国立能楽堂公開講座 能と本説の世界(二)『伊勢物語』「東下り」

能と本説の世界(二) 「伊勢物語II」
日時 平成23年5月14日(土)午前10時〜
講師 原国人(中京大学大学院教授)
http://www.ntj.jac.go.jp/nou/

ふと気がついたら国立能楽堂公開講座が平日ではなく土曜日開催になってたので、早速行ってきました。「文学というのは、『何故』という問いの答えを探して新たな解釈を加えていくことに醍醐味がある」というような主旨のお話で、大変面白かったです。

印象に残っているお話は、(1) 伊勢物語の成立と「歌語り」、(2) 東下りの意味、(3) 隅田川の渡し守、(4) 「からころも」の歌について。


まず、『伊勢物語』の成立について。『伊勢物語』に関する本を読むと、「在原業平が残した和歌を歌人の伊勢が物語に仕立てた。故に伊勢物語と云々」といった説をみかけたりする。それで私は、紫式部の『源氏物語』に代表されるような作り物語と同様、『伊勢物語』も、誰か一人または複数の人が、業平の歌を集めてきて並び替え、構想を練って加筆修正した、というようなイメージを持っていた。しかし、原先生によれば、『伊勢物語』のような歌物語は、人々がサロン等に集って、歌とそれを表した絵を見ながら歌の謂れや背景等を語ったり、登場人物の気持ちになって新たに歌を読んだりしたりしているうちに成立したものなのだとか。何故そのようなことが言えるかというと、折口信夫がほとんど直感的に「歌物語は、多くは口頭でのべられてゐた」ということを講義で語っており(折口信夫全集ノート編)、それを受けて、益田勝実が『紫式部集』の中に「歌語り」という言葉を見つけ、「歌語り」という言葉で表されることはどういうことなのかを探った結果、例えば伊勢の属する七条后(藤原温子)などの文芸サロンでは歌とそれを描いた絵とが共に語られたりしている様子を確認することができ(『大和物語』百四十七段)、歌物語というのは、口承説話として形成されていったということが分かったのだそうだ(ちくま学芸文庫、『益田勝美の仕事I 説話文学と絵巻』「説話文学の方法(一)」P.117〜)。

これは、美術工芸品を見るのも好きな私としては、非常に興味深い話だ。『伊勢物語』には、『伊勢物語絵巻』や奈良本をはじめとして、様々な絵や工芸品が残されているけど、大体、各歌を表す絵の構図は決まっていて、絵を見れば、それが『伊勢物語』のどの段の何の歌の絵なのか、注釈が無くても分かるようになっている。これらの絵柄はいつ頃定まってきたのか、何故、その絵柄に決まったのか、不思議に思っていたけど、この説によれば、「歌語り」する時には歌に絵を添えてそれについて皆で語り合うのだから、『伊勢物語』の絵柄というのは、『伊勢物語』の成立と同時期かそれ以前にさえ、遡ることができる可能性があるということになるのだろうか。

先生が歌と絵の関係性の例示のために、「からころも」の歌の絵(通常は、杜若と八橋、烏帽子に狩衣、指貫姿の貴族数人を描く)をいくつか見せて下さった。そこで思い出したのは、先日観た根津美術館所蔵の尾形光琳の「燕子花図屏風」だ。「燕子花図屏風」は、伝統的な絵柄から杜若以外のものを全て排除している。確かにこの「からころも」の歌を表す絵柄の中で、ひとつだけ取り去ることの出来ない要素を選ぶとしたら、それは、杜若だろう。そして面白いのは、「燕子花図屏風」を描いた10数年後、光琳は、ほぼ同じ構図に八橋を描き加えた「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)を描いた。光琳が、あの絵の構図をどれほど考え抜いたかについて、改めて考えさせられる。そして、「からころも」の歌の絵は、時代が下ってくると、杜若より、八橋の意匠の面白さを強調する絵が多くなる印象がある。もしそのような傾向があるとしたら、それと光琳の絵はどのように呼応しているのか、していないのか、とても気になる。

また、もし『伊勢物語』の絵柄が『伊勢物語』成立と同時かそれに先立つものだとすると、私は何となく『伊勢物語絵巻』と『源氏物語絵巻』は同類のように思っていたが、両者の物語と絵の関係性はかなり違うということになる。というのも、『源氏物語絵巻』にある絵の絵柄は、少なくとも紫式部が「源氏物語」を執筆した頃には無かったに違いないからだ。そう考えてみれば、たしかに『伊勢物語』の絵柄は「歌」が絵に表されているのに、『源氏物語』の絵は各巻の印象的な場面を表したもので、多くの場合、その巻の歌とは直接関係がないというような違いもある。作り物語も歌物語も、まず詞書があり、一番盛り上がるところに歌が置いてあるという構成は似ているのに、成立の仕方が異なる物語における歌の比重の違いからか、絵と物語の関係性も違ってくるというのは、改めて考えてみると面白い。


次に、『伊勢物語』九段、「東下り」について。九段の冒頭の、

むかし、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ。東の方にすむべき国求めにとて行きけり。

という部分について。

ここの部分は、業平くんが「いーもんねー」とかいって、いじけて東に下っていくのだと思っていた。が、原先生によれば、この詞書の「思いなす」の「なす」というのは、意識的にそうすることであるし、「京にはあらじ」の「じ」は、打消の意志を示すもので、業平が強い意志を持って東を目指したのだということを表現しているのだという。当時は、藤原氏が権勢を誇っていて、業平の一族にとって栄達は難しい状況だった。また、桓武天皇が東方に遠征した、いわば帝国主義の時代であり、京の人にとって、東というのは、開拓すべきフロンティアであり、アウトサイダーの土地であり、黄金や未知の文化を持つ憧れの場所だったのだそうだ。

そうだとすると、以前から疑問に思っていたことで腑に落ちることがある。私は、みやこの洗練されたセンスで要所要所に批評を差し加えてある『伊勢物語』に、なぜ鄙の東の国や陸奥の話が数多く出てくるのが不思議だった。しかし、実は、「東下り」という主題そのものが、当時のみやこの人にとって魅力的な話の展開だったということなのだろう。そして、時代が下って、義経伝説では、東から京に上る途上、または東下りの途上の国で、物語が生まれている。たとえば、美濃の山中宿で殺された常磐御前の敵討ちがあったり(『山中常盤物語絵巻』)、三河の矢作の長の娘の浄瑠璃姫とのロマンスがあったり(『浄瑠璃物語絵巻』)、奥州からモンゴルにわたってジンギス・カンになっちゃったり、死んで地獄の修羅道に行ったら行ったで、同じく地獄に落ちた武士達を大勢引き連れて地獄で大暴れし、最後は阿弥陀如来の来迎をうけ、大挙して極楽浄土に往生したり(…という内容の絵巻<チェスター・ビーティー・ライブラリ所蔵『義経地獄破り』>を、最近見た)と、想像の羽が広がってしまうのも、「東下り」にロマンを見る系譜といえるかもしれない。そして、根本的なところで、「何故、西ではなく東なのか」という疑問も湧くけど、例えば、神武天皇の東征というのも、東の方に未知なるものを探し求めるという発想に影響があったりするのだろうか。


その東下りの途上、隅田川の渡し守の話も興味深かった。隅田川の川岸で感慨に耽っている業平達に、渡し守は、無情にも、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言う。ここを読むとつい、渡し守が業平達の旅情を解さない無粋な人だからだ、と思いたくなる。しかし、当時の渡し守というのは、一種の国家公務員であって、アウトローの住む土地である隅田川沿岸の治安を警戒して、そのように厳しく諭しているのではないか、というのが原先生の説。なんでも、渡し守というのは、文学上は落人に同情的な役割を果たすものだそうで、項羽等の例を引いて説明されていました。

では、実際の渡し守がどういう人達だったのかというと、やっぱりそれなりに荒々しい人達だったのではないか、という気がする。業平の時代からは200年ほど下ってしまうけど、『更科日記』には、宇治の渡りの舵取りについて、

舟のかぢ取りたる男ども、舟を待つ人の数もしらぬに心おごりしたる気色(けしき)にて、袖をかいまくりて、顔にあてて、さをにおしかゝりて、とみにも舟も寄せず、うそぶいて見まほし、いといみじうすみたるさまなり。

と記している。この一文の後はすぐに宇治の風景の素晴らしさに話が移ってしまい、それほど菅原孝標女の気を引く出来事でもなかったようなので、このような無骨な渡し守の姿はわりに一般的に見られるものだったのかもしれない。『西行物語』には、天竜川の渡りの場面があり、混み合った渡り船の中で、武士が西行に向かって「舟から降りろ」とけしかける。そのとき西行は、「渡りの習い」(渡し場ではこのようないさかいはよく起こるものだ)と思い、無視をする。結局、西行は武士に鞭で叩かれて頭から血を流すという惨事になってしまう。この話の中で渡し守は特に大きな役割を果たさないが、「渡し場」という場所が、いさかい事の絶えないところだったということを表す一例だろう。

一方、作り物語の『源氏物語』をみてみると、宇治十帖「浮舟」の巻に出てくる宇治川の舟人は、匂宮が浮舟を連れ出した小舟を漕ぎつつ、川の途中で、「これなむ、橘の小島」と案内してしばし棹を止めたりする。この舟人は、風流を解する心も、二人に対する同情心もあるようだ。ほかに、和歌の世界に出てくる渡し守は、渡し守の持つ「こなたからあなたへの媒介者」というイメージからか、詠み手が人に言えない心情を吐露して託す相手という印象がある。時代が下って、お能文楽にも渡し守は出てくる。お能の「墨田川」の渡し守はたしかにシテの梅若丸の母に同情的。「舟弁慶」のアイは渡し守というよりは、舟長だけど、彼も義経一行に同情的かな。文楽の『日高川入相花王』の渡し守は、清姫に追われる安珍の味方だったっけ。『生写朝顔日記』では、「明石別れの段」の船頭は主人公の深雪とその恋人阿曾次郎に同情的で、「大井川の段」の川越は、大雨が降り運行の安全が確保できないため深雪が川を渡ろうとする直前に川止めをするという、『伊勢物語』に出てくる隅田川の渡し守に近い印象。狂言の「薩摩守」に出てくる渡し守は、なぜか無類の秀句好き。そういえば、時代をもう一度遡って、『土佐日記』に出てくる舵取りは、渡し守というよりは、長い船旅の舟人だからか、舟客達にからかわれる存在になっている。こうやってみてみると、物語の中の渡し守達は、常に主人公に同情的とは言えないものの、血の通った、独特の存在感のある人達ばかりだ。渡し場という場所や舟の上では、渡し守がある程度、旅人の命運を握っているため、旅人の視点からみると、どうしても、その性格が増幅されてみえてしまうものなのかもしれない。今だって、飛行機が飛ばない時、キャンセル待ちの航空会社カウンターの人はどうしても冷たい人に思えてしまうし、空港でこれから10時間以上乗る予定の飛行機の座席が修学旅行の学生の隣になると判明してぞっとしていると、小声で「席を替えましょうか?」と提案してくれるカウンターの人は天使のように見えてしまう。


そして、最後に、「かきつばた」の歌について。

あまりに有名な歌だけど、一応、当該箇所を引用すると、こんな感じ。

その沢(八橋)にかきつはたいとおもしろく咲きたり。それを見てある人のいはく、「かきつはたという五文字を句の上にすゑて、旅の心を詠め」といひければ、詠める。
  からころもきつつなれにしつまあればはるばるきたるたびをしぞおもふ
とよめりければ、みな人、乾飯のうへに涙おとしてほとびけり。

各句の頭をとると「かきつはた」になっているとか、「きつつなれにし」が「つま」の序詞であるとか、衣の縁語(「からころも」、「つま」、「はる」、「たび」)が配されているとかいったことは、学校でも習うところだ。原先生は、ひとつの和歌にこれだけの和歌の技法を採り入れたものは、業平以前には存在しないとおっしゃっていた。たしかに、万葉集にはこんな歌は無いかも。そして、『古今和歌集』の仮名序にある貫之の業平評、「ありはらのなりひらは、その心あまりてことばたらず。しぼめる花のいろなくてにほひののこれるがごとし。」というのは、褒めことばなのだというのが、原先生の解説だった。

さらに面白かったのは、「からころも」の歌が踏まえた漢詩があるという話。これには驚いてしまった。業平は、「唯(ほぼ)才学無ク、善ク倭歌(やまとうた)ヲ作ル」(漢文の知識が殆ど無く、和歌を作ことができる)と『三代実録』にあるし、業平作の漢詩なんて聞いたことがないので、有名な「からころも」の歌が、漢詩を踏まえたものだったとは思いもよらぬことだった。

原先生によれば、その本説となった漢詩は『文選』の古詩十九首という以下の詩なのだそうだ。

行行重行行     与君生別離
相去万余里     各在天一
道路阻且長     会面安可知
胡馬依北風     越鳥巣南枝
相去日已遠     衣帯日已緩
浮雲隠白日     遊子不顧返
思君令人老     歳月忽已晩
棄捐忽復道     努力加餐食

これは、都を離れて旅に出た夫を想う妻の詩なのだそう。離れ離れとなった夫は振り返らずさらに遠くに旅し、自分は夫を想いつつ歳月を送り、痩せて老けこんでしまった。もうぐちをいうのはやめましょう。つとめてお食事をして下さい、というような意味だそうだ(最後の句は、『(私は)努めて食事をしましょう』という解釈もあるようだ)。つまり、この妻が都で旅路の夫を想って詠んだ詩を反転させた歌が、旅路の夫が都にいる妻を想って詠った「からころも」の歌なのだとか。

このことは内容的に呼応しているだけでなく、「東下り」の段の「行き行きて、駿河の國に至りぬ」、「なほ、行き行きて、武蔵の國と下総の國との中にいと大きなる河あり」等のフレーズが、この漢詩の一行目の「行行重行行」を連想させることからも、呼応関係の暗示を見ることができるという。考えてみると、そもそも、初句が「唐衣」で始まるのも、中国の詩を暗示しているのかも。

当時は漢文の文化が優勢で、大和言葉による和歌が忘れられそうにさえなった時代だから、この漢詩は、貴族なら誰もが知る漢詩だったのかもしれない。「唯(ほぼ)才学無ク」と言われた業平ではあったけれども、彼の詠んだ「からころも」の歌は、和歌の技法を盛り込めるだけ盛り込んであるだけでなく、和歌の世界の対局にある漢詩をも意識したものだったのだ。この歌を聞いた人は、何度も口ずさんでいるうちにその技巧や「行行重行行」の漢詩との呼応関係に思い至り、あっと息を飲んだかもしれない。業平が如何に優れた歌人だったかということの一端を思い知らされる歌だったのではないだろうか。

そして、内容的にも興味深い。『文選』の「行行重行行」の詩を書いた人が本当にこのような境遇の女性だったのか、それとも男性の職業詩人が女性の身になって詠んだ全くの架空の詩なのかは分からないけれども、この漢詩の中に生きている妻は、きっと涙も枯れる程、夫のことを想い続けたに違いない。最後には、「もう愚痴は言うまい(棄捐勿復道)」と書きながらも、なおも想い続けていることは、「棄捐勿復道」は最後の最後に出てくる言葉であって、詩全体をみれば、夫に対する想いが綿々と綴られていることから想像に難くない。そして、決して夫に読まれることのない、空に向かって放たれた妻の詩に対して、何百年も後ではあったけれども、業平が、夫の立場の歌を詠んだ。架空の世界の話ではあっても、或る放たれた言葉に、実は応える言葉があるのだということを知るのは、いつでも、人の気持ちをほっとさせるものがある。