パルコ劇場 三谷文楽「其礼成心中」

三谷文楽 「 其礼成心中 」
公演日程 2012年8月11日(土)〜8月22日(水)
作・演出 三谷幸喜
出演 竹本千歳大夫 豊竹呂勢大夫 豊竹睦大夫 
豊竹靖大夫 鶴澤清介 鶴澤清志郎 鶴澤清𠀋
鶴澤 清公 吉田 幸助 吉田 一輔 吉田 玉佳 
桐竹 紋臣 桐竹 紋秀 吉田 玉勢 吉田 簑紫郎
吉田 玉翔 吉田 玉誉 吉田 簑次 
吉田 玉彦 吉田 玉路 吉田 簑之
http://www.parco-play.com/web/page/information/sorenarishinju/

三谷幸喜氏による初の新作コメディ文楽
※以下、8/15に観た際の感想に基づき書いていますが、週末に再見した時は、もっと楽しい印象でした。仕事帰りに観たせいか、かなり理屈っぽく書いてしまいました。


私が感じた三谷文楽の最大の特徴は、文楽を観たことが無い人に向けての敷居を低くする、様々な工夫がされていた点だ。いつも観る文楽と違っていた点のほとんどは、文楽を観たことの無い人に向けての工夫といっていいくらいなのではないだろうか。

たとえば、幕が開く前の口上人形。文楽の人形はどういう人形で、誰がどんな風に操作し、人形はどうやって「口を利く」等々、さりげなく実演してくれる。初めて文楽を観るときは、世の中にあまり文楽の情報が溢れていないだけに、さまざまな疑問がわいてくる。人形が人間の代わりに演じるなんて一体どいうことになっているのかとか、所詮人形劇、つまらなかったらどうしようとか、自分は果たして江戸時代の言葉が分かるのかなどなど不安に思いながら、観客は、幕が開くのを待つものだ。幕が開いてから、いきなり舞台上で繰り広げられる全くの異次元の世界に面食らうのではなく、これまでの文楽を知らない自分と文楽の世界を、口上人形が橋渡ししてくれるのだ。芝居の中の登場人物ではなく、観客と直接コミュニケートする口上人形は、そういう役割にぴったりだし、なにより楽しい。

人形と人形遣いの関係も、初めて文楽を観る人を意識したものだと思う。おそらく三谷氏は、人形を俳優として見立てることが、文楽に入って行きやすい近道と考えているのだと思う。徹底的に人形を前面に出しているのだ。人形遣いは全段通して黒衣で出遣いにはならない。パンフレットの人形の写真は、完全に俳優を撮影するアングルで撮られており、何と人形遣いは全く見切れている。ふつう、文楽の人形の写真といえば、人形遣いと人形がセットで写る。ファンはお姫様の人形が見たいというよりは、自分の好きな人形遣いがお姫様の人形を遣っている姿が見たいからだ。

また人形の所作も、時により、人形浄瑠璃のお作法よりも人間による演劇の俳優による動きに近くなるよう工夫されているようだ。典型的なのは、ある人形のボケに、それを聞いた人形がシラケたリアクションをするというような場面だ。通常、文楽では、チャリ場のような滑稽味を出す場面があるので、ボケる登場人物は結構いるのだが、ボケる人形の周り人形は、それを受ける演技はしない。そういう点も、より俳優によるコメディに近い演技にして、少しでも違和感を無くそうという配慮なのかもしれない。

その分、人形浄瑠璃では通常、要と見なされている太夫と三味線が、むしろ、副次的に扱われているのも興味深い。太夫と三味線は舞台の最奥の高いところに配置されており、演じている人形に語りを当てるような形で演奏する。これは初めて文楽を観る人にとって、台詞が一体となって感じられるようにするための工夫が、そもそもの意図なのだと思う(高いところにいるのは、音の抜けを良くする工夫だろう)。私は文楽より少しだけ先に歌舞伎を観始めていたので、人形が舞台上にいて、太夫と三味線が上手(かみて)にいるという配置に違和感を抱くことはなかったけれど、確かに、たとえばイベント会場にいる着ぐるみの人形の声が人形の位置とは全く別のところから聞こえるというのは違和感を感じる。たぶん、歌舞伎の丸本物を観たことの無い人は、そういうのと同じ感覚を抱くのかもしれない。それに、人形も観たいけど、床も観たいという思いは文楽を観る人のほとんど誰もが抱く思いで、それを解決してしまうためにも、あのような配置になったのかもしれない。すごく画期的(とはいえ、あんな高くて不安定でまぶしそうな床で演奏しなければいけないのだから、太夫や三味線の方々は大変そう)。

また、太夫のことばは、大部分が現代語で、古典芸能にふれたことが無い人でも違和感なく聞き取れるよう工夫されている。パンフレットに床本をつける必要は無かったのではないかと思うくらいだ。それでも、床本がついているのは万が一の保険のための親切心なのかも。しかし、だからといって完全に現代語というわけではなく、一部、文楽の名作の一番良いところがほんの少し引用されていて、初めて文楽を観る人でも構えることなく、文楽の一番素敵なところを少しだけだけれども体験出来る。


ここまで常識を覆して文楽未体験の人々向けの配慮がなされているのは、すごいことだと思う。しかし、そういうことになると、反比例して釣瓶落としのとごく、普段文楽を観ている人にとっては面白くないものになりそうな気がするが、そんなことは無く、ちゃんと文楽ファンにとってのお楽しみもある。

たとえば、カーテンコールで、人形をもって頭巾を外した人形遣いの方々をみると、この人ならこの人形だろうという配役の予想を裏切っていて面白い。

それから、脚本は現代語でコメディとはいっても、語りや三味線、人形の所作はすごくまっとうだ。なるほど、こういう時には確かにこういう語りと三味線の旋律が入るな、とか、ああ、こういう感情表現ではこういう所作をするよね、とか、内容理解とは別に、文楽って、こういう表現技術で成り立っているんだなというのを改めて確認する面白さがある。普段はそういう表現技術は江戸時代の浄瑠璃らしい文章表現と緊密に結びついているものを観ているので、そういった浄瑠璃の世界観や文章表現と切り離された現代語のコメディを観るというのは、不思議な感覚だ。とはいえ、特に三味線なんて、新たに作曲するのだから、もっと「この程度の話で、そんな大げさな!」というような旋律がついていたりするのかと思ったら、全然そんなことはなかった。少し残念だったかも。

他にも、先にふれたように文楽の名作の一部が引用されているので、覚えている人には、あの段のあの部分だ、というのが分かり、それを聴くことが出来るのがうれしい。ただ、感動的な部分がコメディに挟まれているので、「先々週の文楽劇場での私のあの感動を返してよ!」と言いたくなるような箇所もあったけど、まあ、そんな感想は無粋ってものかも(それに、語りや三味線自体は先にも書いたように至極まっとうで素晴らしいのです)。


物語の内容は、三谷氏がパンフレットに書いている通り、普通の市井の人々のお話。普通の人々がちょっとした思いつきで始めたことが、あれよあれよという間に普通でない経験となり、一山越えて、また普通の生活に戻っていく。近松の世話物も、普通の人がある時、ふと踏み外して普通でない経験をする話だが、近松の場合はそのまま悲劇となってしまい、二度と元の生活には戻れない。

近松の世話物は、特に『曾根崎心中』などは、人々の話題をさらった実際の心中事件に取材してるがあるのだから、普通の人が普通でなくなる過程にドラマを見出したのだろうけれども、三谷氏はそういう帰結にしていない。むしろ最後まで普通の人々にこだわることが、人形という人間のフェイクで演じられる物語と三谷氏が定義した文楽に、よりリアリティを与えると考えたのかもしれない。もしそうだとすると、人形よりは語り=ドラマを意識している近松やその後継者の浄瑠璃作者達と、俳優に見立てた人形が演じる「人形による芝居」にリアリティを持ち込もうとすることを非常に意識している三谷氏は、コメディ作品であるということを差し置いておいても、過去の浄瑠璃の作者達とは、かなり異なる立ち位置にいることになるように思う。

そう考えると、観劇中に見て個人的に感じたことに対して自分なりの答えが見つかるように思われる。今回の公演では、会話部分のことばの応酬はとても面白くて観ている人をつい夢中にさせてしまうものがある。実際、ほとんど会話をベースにして話が進行するので、全体としてはとても面白いコメディなのだ。が、ト書きに当たる地の部分は、ベタな喜劇風(私は全然詳しくないので勘だけれども、たぶん、大阪の芸人が演じる大衆演劇の喜劇のパロディになっているのではないだろうか)で本来面白くなりそうなのに、それがあまり効を奏していないような感じがする。特に中盤、地で進行する部分が多くなる箇所は、展開が見えてしまって、見えてしまった展開を追っていくのが、ちょっとだけ、つらい。もっとも、私はもともと先読みしすぎる大変悪いクセがあるので、そんなことは感じない人も多いとは思うが。

しかし、考えてみると、地の部分が面白くないとか展開が見えてしまうというのは、普通、文楽を聴く分には、あまり感じない。それはきっと、ひとつには、大当たりした演目は長期にわたって公演が打たれたり再演されるので、そのことを意識して、ちょっと聴いただけでは理解出来ないような修辞をちりばめたり、ドラマをどんどん複雑なものに発展させていったということがあるのだと思う。たとえば、浄瑠璃が生まれた頃に同じように存在していた芸能で、それなりに人気があったにもかかわらず、途中で衰退してしまった幸若舞説経節という芸がある。これらの芸能の作品の多くは、当時は斬新だったのだろうが、今、読んでみると、話がステレオタイプかつ冗長で、とても読んで面白いと思える代物ではなく、最後まで読み通すのが非常につらい。これらの芸能は口承芸であることを重視していたので、同じ表現が何度も重複したり辻褄が若干合わなかろうと大きな問題とは考えず、語りの技術の方を重視していたのだと思う。しかし、長年聴かれている間に、飽きられてしまったのだろう。そして、もう一方の存続し続けた方の能楽義太夫はというと、これらは幸若舞説経節とは比較にならないほど、複雑または壮大なドラマか、和歌や古典の知識をベースとした繊細な修辞に彩られている。それに加えて、語りや謡いの技術も高度に洗練されている。だから、ドラマが複雑で表現が難しくとも、初心者には皆目分からないということは決してなく、何度観ても少しずつ違う発見があったり、見方が変わって行き、飽きることがない。これらの芸能が衰退せずに生き残って古典になるべくしてなった理由なのだろうという気がする。

そうはいうものの、現在の全く文楽を観たことが無い人がはじめて観るような文楽の新作で、複雑なドラマや凝った修辞を採用しつつ、イヤホンガイドやら字幕やらの補助手段に頼らないというのは、やはり、なかなか困難なことだろう。三谷氏ぐらいの脚本家ならば、もちろん擬古典の作品だって、いくらでも作れるだろうが、そうせずに、敢えて語り芸という部分よりも人形に焦点を当てているのも、はじめて観る人や見慣れていない人が、普通に楽しめる作品にするための配慮なのかも。


それでもやはり、もし、三谷文楽を次回も企画していただけるのであれば、文楽のファンとしては、やはり、次は文楽ならではの語り芸としての部分に「も」、スポットライトを当ててほしい。また、今回は普通の人の普通の人生を描いた三谷文楽だったけれども、もっとたくさん、意表をついた展開があったら楽しいと思う。技芸員の方が三谷氏に言ったように、文楽人形は人間が出来ることはできるし、人間が出来ないこともできてしまう以上、無意識のうちに、普通の展開でない、「実は」という意表を突くような展開を期待してしまう。文楽のストーリーが、時に「荒唐無稽な展開」と言われるのは、江戸時代の浄瑠璃作者達の作劇術が未熟で荒唐無稽な発想をしたのではなく、これもまた、人形浄瑠璃というものを面白く観るために、浄瑠璃作者達が積み上げてきた知恵の産物なのだろうと思う。


というわけで、楽しい上に改めて文楽って何なのかを考えさせてくれる、三谷文楽なのでした。技芸員の方々は、いつも素晴らしい芸をみせてくださる出演者の方々ばかりで、今回も大変楽しく拝見しました。それにしてもこの暑さで出ずっぱり一日2回公演とは、大変そう!