国立劇場 9月文楽公演 第一部

<第一部>11時開演
 粂仙人吉野花王(くめのせんにんよしのざくら)
    吉野山の段   
 夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)
    住吉鳥居前の段、内本町道具屋の段、釣船三婦内の段、長町裏の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2012/9100.html

夏らしい白紋付で演じられた舞台は爽やかなものになるかと思いきや、外の気温以上に熱い熱演だったのでした。


粂仙人吉野花王(くめのせんにんよしのざくら)
    吉野山の段

久米仙人といえば、『今昔物語』巻十一、本朝付仏法編の第二十四に出てくる人。仙法を使って空を飛んでいたら、吉野河で洗濯をしている若い女の人が着物をふくらはぎまで掻きあげていて、そのふくらはぎが白いのを見て心が穢れて(!)、空から落ち、只の人になってしまったので、その女の人と結婚したという。その久米仙人を主人公にして歌舞伎の「鳴神」の話に仕立てたというような紹介のされかただったので、「これはもう、絶対につまらないに決まってる」と思ったら、思いの外、面白かった。「鳴神」の要素もあるけれども、「娘道成寺」の形も借りているよう。

何が面白いかというと、花ます(千歳さん・清十郎さん)という名の、元は江口の里の傾城だった娘が、住吉の浜で出会った夫とのなれそめを語るクドキが面白い。「嫗山姥」の郭噺の段なども八重桐のクドキが大変面白が、あの面白さを踏襲していながら、さらに楽しい要素が加わっている。たとえば、詞遊びが楽しいだけでなく、軽快で明るく色気のある花ますの語りに、お坊さん達の合いの手が絶妙に入って、噺に畳みかけるようなリズムを作り出している。また、花ますはクドキの間中、まるで仕方噺のように所作をするので、踊りを見るような楽しさもある。

そのような、楽しいクドキを聞いて観客が夢中になるのと同じように、聖徳太子の弟で、弟を陥れようとしている粂仙人も、まんまと花ますの術中にはまってしまい…という展開になる。

パンフレットによれば、平成三年五月以来の上演とのことだけど、こんなに楽しいお話なのだから、もっと頻繁に上演してほしい気がする。ちょっと「鳴神」的なやらしーところがあるから、よろしくないのかな。確かに観てて気恥ずかしいのは事実なのですが、その他の部分が面白いから、私は許せる気がします。


夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)
    住吉鳥居前の段、内本町道具屋の段、釣船三婦内の段、長町裏の段

もともと楽しみにしていたけれども、予想を上回る楽しさでした。

個性的な登場人物達の間の緊迫感あるやりとり、スピード感ある展開、夏らしい衣装や小道具、面白い三味線の旋律や囃子のリズム、そして祭。そういった舞台上で繰り広げられる視覚的・聴覚的な楽しさだけでなく、錯綜しながら長町裏の義平次殺しの場面に収斂していく筋の面白さや、策略、忠義と義理、恋、悋気、侠気、憎しみといった様々なものを、観ている者は上演される数時間のうちに一気に疑似体験するのだ。

『夏祭』を作った人は天才だと思う。合作と言うけれども、これだけ個性的な登場人物と複雑な筋を複数の人間によって一つの話に組み込めるものだろうか?少なくとも、今回上演された段については、一人の人が書いているに違いないと思う。よく三大名作とかいうけれども、『夏祭』と『妹背山』を入れて五大名作としてほしいくらい。


今日、観て思ったのは、『夏祭』の中には、「忠義」と「義理」の二つの世界があって、それらが団七を中心軸として絡み合って舅殺しに収斂していくということだ。特に個人的に面白く思ったのは、この浄瑠璃の中では、「忠義」の関係と「義理」の関係が描かれていて、その「忠義」と「義理」は、はっきりと区別されている。私は今まで、「忠義」と「義理」というのは、だいたい一緒のものもののような気分でとらえていて、あまり区別したこともなかった。けれども、今日、『夏祭』を見て、その違いが少し分かったような気がする。

二つの世界のうちの一つ、「忠義」で結ばれた世界には、玉島兵太夫殿の嫡男、磯之丞様(以下、めんどくさいので磯様とす)という人と、彼と恋仲にある琴浦の二人があり、その二人をどうにかして安全に国元に返そうとする、団七をはじめとした、徳兵衛、徳兵衛の妻であるおつぎ、三婦などがいる。

磯様は、どちらかというと限りなくアホボンで、手持ちのお金も無ければ正確な住所も知らないのに駕籠に乗って、駕籠舁きに袋叩きにあいそうになったり、身をやつして道具屋で町奉公しているときに、琴浦という恋仲の傾城がありながら、道具屋の娘とも恋仲になってしまったり、田舎侍の客に騙られたり、偽の香炉を掴まされたりと、様々な事件を引き起こす。そして、団七や三婦達は、磯様の落ち度は不問に付して、とにかく彼を助けることだけを考える。なぜなら、磯様は、団七や徳兵衛等のお主である玉島兵大夫殿の嫡男だからだ。おそらく、お主に落ち度があろうとなかろうとお主に尽くすというのが、(少なくとも江戸時代の浄瑠璃の中の)「忠義」というものなのだろう。

一方、「義理」で結ばれた世界は、団七を中心として考えれば、舅の義平次との関係、三婦や徳兵衛との関係などがあげられるだろう。たとえば、磯様が田舎侍に謀られた時、団七は磯様を田舎侍から助けようとするが、その田舎侍の顔を見て、実は、その田舎侍が舅の義平次だと知る。敵対する佐賀右衛門であれば、懲らしめることは出来ても、義理のある関係の舅の義平次は、懲らしめることは出来ない。そして、「義理」の関係が「忠義」の関係と大きく違うところは、面子の問題がそこに立ちはだかっていて、磯様のようなアホボンの落ち度も「忠義」の問題であれば、不問に付すことが出来ても、舅の義平次に対しては、「義理立て」したところで、お互いの顔が立たなければ、遺恨が残るのだ。

良い例が、三婦に「こなたの顔に色気がある」から、磯様を預けることは出来ないと言われたお辰が、火鉢に掛けた熱い鉄弓を顔に押しつけ顔に火傷を創る場面だ。今の時代だったら、「そんなアホボンのために何故そこまで」と思ってしまう。しかし、磯様に忠義を立てるおつぎにとっては磯様の行動の是非など全く問題ではなく、侠気のある彼女の面子をつぶされ、それが夫の徳兵衛の顔をつぶすことにもなることが問題なのだ。だから、彼女は、熱い鉄弓を顔に当て、顔を火傷させて、「分別の外、という字の色気があらうかな」と三婦にすごんでみせ、三婦に「出来た、アゝえらいもぢや/\/\、お内義、磯之丞殿の事を頼みますぞや」と言わせることで、自分と徳兵衛の面目を回復するのだ。

ところが、団七と義平次の関係は、義理立てによって、お互い面子をつぶされたと感じ、憎しみを深めていく。義平次が田舎侍になりすまして磯様を騙ろうとした一件といい、琴浦を佐賀右衛門に売りとばそうとした一件といい、義平次にとっては金儲けの策略がいつも団七によって潰され、団七にとっては、自分は忠義を通そうとするのに、義平次への義理立てに迫られた末に、いつも自分の我を折って、義平次を立てなければならない。そもそも、義平次が、金儲けの計略を立てて、磯様と琴浦に絡んでいくところが既に、無意識のうちの団七への憎しみや復讐への欲求の現れなのだろう。その憎しみの渦が、「忠義」の世界を「義理」の世界に引き寄せ、殺しを避けられないものにしていく。


そして、祭の夜、決定的な事件が起こる。義平次が佐賀右衛門に売り飛ばそうとした琴浦を、三婦の元に返したものの、団七が琴浦を返す代わりに義平次に渡すと約束した三十両が実は空言だったことが分かると、長町裏で二人きりになった団七と義平次はお互いへの憎悪が押さえきれなくなる。私は今まで団七は良い人で、義平次は悪いやつだと単純に考えていたが、実は、そう単純な話ではないことが、今回の公演を観て分かった。確かに、まるでオセロの黒い石と白い石のように、義平次は三婦に比べれば極悪人だし、団七は義理堅い人間で、正反対ではある。床もそう語るし、人形もそう演じる。しかし、二人とも薄氷を踏むように義理立ての一線を保ちながら、お互いに憎しみをため込んで来たのだ。むしろ、忠義を重んじ、義理堅い分だけ団七の方が、本人も気が付かない心の奥底で、不条理を抱え込み、義平次への憎しみを深めていったのかもしれない。

最初に行動を起こすのは義平次だ。六年この方、団七とお梶が夫婦になった時からの積もり積もった憎悪の感情を、露わにしながら、団七を捻じ回し、雪駄(せった)の皮で摩(さす)り歪める。さらに、「モウ御了簡なせれませ」という団七の脇差を抜いて、「サア切らぬか」と挑発する。義平次の「切らぬか」という挑発は、道具屋の段で田舎侍に扮して磯様を騙る時も同じようにしていて、義平次にとっては、十八番の脅しだったのかもしれない。しかし、これがきっかけとなって、長い長い、団七の舅殺しの場面が始まる。団七が義平次をひと思いに殺さずに、長い長い時間をかけて義平次を追い回すのは、義平次への憎しみの深さ故かもしれない。

団七が義平次を殺しきってしまった時、祭の喧騒が大きくなり、神輿が近づいてくる。団七は急いで井戸の水をかぶって血を拭い、殺しの証拠を隠滅すると、神輿が団七の前を通る。狂ったように神輿を担ぐ人々と、憎しみに自分を失い舅を殺してしまった団七。二つの狂気が重なりあい、騒々しい神輿を担ぐ人の一群が通り過ぎた時に、団七も狂気から醒め、我に返って、その場から急いで逃げ出そうとする。文楽の演目の中でも特に秀逸な場面だと思う。


どの段も素晴らしかったけど、特に「長町裏町の段」が素晴らしかった。憎々しい勘十郎さんの義平次と、耐える玉女さんの団七。それから、源大夫師匠、英さん、藤蔵さんの床。またひとつ、文楽の楽しさを教えてもらった気がする。