、「鰯売恋曳網」が終わって幕が引かれても、劇場から離れがたく、椅子から立ち上がるのが苦痛だった。本当に文楽ってどうしてこんなにずるいくらい楽しいのだろう。太夫の語りは作り話だし、三味線だってその作り話に加担しているだけだし、人形だって本物の人間ではないのに(とゆーか、本物の人間が三人がかりで一体のフェイクの人間を動かすのだ)、そこに何故、こんなに強烈な喜怒哀楽が生まれるのだろう。本当に不思議です。


なお、写真は、奈良東大寺の二月堂と良弁杉です。去年奈良に行ったときに偶然、このアングルを発見しました…というのは嘘で、「良弁杉由来」は明治期の作品だから、「二月堂の段」の書割になっている風景は絶対に残っているに違いない!と思い、探して見つけました。