国立劇場小劇場 2月文楽公演 第一部&第二部

<第一部>11時開演
 芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)
    葛の葉子別れの段、蘭菊の乱れ  
 嫗山姥(こもちやまんば)
    廓噺の段
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3850.html

芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)

文雀師匠休演につき、和生さんの葛の葉。以前は和生さんの人形は、内に秘めた思いを持つけどそれは表にはあらわさない、という印象だったのに、最近は結構ストレートに感情を表現されている気がする。私は今の和生さんの遣い方の方が好きだし、さらに今後、どう変わっていかれるのか、楽しみ。今回観た葛の葉は、以前観た文雀師匠のものにはかなわないかもしれないけど、私はあの文雀師匠の葛の葉に本当に深く感動したので、そんなに簡単に師匠を越えられても、困るのだ!


嫗山姥(こもちやまんば)

前々から聴いてみたかった。綱師匠がまずまずお元気そうでなにより。

紙衣を着た八重桐の髪のつけたリボンが可愛くて気に入った。白地のリボンの上辺に赤い線が細くアクセントでついていて、なにやらぽつぽつとチャコール・グレーっぽい模様もついている。可愛い色合いだけど何の文様なのだろうと思っていたら、最後にぶっかえりでリボンの蝶結びが解けて、リボンは傾城の消息だったことが発覚!時行に出そうとして反古にした恋文かしらん(なんせ一日百通二百通も書いたらしいので)。さらにぶっかえりの衣装の文様は紅葉しかけた葛のように見える。満面の桜の書割を背景にして、この葛の紅葉という秋の文様なので、多分、「葛」の縁語の「裏見」と「恨み」とか、そこから派生して「うらぶれ」とか、また、紅葉から「秋」と「飽き」とか、そういった掛詞のある歌を表している衣装のかも。いかにも「傾城の祐筆」らしい、オシャレなコスチュームなのでした。

という訳で、第一部は魔性の女シリーズだったようでした(?)

<第二部>2時30分開演
 菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)
    道行詞甘替、吉田社頭車曳の段
    茶筅酒の段、喧嘩の段、桜丸切腹の段
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/3850.html

『菅原伝授手習鑑』、名作すぎです。

太夫の七十の賀、江戸時代の70才のお祝いは今の70才とは比較にならないほど、おめでたいことに違いない。最初は茶筅酒のエピソードや三兄弟の女房達からの祝いの品、楽しい台所仕事といった長閑な風景が展開されるだけに、桜丸の切腹は、悲劇が際だつ。結局、白太夫の七十の賀のために集まった子供達はそれぞれ、一人は切腹し、一人は親子の縁を切り、一人は残るものの、親の白太夫自身が太宰府に赴くことになる。「長く生きていればいいこともある」と言ってみたいのが人間なのに、白太夫は長生きしたが故に、子供を亡くし、一家が離散してしまうというこれ以上無い不幸を味わうことになってしまった。

「子に死ねといふ腹切刀、酷い親と思ふ云ひ訳ではなけれどな」で始まる白太夫の述懐は胸が締め付けられる。八重から贈られたお祝いの品の三方を見たときの白太夫の驚き、お春からの祝いの品である松梅桜の絵の描かれた扇を手にした白太夫が何故か扇の図柄を確認しないこと、氏神詣から戻ってきたときの白太夫の表情、桜の木の折れたのを見つけた白太夫の無言、…観る者が何となく違和感を感じつつも気に留めず通り過ぎた伏線の意味が白太夫の詞で明らかになり、桜丸の切腹を「定業(じょうごう)と諦めて切腹刀を渡」さざるを得なった白太夫の心境が語られる。

そして、桜丸の切腹。桜丸が「恥を知り、義のために相果つる」と深く思い定めているだけに、鉦撞木(かねしゅもく)を叩いて念仏を唱える白太夫の震える手が鉦をまともに打てていないのが切ない。

救いの無い話ではあるけれど、床の住師匠、錦糸さん、白太夫の勘十郎さん、桜丸の簑助師匠、八重の清十郎さん、松王の玉也さん、梅王の文司さん等をはじめとする方々の名演に心から感動して、疲れ気味のところに元気をもらいました。

ところで、このお話を観ていて、ふと、お能の「鉢木」を思い出した。意味するところはかなり違うけど、「鉢木」にもやはり、旅僧(実は執権北条時頼)のために零落した武士である常世が、大事にしていた松、桜、梅の盆栽の木を切って火を炊くという場面があり、「主のために松、桜、梅を犠牲にする」という構図が似ている。「鉢木」のこの場面は江戸時代には「松」は「松平」に通ずるというので、詳しいことは忘れてしまったが、とにかく松は切らずに桜か梅を切るという型があったというのをどこかで読んだことを覚えている(以前私が観たのは金春流だったけど、どうも観世流の「鉢木」の詞章は「松はもとより常磐にて。薪となるは梅桜」と、松を薪にするのを避ける詞章になっているようだ)。「桜丸切腹の段」では、桜丸が切腹をするが、ここでも「鉢木」と同じ発想で松王の「松」は松平に通ずるし、梅は菅原道真を象徴するので、必然的に桜丸の切腹というストーリーになったのかも。そういえば、松王は「寺小屋」で自分の子供を管秀才の身代わりとするけれども幸若舞の読み本である『舞の本』(新日本古典文学大系)の「築島」という曲を読むと、平清盛が造った築島に人柱を三十人立てようとしたところ、清盛の童の一人である松王という童が三十人の身代わりとなることを申し出て、一人で人柱になったという話がある。幸若舞は猿楽同様に武家の式楽として江戸初期ぐらいまでは演じられていたし、この築島の人柱伝説は幸若舞以外の形でも流布していたようなので、多分、ある程度、当時の人に知られた話として、この話からの連想から、(松平と通ずるのをはばかって松王でなく)松王の子、小太郎が管秀才の身代わりとなるという話が出来たのかも。