紀尾井小ホール 江戸音楽の巨匠たち(11)岸澤式佐<常磐津>

江戸音楽の巨匠たち〜その人生と名曲〜(11)
五世岸澤式佐(常磐津)
■出演 竹内道敬、渡辺 保(対談)、常磐津清若太夫常磐津光勢太夫常磐津若羽太夫常磐津松希太夫浄瑠璃)、常磐津一寿郎、岸澤式松、岸澤式明(三味線)、常磐津一巴太夫常磐津巴瑠幸太夫常磐津秀美太夫常磐津千寿太夫浄瑠璃)、常磐津英寿、常磐津八百八、常磐津菊与志郎(三味線)
■曲目 「宗清」「将門」
http://www.kioi-hall.or.jp/

対談 竹内道敬、渡辺 保

今回の五世岸澤式佐(1806年〜1866年)は鶴屋南北の時代から黙阿弥の時代あたりの常磐津三味線弾きの人で(晩年は太夫に転向)、常磐津の名曲の多くはこの人の作品だという。
今回聴いた宗清(「恩愛?関守」)や将門(「忍夜恋曲者」)だけでなく、三世相(三世相錦繍文章)、乗合(「乗合恵方万歳」)、粟餅(「花競俄曲突」)、どんつく(「神楽諷雲井毛毬」)、勢獅子(「勢獅子劇場花?(かご)」)、鶴亀(「細石巌鶴亀」)等々があり、他にも義太夫常磐津に作曲し直した阿古屋(「壇浦兜軍記」)、狐火(「本朝廿四孝」)等。さらには、義太夫狂言を江戸で上演するときは道行は豊後系の浄瑠璃常磐津)で行うという約束事があったそうで、例えば三津五郎道成寺の道行は常磐津だし(「道行丸い字」)、他にも梅川(「道行情の三度笠」)、籠屋(「仮名手本忠臣蔵」)等々ある。とにかく、これだけ並ぶと江戸において常磐津がどれほど大きい位置を占めていたかや式佐が如何に類まれな作曲家かが分かるというものだ。


式佐の曲の特徴は、竹内先生によれば、素直で技巧に頼ることのない踊りやすい曲で、黙阿弥風に言えば「役者にも太夫にも三味線にも親切(皆それぞれ活躍のしどころがある)」ということなのだそうだ。また、他の音曲からの借り物がないところも特徴だという。確かに宗清や将門をよくよく聴いてみると、聴き覚えのある合方や合いの手というのは本当に二つ、三つしかなくて、メロディもバリエーションが多く、一部のみ変えた変奏というのも殆ど無く、どんどん曲が展開していく。生まれついてのメロディーメーカーだったのだろう。


一方、式佐の人間性に関しては、ほとんど全くエピソードが伝わっていないため、全く分からないのだという。ただし、安政4年(1857)、式佐が50才を過ぎたあたりに三世相の大成功があったが、この時、太夫の豊後大掾と三味線の式佐が功名争いをして、常磐津と岸澤が分裂してしまったという。竹内先生は、そこから、かなり頑固で自信家だったのでは、というような推理をされていた。


他に面白かった話は、見台のお話。常磐津は見台の土台が箱状になっているもの以外に、朱塗りの三本のタコ足になっているものがある。これは、文化文政の頃、お殿様のところに新年にご挨拶に行ったところ、お殿様が一曲所望された。太夫は本は持っていたのであろうが、見台がなかったため、花瓶を置いている四本足のタコ足の台を見台代わりに使ったところ、それが具合が良かったので、それにちなんでタコ足の見台が出来たのだという。ただし、お殿様をはばかって三本足の見台にしたとか。(竹内先生の話によれば、タコ足がいつから出てきたのか分かるような史料がなく、確認しようがないのだそう)

このエピソード自体も面白いけど、この話から察するに、常磐津の人達は武家に出入りしていたのだろうということが分かり、興味深い。実はこのお話を聞いた後、宗清の演奏を見ていて、常磐津の太夫は語る時にお能の謡のように扇を使うのを見て、面白く思った。語っていない時は見台の上に置き、語る時は、床に扇の先を付けて扇を握った手は膝上に置いているのだ。一方、お能の謡は、謡わない時は扇は床に膝と並行に置き(お茶と同様)、謡う前に一度床と垂直に扇を立ててから常磐津と同じポジションで扇を持つ(持ち方は何通りかあるらしいけど)。それで、ふと、常磐津は武家に出入りする浄瑠璃の一派なので、武家の式楽のお能の格式に合せて扇を使っているのかなあ、等と想像した。そして、もしそうなら、お能にはばかって常磐津の方は謡より扇の扱いをワンステップ端折っているのかもしれない。なかなか興味深い。全然違うかもしれないけど。


常磐津 恩愛?関守(宗清)

文政11年(1828)初演。近松の「源氏烏帽子折」の第二段を書き換えたもの。

宗清は、左馬頭(義朝)の子供は全て皆殺しするよう六波羅からの上意を受けて、自身の館で関守をしている。すると、落ち延びてきた常盤御前とその子供達が通りかかる。子供たちは疲れきって頑是無い様子で駄々をこね、常盤御前が困り果てていると、番卒に見つかってしまう。そこに宗清が現れ、常盤御前と子供たちを見極め、引っ立てて行き、ここからが見せ場。

実は、この館には高札が立てられており、「松を手折って松を助く」という謎掛けが書かれていおり、宗清は「謎が解くればその松の、雪も溶けよと君の厳命」というわけで、意味がわかったら助けてやろう、というのだ。こ、これは「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」の段の「一枝を伐らば一指を剪るべし」の場面とそっくり。しかも宗清が出てくるし。ということは、「一枝を伐らば一指を剪るべし」の本説は実は近松の「源氏烏帽子折」にあったのだろうか?と思って、後日、とりあえず『近松全集』(近松全集刊行会編纂)の第二巻の「烏帽子折」の第二段を読んでみたが、多分、読み飛ばして無ければ、「松を手折って松を助く」という高札の話は無いようだ。ただ、同書によれば、『烏帽子折』『源氏烏帽子折』には、義太夫本・筑後掾本および角大夫本があるそうで、この近松全集は少なくとも第四段までは義太夫本に一致するそう。ということは、『烏帽子折』の他の系統の本にあるのだろうか?

因みにこの「松を手折って松を助く」というのは、常磐津の詞章には無いけれども、解説には重盛(小松殿)の言葉とある。そこから考えると、これは実説ではなく常盤御前と小松殿の「松」つながりで誰かが思いついた創作である気はする。それでは誰が創作したのかが、謎。『義経記』、『平家物語』の覚一系本には無い。同じ近松の『平家女護島』の「朱雀御所」にも常磐御前&宗清が出てくるが(以前、咲師匠が素浄瑠璃で語られました)、そっちにももちろん無い。とても気になる…。もし、「松を手折って松を助く」というのを踏まえて宗輔が「一枝を伐らば一指を剪るべし」を創作したなら面白いし、どちらにしても、「松を手折って松を助く」より「一枝を伐らば一指を剪るべし」の方がずっと言葉に凄みがあって、宗輔はすごい、と改めて思うのでした。


常磐津 忍夜恋曲者(将門)

天保7年(1837)初演。山東京伝の『善知鳥安方忠義伝』が原作という。黄表紙が原作なのだ。「奥州安達原」を下敷きにしていそう。これは読んでみたいなあ。

歌舞伎舞踊の将門はあんまり好きではないけれど(舞台が陰鬱な雰囲気だし、滝夜叉姫のざんばらな髪型が私自身のボサボサ頭を見るようで現実に引き戻されるし、最後に屋台崩しで巨大ガマガエルが出てきてもあんまり嬉しくないから)、詞章はなかなか凝っていて面白い。久々に一巴太夫の語りを拝聴。さすが、面白いのでした。

途中、「一つ一夜の契さえ、二つ枕の許しなき…」という鞠唄があるのだが、「鞠唄」というのには、はっきりとした定義があるのだろうか?ここでは数え歌を歌っていくのだが、ゆっくりしたテンポなので、この鞠唄で鞠をつこうと思ったら、3mぐらいの高さからつかないと厳しい気がする。実質的に鞠をつくための唄でないようなのだけど…。

ちなみに、将門の役者絵というのがなかなか無いのだそう。竹内先生は将門が朝敵だったからでは?と推理されていたが、渡辺保先生は、ただ単に近年に流行ったのでは?と素っ気なかった。話がさらにずれるけど、神田明神は将門を祀っており、明治時代に天皇神田明神を詣でるという話があって、竹内先生の説によれば明神というのは権現等と同様、神社とは違うらしく、天皇の参詣のために神田神社という名前に変更になり将門を分祀したとか。そして、最近になって神田明神に名前を戻したのだそう。


というわけで、どちらの曲もメリハリがあり、クライマックスには盛り上がり、なるほど式佐は素晴らしい作曲者だなあと思わせる内容でした。