国立劇場小劇場 5月文楽公演第二部

<第二部>4時開演
 二人禿(ににんかむろ)
 絵本太功記(えほんたいこうき)
    夕顔棚の段、尼ケ崎の段
 生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)
    明石浦船別れの段、宿屋の段、大井川の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2011/511.html

二人禿

かわいー。気の遠くなるような昔のことですっかり忘れてたけど、私も子供の頃、あの禿ちゃん達みたいに、いつも一緒の友達がいた。学校が終わると、一緒にリコーダー吹いたり、知ってる限りの歌を歌いながら帰ったりしたっけ。家に帰ったらまたすぐ集合して、おままごとして遊んだり、自転車乗り回して冒険に行ったり、お習字習いに行ったり、本の貸し借りもしたけど、ある日、バッタを目の前に突き出されて「バッタ掴まないと一緒に遊ばない!」と言われ、虫が大大大嫌いな私は恐怖におののいた。結局、一瞬だけ掴んで、あとは投げ捨てて逃げました。文昇さんの禿ちゃんより少しだけお姉さんっぽい一輔さんの禿ちゃんがその友達に似てたので、つい昔のことを思い出してしまいました。


絵本太功記

文楽のおいしいところ満載の演目。もし、全然文楽を知らない人から「典型的な演目を観たい」と言われたら、今月だったら太十を勧めたいくらい。なぜなら、咲師匠の語りは勇壮・豪快だし燕三さんの三味線は華麗だし、人形は、「なにも、そんな狭いあばら家で全員が全員、大暴れしなくても…」と言いたくなるくらい、型のオンパレードで、話が全然見えなくても、眺めているだけでも楽しいから。

登場人物もとても文楽らしい。主君に反逆せざるを得なかった苦悩を抱え、さらにその結果、大事な息子を失うという悲劇に襲われる光秀(勘十郎さん)とその豪快な型、武家の後室らしい気概を持ち、身を呈して仁義忠孝の道を説く皐月(紋寿さん)、父や祖母への孝心厚く、若年ながら武士として死ぬことを厭わない十次郎(勘弥さん)、十次郎を慕う健気な初菊(蓑二郎さん)、義母と息子を失うことになり、哀切を極める美しい操(和生さん)のクドキ。そして、武士の情けを知る真柴久吉(玉志さん)。時代物で観て面白い典型的なカテゴリの役が揃っている。

また、個人的には夕顔棚の段の冒頭の妙見講の念仏が興味深かった。「南妙法蓮華経」をタンタータター、タンタータターという太鼓のリズムに合わせて言うのだが、拍子でいうと三拍子なのだ。明治以前の音楽で三拍子の曲というのは、あまり思いつかない。それに、何故、冒頭に妙見講の場面が出てくるのかについても興味深い。絵本太功記の発端は安土城に移植した妙国寺の蘇鉄が、日蓮宗妙国寺に帰りたいと三夜にわたって振動したというこというもので、日蓮宗は江戸時代、大変盛んだったので、話の中に織り込んだというのは、何となく想像がつく。が、特に妙見請が採り入れられたのだろう。上演当時流行っていたのだろうか。

今回の皐月は配役は文雀師匠病気休演のため、紋寿さん。紋寿さんの皐月はかくしゃくとして厳しくも優しい祖母で良かったけど、ここ最近、(私にとって)当たりばかり続く文雀師匠の皐月も観てみたかった。でも仕方ない。7月にはまたお元気な姿を拝見できるのが一番いいけど、お体第一に考えていただきたいです。


生写朝顔

お能の人気曲のひとつに「班女」という曲がある。主人公の花子は、ある年の春、美濃の野上宿で東下りの途中の吉田少将と恋に落ち、形見としてお互いの扇を交換し、吉田少将は東下りの旅に出る。吉田少将のことを想う花子は、その後、閨から出なくなってしまったため、野上宿の長から追い出されてしまう。秋になって、吉田少将は京に上る際に野上宿に寄るものの、既に花子はいない。花子は物狂いとなって、京に上って行った後だったのだ。吉田少将は京に戻った後、糺の森で従者が狂女を見つけ、舞を舞うように言う。狂女は、自分と吉田少将の恋を玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋に託して舞を舞う。その様子を御簾内から見た吉田少将が狂女の持つ扇に目を止め、扇を見せるように言う。果たして、その扇は、吉田少将の扇、花子と取り交わした扇だった。花子と吉田少将はお互いに扇をかざし確かめ合い、二人は共に帰っていくのだった。

『生写朝顔話』の深雪と阿曾次郎の恋は、「班女」が下敷きになっているのではないかと思う。二人はすれ違いの末、やっと再会するし、取り交わした扇が二人を結びつけるところが似ている。「班女」の花子が持っていた吉田少将の扇は夕顔が描かれているが、深雪ちゃんが持っていた阿曾次郎くんの扇は朝顔が描かれている。夕顔と朝顔は違うけど、年に一度しか夫と会えない七夕の織女は朝顔姫とも言うし、朝顔の花は高い身分の人の家に植えられていた花だから、家老の娘の深雪ちゃんには朝顔がぴったりなのだ。

それから、深雪ちゃんの歌う「露のひぬ間の朝顔を、照らす日かげのつれなきに、哀れ一むら雨のはらはらと降れかし」という歌も、興味深い。まず、「露」という言葉で、誰もがまず思い出すのは、『伊勢物語』六段の、「白玉かなにぞと人の問ひし時露と答えて消えなましものを」という歌だろう。これは二条后の高子を在原業平が背負って家から盗み出したが、高子の兄達に取り返されてしまった時の歌で、高子を背負って逃げているときに深窓の令嬢の高子が露を見て、「あれは真珠?」と業平に尋ねたことを思い出し、あの時、「露ですよ」と答えて露のように消えてしまえば良かった、という業平の気持ちを詠んでいる。この歌を受けて、お能の「班女」では、「憂き人に。別れしよりの袖の露そのまゝ消えぬ身ぞつらきそのまゝ消えぬ身ぞつらき。」と、花子の、露のようにそのまま消えてしまうことの出来ない花子の辛く狂おしい気持ちを謡う。そして、朝顔話の「露のひぬ間の朝顔を、照らす日かげのつれなきに、哀れ一むら雨のはらはらと降れかし」という歌は、「露のように消えてしまいたい」という業平の歌や班女の謡を受けたもので、「照る日に晒されている哀れな朝顔の花の上の露。一村の雨でもはらはらと降ってほしい、露が消えないように」という意味なのだろう。阿曾次郎くんは何気なく詠んだ歌なのかも知れないけど、二人がすれ違う運命にあることを予感したような歌だ。「大井川の段」では、村雨どころか大雨が朝顔に降りかかるせいで川止めになる。こんなことならと大井川を三途の川と見定め、入水しようとした深雪は、奴の関助の登場や宿屋の主、徳右衛門の切腹等といった一連の文楽のお約束の働きのお陰で目が見えるようになり、阿曾次郎くんのことも関助の力を借りて探す目処も付き、一応のハッピーエンドになる。「哀れ一むら雨のはらはらと降れかし」という歌は、このハッピーエンドを暗示するようでもある。「露のひぬ間の朝顔を」という歌はあはれを催す風情があるが、実のところ、深雪ちゃんはパワフルで、とても露のように消えたりしなさそうなところが面白い。深雪ちゃんだったら、諦めさえしなければ、扇があろうと無かろうと、いつかは必ず阿曾次郎くんとどこかで出会えそうな気がする。私は深雪ちゃんみたいにパワフルではないので、「班女」の花子のように露のように消えることのできない自分の身を恨めしく思うタイプで、それがまた自己嫌悪のタネだ。簑助師匠の遣う深雪ちゃんが心底眩しかった朝顔話でした。