紀尾井ホール 江戸音楽の巨匠たち(10) 山田検校(筝曲)

江戸音楽の巨匠たち〜その人生と名曲〜(10)
山田検校箏曲
■出演 竹内道敬、徳丸吉彦(対談)、山登松和、田中奈央一(箏)、千葉真佐輝(三絃)、山勢松韻、武田祥勢、奥山益勢(箏)、山勢麻衣子(三絃)
■曲目 「ほととぎす」「葵の上」
http://www.kioi-hall.or.jp/

前々から舞台以外で演奏された音曲も聴いてみたい気がしていて、これはよい機会と、全く何の前知識も無いままにお伺いしてみました。

2007年から毎年三回づつ行われているようで、今シーズンは山田流箏曲山田検校、次回の常磐津の五世岸澤式佐、次々回の長唄の十世杵屋六左衛門。最終回の長唄は気づいた時は既にチケットは完売。このシリーズでは、既に、一中節、豊後節、宮薗節等、名前しか聞いたことのないものを採り上げていて、もっと早く気が付けば良かったと少し後悔。


対談

徳丸吉彦氏と竹内道敬氏による、山田検校の生涯、山田流箏曲の特徴、当時の江戸の音曲事情等のお話。

山田流箏曲の特徴は、山田検校自身が謡曲を習っていたこと、箏曲の正統性に対する自負などから、謡曲の影響を強く受けているという点。それから、江戸で栄えたので、唄の詞章に江戸や関東地方の地名や情景が採られているという点。さらに三味線の奏法の影響も受けているという点。たとえば、三味線の奏法で、キザミ、オトシと呼ばれる、同じ音程を最初はゆっくりと弾き段々テンポを上げていき劇的な印象を与える効果を持つ奏法があるが、それが箏曲では山田流にのみ採り入れられて「流し」と呼ばれているのだそう。

おもしろかったのは、竹内先生の、『浮世風呂』(式亭三馬)に山田検校の声に関して「どうしてあのやうな声」というような記述があるというお話。当然、「あのやうな声」というのはどういう声か気になる。竹内先生の推理では、当時女性の間で流行っていた義太夫等をはじめとする上方唄は音程が低かったが、その女性たちが山田流箏曲にどっと流れたということ、当時、上方の低い音域の音曲の流行とは反対に江戸では高い音域の音曲が流行っていたこと(大薩摩も廃れて長唄に吸収されたこと)等から推して、山田検校の唄は、比較的音域が高く、女性にも歌い易かったのではないか、とのこと。なるほど、それはありうるかも。吉永先生は「否定は出来ないが、積極的に肯定も出来ない」と真顔で受けて、妙におもしろかった。式亭三馬も、まさか自分の書き流したところが、後世、こんな風に色々詮索されることになるとは、よもや思わなかっただろう。分かっていたらもう少し親切に書いてくれたに違いない。で、ふと思ったのだけど、声というのは身体的特徴にかなり左右されるし、形質が遺伝して親子・親族で声が似ているということも結構あるから、実は子孫の方の声を聞くと、意外に想像がついたりして(?)。

そして、『浮世風呂』には一体どんな風に書いてあるのだろうと思い、後日、図書館で眺めてみると、これが結構おもしろそうだった。前後をちゃんと読んでいないのでよく分からないのだけど、お初ちゃんという女性に、もう一方の女性が、「この前、山田検校の唄を聞いたけど、『どうしてあのやうな声』が出るのか、とにかくお初ちゃんに聞かせてあげたい」というような文脈で話している。この女性は山田検校の唄をどういう場所で聞いたのだろう。それともお座敷だろうか?神社等の境内等だろうか?その後、お初ちゃんは、「妹背山婦女庭訓」のお三輪の口真似なんかしたりしている。読みたい本のbacklogが山積みだけど、この『浮世風呂』も読んでみたいなあ。

それから、もう一つ興味深かったのは、寛政の改革の後の江戸文化の興隆について。寛政の改革では、享保の改革に倣い、倹約令をはじめとする経済的な締め付けの他、心中物が禁止されるなどの措置があったが、改革が終了した後、寛政5〜6年あたりに、一中節や、富本、長唄などが出てきたのだという。ちなみにそれぞれの特徴は、一中節が上品で素朴、富本(豊前)は声が良いこと、長唄は当時の流行唄をメリヤスにしたことだとか。清元は更に遅れて1800年代に出てきたそうだ。そういえば、三大名作と呼ばれる浄瑠璃等もこの時期なんだなあ。それに、能楽では享保の書上とかいう上演可能曲を提出したりして、家元格とかレパートリーとかが定まったりしたと以前、表章先生の講座で聞いた(ああ、表先生までがお亡くなりになってしまった。お悔み申し上げます…)。江戸時代って何となく鎖国制度により波風の立たない平和な時代というイメージがあるけど、芸能史的には百花繚乱、めまぐるしい変化の時代だったようだ。

というわけで、私は、普段は謡曲や、義太夫節、歌舞伎(の長唄常磐津、清元等)を聴くことが専らだけど、こんな風に普段聴く機会のない音曲を中心を据えてお話を聞くというのも、新鮮で楽しい体験でした。


「ほととぎす」 山登松和、田中奈央一(箏)、千葉真佐輝(三絃)

ほととぎすの初音を求めて、隅田川を船で遡るという道行風の曲想で、箏X2、三味線X1の構成。箏と三味線の音程とリズムがびしっ!と合っていて、大変気持ちよい演奏だったのでした。唄の詞章にある、待乳山、関屋、綾瀬、白髭等の地名が、何だかとても典雅な地名に思えてきてしまう。

多分、はじめて山田流箏曲の演奏をまともに聴いたけど、唄は長唄風のよう。興味深いのは、箏曲とはいうけれども、唄が主で、箏は伴奏であること。それから、箏X2、三味線X1の計三本の楽器で演奏されるけれども、ほぼユニゾンで(一部、ソロや別のメロディという場合があったと記憶していますが)、他の音曲同様、和声というのは、ほとんど考慮されていないということ等。

この、邦楽では和声にほとんど関心が払われないという点は、私にとって、常に興味深い事柄だ。西洋音楽は、メロディの美しさの要素のひとつとして和声そのものの美しさや和声やコードの進行の妙に関心を向ける。一方、邦楽は、雅楽等のような例外もあるけど、基本的に声も単音、楽器による伴奏も単音というケースが多いし、その声と楽器もそれぞれ独自の旋律を追いかけていて、和声を構成しているとは言い難い。私の得意の妄想によれば(?)、これは恐らく、日本人というのは、和声(音の縦方向の連なり)よりも、音そのものの音色や音程の推移(音の横方向の連なり)の方に、より関心があるからではないだろうかという気がする。これは、日本に仏教や中国伝来の音楽が輸入されるずっと前からの言霊信仰や語りの伝統が影響しているのではないだろうか(「語り」が古代ギリシアの雄弁術のような方向には発展せず、主に朗詠の表現を磨くことや歌謡を通じて寿ぐという方向に関心が集中したということも非常に面白い)。そして、そのことと、邦楽の人達が楽器同士の音を合せるとか、曲の中で音の頭を揃えるとか、そういうことにあまり関心を払わない傾向があるのとは表裏一体な気がする。この件に関する私の妄想は書き出すと止まらないのでこのあたりで止めておくけれども、とにかく、そんなことを色々と考えてしまいました。


「葵の上」 山勢松韻、武田祥勢、奥山益勢(箏)、山勢麻衣子(三絃)

お能の「葵上」の前場をほぼそのまま使用した詞章の曲。筝X3、三味線X1の構成。山勢松韻さんという方の唄が情緒があり、しみじみと良かった。

お能の「葵上」というと、以前観た梅若玄祥師のものが思い浮かぶ。その六条御息所は、妄執の塊という感じで、特に後場の横川小聖とのバトルは、思わず「場外乱闘は無しでお願いします!」と念じてしまいたくなる位の凄まじさだった(かなり記憶がねじ曲がっている気がしないでもないけど)。

ところが、山田流箏曲の「葵の上」は、どちらかというと、上村松園の「焔」(東博所蔵)に描かれている六条御息所という感じ(画像はこちら)。前場のみだからかもしれないけど、繊細優美で哀しい雰囲気の六条御息所なのでした。確かに改めて詞章を読むと、この山田流筝曲の描く六条御息所も大いにアリという気がしてくる。山田検校は謡を習っていたそうだけど、謡を習っていながらお能の影響を受けずにこのような優美な曲を作れたというのは、すごいことだ。しかし、もし山田検校が演能を見ていたら、このような優美な六条御息所も難しいかもしれない。ある意味、彼は盲目だということが良かったのかも。