歩むに暗き、くれ竹の

文楽の「妹背山婦女庭訓」の「道行恋苧環」は、詞章だけ読んでも本当に名作だ。掛詞、縁語が随所にあるし、連歌的な詞の連想によって次々と展開していく情景に幻惑させられるし、謡曲や和歌からキーワードとなる歌詞(うたことば)を数多く引いていて、「妹背山」の世界に沢山のイメージを重ねることで、作品世界の陰影をより深くしている。

ちなみに引かれている謡曲は、「葛城」や「三輪」、「定家」等々で、詞章の中にでてくるイメージを喚起するような歌詞の元となる詞章や本歌は大体このあたりに出てくる(ただし、「京鹿子娘道成寺」を彷彿とさせる、「園に色よく咲く草時は、男女になぞらへて言はゞ、言われうものか、夕顔の」で始まる花尽くしの歌詞のところは、劇中劇ならぬ曲中曲のような感じで、ここだけ別の歌や連想が響かせてある)。


その中で、私が気になってしまっていたのが、「くれ竹(呉竹)」というキーワード。詞章の冒頭の方に出てくる詞で、蘇我入鹿の妹の橘姫が正体を隠して求馬(=淡海公)のところに夜な夜な通ってくるという箇所に、

歩むに暗き、くれ竹の、茂れる中を分け行けば、松の木の間にちら/\と、見えつ隠れつ、帰るさの、跡を求馬が慕ひ来て、互にはたと行き合ひの、星の光に顔と顔。

というような形で出てくる。詞章だけ読むと、「歩むに暗き」に導かれて「くれ竹の」が出てきていて、「呉」と「暮れ」が掛詞になっているんだろうな、というぐらいにしか読めない。けれども、実際の舞台では、この前後は並びの太夫と三味線がユニゾンになっているのに、「くれ竹の、茂れる中を分け行けば」の部分のみソロで、曲調もここからがらりと変わり、かなり印象的な旋律となっている。また、この箇所に至る前までは舞台上は浅黄幕が張られているけれども、ここで拍子木が鳴るとともに浅黄幕が切って落とされて、橘姫が舞台中央に現れる。

どうも、「掛詞や文字数の帳尻合わせで適当に『くれ竹の』と書いたら、たまたま印象的な場面の冒頭になってしまった」というよりは、この「くれ竹の」というキーワードも、作品の世界観を作るために、それなりに重要な役割を果たすために出てきたという気がしてならない。だが、それでは一体どこから来た詞なのだ、と言われても思い付かず、何となく、頭に引っかかったままになっていた。


ところが、先日、「日本絵巻大成20 なよ竹物語絵巻 直幹申文絵詞」(中央公論社)の「なよ竹物語絵巻」の方を眺めていたら、「くれ竹の」の古歌にぶつかった。

早速、歌をここに引用したいところだけれども、「なよ竹物語」のストーリーが分からないと、この物語に出てくる「くれ竹の」の意味やどの程度「恋苧環」と関連付けられそうか分かりにくいので、簡単に物語の粗筋を書くと、こんな感じになっている。

ある時、宮中で蹴鞠が行わる。その様子を物陰から眺めていた正体不明の絶世の美女を後嵯峨上皇が見初め、上皇は六位の蔵人という人にその女の跡をつけさせる。六位の蔵人は、やっとのことで女に追いつくと上皇の思いを伝える。女は恥ずかしがって、「くれ竹の」とお伝え下さい、としか言わずに去っていってしまう。

後嵯峨上皇は、その顛末を聞くと、近侍の男房・女房等に「くれ竹の」の古歌を探させる。そして、『大和物語』第九十段や『新勅撰和歌集』(巻第十二・恋二)にみえる、修理の君という女性が色好みで知られた元良親王の消息への返しとして詠んだ次のような歌があることを知る。

たかくともなにゝかはせむくれ竹の 一夜ふたよのあだのふしをば
(いくら身分の高い方のお志とはいえ、一夜二夜のにわかな逢瀬では、いかに頼むことができましょう)

そこで、上皇は女に消息をしたため、その中に次のような歌を書きおく。

あだにみし夢かうつゝかくれ竹の おきふしわぶる恋ぞくるしき
このくれ(暮れ)にかならず

(うつろな夢を見てしまったのか現実だったのか、寝ても起きても、この恋のために苦しい思いをしています
…今宵、必ずお会いしたいのです)

この後、まだいくつかのエピソードがあるのだが、端折って書くと、結局、この女は上皇の歌に応じて、その夜、上皇のもとに現れたのだった。

おおお、「くれ竹の」という言葉がキーワードになっているし、「恋ぞくるしき」というフレーズ、夜に女が現れるというモチーフも、「恋苧環」にぴったりではないの!…等と思いながら、「日本絵巻大成20 なよ竹物語絵巻 直幹申文絵詞」の解説を読んでみると、結論を付けるのは、少し早そうなことが分かる。

というのも、私はたまたま「なよ竹物語絵巻」に当たっていたので、「くれ竹の」という歌だったが、これより早い時代に書かれた『古今著聞集』や、後の『群書類従』には、この話と大同小異の話が掲載されており、そこでは「くれ竹の」が「なよ竹の」となっているのだ。さらには「なよ竹物語」の「なよ竹」というのは、この「なよ竹の」から来ているとされているのだという(ただし、『群書類従』の方は、この物語の落ちの部分に由来する「鳴門中将物語」というタイトル)。

「妹背山婦女庭訓」の作者、近松半二などはどう考えても『古今著聞集』は守備範囲だったに違いないと思われるし、そう考えると、もし「くれ竹の」が「なよ竹物語」から来ているのなら、なぜ、「道行恋苧環」では、「なよ竹の」ではなく「くれ竹の」が採られているのか、という疑問が湧いてきてしまう。

そう思いながら「なよ竹物語絵巻」の解説を読み進めていると、「なよ竹」と「くれ竹」の違いについて、述べている箇所があった。

 「なよ竹」と「くれ竹」は、もともと、別のものなのである。「なよ竹」は弱竹(なよたけ)と書き、<なよなよとした竹><若竹>、または「めだけ(山竹)」の別名である。これに対して、「くれ竹」は呉竹(くれたけ)と書く。「くれ」というのは、中国伝来の意を表すことば。「はちく(淡竹)」の異名である。また、御所の清涼殿の庭に植えてある竹を、呉竹と呼び、その場所を呉竹の台と称している。かように、二つは、まったく違う意味のものである。
(P.100)

これを読むと、「呉竹」という言葉には、「中国伝来」というイメージと、「御所(=御門)」のイメージがあると言えそうだ。

恐らく半二達は「なよ竹物語」に出てくる「なよ竹の」の歌は、『大和物語』第九十段の修理の君と元良親王のエピソードにある「くれ竹の」の歌が元となっているということを知っていたのではないだろうか。そして、「なよ竹の」と「くれ竹の」の両方の歌のバージョンがあることを知った上で、求馬が天智天皇側であることから「御所(=御門)」のイメージのある、「くれ竹の」を採ったのではないだろうか。


と、ここまで考えて、もっともっと大前提の部分を考え忘れていることを思い出した。「求馬(=求女)」という名前は、七夕伝説の牽牛の別名。「妹背山女庭訓」では、重要なモチーフのひとつとして七夕伝説が繰り返し現れており、ここでも「くれ竹の」というのは、中国伝来の七夕伝説を彷彿とさせるために提示された言葉なんじゃないだろうか、ということに思い至った。

実際、「呉竹」という歌詞は、七夕の日の出来事を描いた謡曲「関寺小町」にも「星祭るなり呉竹の」という形で出てくるし、笹に願い事を書いた短冊を飾る七夕の行事は、江戸時代に庶民の間で盛んになったというし、江戸時代の観客は、むしろ「呉竹」という詞を聞いて、七夕の方を強くイメージしたのかもしれない。


…などと、「くれ竹の」という詞ひとつで、いろいろ妄想の羽を広げてしまうのでした。

半二先生、深すぎます!