四月文楽公演 第一部

第1部 ※14日から午後4時開演となります。
源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)
  竹生島遊覧の段

竹本綱大夫改め 九代目竹本源大夫
鶴澤清二郎改め 二代目鶴澤藤蔵   襲名披露口上

 糸つむぎの段、瀬尾十郎詮議の段
 襲名披露狂言 実盛物語の段

艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)
  酒屋の段、道行霜夜の千日
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2011/34.html

源平布引滝 竹生島遊覧の段 糸つむぎの段、瀬尾十郎詮議の段 実盛物語の段

襲名披露狂言は、「実盛物語」。新原大夫は休演のため、代演は英さん。実盛物語は実盛の仕方噺があったりして語りも面白いけど、改めて聴いてみると最初から最後まで三味線の聴かせどころが多くて、しかも、ダイナミックで明るい音色の新藤蔵さんの三味線にマッチしていて、なるほど、太夫と三味線のダブル襲名にはぴったりの演目という印象。内容はよくよく考えてみると、太郎吉の母は実盛に殺されるは祖父を殺すは最後は太郎吉が実盛を討つことを誓うはと、ものすごく暗い。そのまま行けば「沼津」とかみたいに胡弓とか入って涙涙の段切りになってもおかしくないのに、そんな感じは微塵もなく、最後は颯爽と馬に乗る実盛と綿繰馬に乗って実盛の向こうを張ろうと頑張る太郎吉が、何故か晴れやかな雰囲気でパチパチと拍手をしたくなる。これは、語りも三味線も華やかだし、人形も見どころが多いし、実盛の衣装も特に白地に丸紋の着付なんかも爽やかだし、色々、暗くならない工夫がされているからなんだろう。

他に、竹生島遊覧の段。小忌衣を着た宗盛少年が出てきたので、ふと「こやつが長じて遊女の熊野が池田宿にいる母が病気なので実家に帰りたいと言っているのに無理に花見に連れて行ったり、源頼政の長男、仲綱が大事にしている馬を無理矢理取り上げて頼政の家臣の渡辺競にコテンパにやられたりしたのだ」と思い、いざ実見!とまじまじと見てみたけど、そんな悪事はしそうもない貴公子然とした様子。「平家物語」では宗盛はあくまで傍若無人な人というイメージなのに、浄瑠璃ではそんなことはないみたい。不思議だな、清盛は浄瑠璃でも悪人なのに。ただし、途中、宗盛が実盛と盃を交わす姿を目撃。未成年ながらお酒を飲んではいかんな。きっと未成年時の飲酒により脳内にダメージを生じ、長じて切れやすく傍若無人なタイプの人間になったのだ、と、極めて科学的な仮説を得た。浄瑠璃って勉強になるなあ…?


艶容女舞衣 酒屋の段、道行霜夜の千日

文雀師匠のお園ちゃんが忘れられない。

宗岸に連れられ、とぼとぼと歩くお園ちゃん。半兵衛女房に招き入れられ宗岸の隣に所在無げに俯いて座る。そのお園ちゃんのシルエットには、お園ちゃんがサワリで語るよりももっと雄弁に、自分が至らない嫁と恥じる気持ち、親たちへの申し訳なさ、そして何よりも半七へのひたむきな想いが現れていた。私はお園ちゃんのその姿に釘付けになってしまった。言葉というのは万能ではなく、何かを表現する度に、必ず表現で掬い切れなかった何かを取りこぼしてしまう。浄瑠璃の詞章で取りこぼされてしまった何かは、語り方や三味線でも補われるにしても、取りこぼされた何かを含めた全体像を伝える手段として、人形が担う視覚的イメージというのは強力だ。お園ちゃんのサワリの詞章が、あのお園ちゃんの俯いて座っている姿を観ることで一瞬で伝わってしまうのだ。お園ちゃんのあの姿を観られただけでも、大阪に観に来て良かったという気がした。

また、今回、酒屋は心理主義的演劇なのだということがよく分かった。宗岸はお園ちゃんを一度は連れ帰ったのに、また酒屋の段で戻ってくる。半兵衛は、半七の咎がお園ちゃんにも降りかからないよう、そして半七の罪は全て自分が引き受けようという気持ちから、お園ちゃんが宗岸に連れて行かれるのを黙認したのだから、本来、宗岸は、その意を汲んで、お園ちゃんをそのまま自分の元に置いてもいいはずだ。しかし、宗岸は、半兵衛が半七の罪を被ったことを知り、半兵衛が半七の罪を誰にも内緒で被っていたことを明らかにし、お園に嫁としての義理を立てさせてあげてくれという。それは、実際に半七が失踪してしまった今、半兵衛夫婦がどうなってしまうのか、心配する気持ちもあるし、何よりも、半七のことを誰よりも慕っているお園可愛さからの言葉なのだ。半兵衛は、その宗岸の気持ちを察し、半兵衛は、お園を嫁として引き取ることにする。結局は、宗岸の行為も半兵衛の行為も、子供達可愛さから来たものなのだ。そして、お園ちゃんはそれを痛いほど分かっているだけに、自分さえいなければという気持ちと、どうしようもなく半七を慕う気持ちの間で揺れ動くのだ。

半七の手紙を読む場面で、「未来は必ず夫婦」という言葉に喜ぶお園ちゃんを観るのはやはり胸が痛む。その場ではお園ちゃんは救われるかもしれないが、きっと何年か経てば、その言葉は空手形だったことを自ずと悟る日が来るだろう。その時、お園ちゃんはどうするのだろう。宗岸が、敢えてお園ちゃんを連れ戻したのも、その日のためかもしれない。もし、お園ちゃんをそのまま実家に戻せば、お園ちゃんは、もはや心から好きだった人の嫁でさえ無く、その元夫からは一度たりとも好かれなかったという事実だけが残る。それは一人で背負って生きるには重すぎる事実だ。しかし、もし半七の嫁として半兵衛夫婦のお世話さえ出来れば、たとえ半七から好かれてはいなかったとしても、親たちのお世話をすることが心の支えになるということもあるのではないだろうか。

そして、「道行霜夜の千日」。ストーリー的に全然納得がいかない。しかもこれは心中の道行というよりは、無理心中の道行。なぜ三勝は死なないといけないのか疑問に思えて仕方がなかった。本当は半七が一人遁走すれば、それで良かったのではないだろうか。そうすれば、お通ちゃんと三勝も何とか二人で生きていけたかもしれないし。どちらかというと半七の自分勝手さ、その場しのぎな性格が良く分かり、だから酒屋であのような、都合の良い文句ばかりを並べた手紙を書くことができたのだ、等と思ってしまった。これで追い出しというのは、すっきりせず、あまり嬉しくなかったかも。

ところで、実は私が観た日(16日)は文雀師匠は、お園ちゃんを最後まで遣われず、お園ちゃんサワリが終わってお通ちゃんがハイハイして這い出てくるところで多分和生さんと交代されていました。お加減が良くないのでしょうか。文雀師匠の人形は出来るだけ数多く観たいという思いはあるけれど、一方で、できるだけ末永くお元気で遣っていただきたいです。ご無理なさらずにゆっくり休養していただき、またお元気なお姿を拝見したいです。