国立劇場小劇場 9月公演 第二部(その1)

<第二部>4時開演
 傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)
    十郎兵衛住家の段
 冥途の飛脚(めいどのひきゃく)
    淡路町の段、封印切の段、道行相合かご
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2012/9100.html

第一部も楽しかったけれども、第二部も充実していて、どちらが好きとは決められない、楽しい公演でした。


傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると) 十郎兵衛住家の段

今まで観る機会が無くて、今回、初めて観ました。文雀師匠の遣うお弓の、娘を思う切ない気持ちに、胸打たれました。


物語は、お弓が一人居る玉造の家で、町飛脚から、「夫の身の上が既に危うく早々にを立ち退け」と勧める手紙を受け取るところがら始まる。お弓は、その状を読むと、思わず柱に据え付けられた観音図に夫の無事を祈る。文雀師匠のお弓は、しっとりとした立ち振る舞いの女性で、その観音図に向かって祈る後ろ姿は、か細く、はかなく、その懸命な祈りとは裏腹に、悲劇の訪れを予感させるものがある。

そこに順礼歌を歌いながら、いたいけな順礼の娘が現れる。お弓と十郎兵衛は阿波の母に娘のおつるを預けている。お弓は、いつも幼い女の子を見ると自分の娘のことを思い出すのだろう、その娘に御報謝の白米を渡すと、家に上げ、優しく話しかける。すると驚くことに、その娘は、他ならない、自分の娘のおつるだと知る。思わず娘に近づき額を撫でると、間違いなく娘と同じ場所に黒子がある。

お弓は、母だと名乗って抱きしめ、二度と離したくない気持ちと、今日限りの難儀のかかった夫婦の立場を考えれば親子の名乗りは出来ないという気持ちの板挟みになって、心の動揺を押さえられない。どちらも子を愛おしく思う故の気持ち故から出ているだけに、お弓の動揺を観る方も胸が締め付けられる。

一方の、おつるも健気で、自分を置いて国を出た親々を恨みはしないと言いながらも、
「余所の子供衆が、母様に髪結うて貰うたり、夜は抱かれて寝やしやんすを、見るとわしもあの様に髪結うて貰はうものと羨ましうござんす」
と、寂しそうに告白する。そう、このくらいの時分の女の子は、私が子供の頃も、そして、きっと今だって、髪を結ってほしくて、母親にせがむものなのだ。半二は娘がいたというけれども、こういう何気ない親子の日常を切り取ることが出来る半二だから、このような情に溢れる物語を書くことが出来るのだと思う。

さらに、おつるは優しく親身に聞き入るお弓に、これまでの一人旅の艱難について、涙声で、
「どこの宿も泊めてはくれず、野に寝たり、山に寝たり、人の軒の下に寝ては叩かれたり」
と語り、父様や母様に「逢ひたい事ぢや、逢いたい」と、わっと泣き出してしまう。

お弓は余程、自分が母であることを打ち明けようかと思うが、自分の身の上を考えれば、可愛い娘を危険にさらす訳にはいかず、心を鬼にして、おつるに、このまま国に帰るように諭す。

おつるは尚もお弓に泣きついて、
「お前のお傍にいつまでも、わたしを置いて下さいませ」
と懇願するが、お弓は無理矢理、餞別の路銀を渡し、出立させようとする。この場面では、お弓の手ぬぐいを、お弓とおつるが泣きながら引き合い、まるで離れ難い親子の絆(ほだ)しのように二人をつなぎ止めるものの、お弓は無理矢理、手ぬぐいを引き取って戸をぴしゃりと閉める。

無理に出立させられたおつるは、その場を立ち去り難く、とぼとぼと歩きながら、「父母の、恵みも深き粉川寺」という順礼歌を歌う。きっと、父母の恋しさ故に、つい「父母の」で始まる順礼歌が口をついで出たのだろう。おつるは消沈した様子で、悲しげにその場を去っていく。同じ頃、家の中では、母であるお弓が、柱にすがりついて伸び上がって娘の後ろ姿を追い、海山越えて艱難して父母を求め来た娘を追いやる自分を責めて、泣き崩れる。そして、お弓は、「今別れてはまた逢う事はならぬ身の上」であることに思い至り、「たとえ艱難が掛からば掛かれ、その時は夫の思案」と、意を決して娘を探しに行く。


これだけでも十分悲劇的な話なのに、半二はもっと悲劇的な場面を後半に用意していた。

夕暮れ時となり、外から戻った十郎兵衛は、何故かおつるを連れている。十郎兵衛は、おつるを自分の娘と気付いたわけではなく、非人達にお金を取られそうになっっていたから助けたという。けれども、十郎兵衛は、実は今日中に用立てなければならないお金があり、おつるが持っていると踏んだお金に興味があったのだ。そのため、警戒するおつるから無理矢理お金を奪いとろうとし、騒いだおつるの口を塞いで、窒息死させてしまう。

そこに、おつるを探し廻っていたお弓が家に戻ってきて、十郎兵衛は、おつるがこの家に訪ねてきたことを知る。そしてお弓からおつるの特徴を聞いた十郎兵衛は、自分が殺してしまった順礼の娘が、実は自分の娘のおつるだったことを知る。

部屋に横たわるおつるが最早死んでいることを知ったお弓は、十郎兵衛に「そんならお前が殺さしやんしたのかいな」と詰め寄り、「ハテ、テモさても是非もやな、情けなや」と娘の死骸を抱きかかえながら、泣き伏す。父母を慕ってたった一人で阿州から摂州まで、様々な艱難辛苦を乗り越え、奇跡的に父母の家までたどり着いたのに、親子の名乗りも果たせず、結果的には追い返した上に親の手で殺してしまったことを嘆く。

もっとも、十郎兵衛は、「怖い」と必死に叫ぶおつるの口を塞いだ時、決しておつるを殺そうとは思っていなかった。しかし、それでは、おつるを殺してしまったのは不幸な偶然がもたらした事件だったのかと言えば、そうとは言えない。十郎兵衛は、武太六に今日中に返さなければならないお金の工面が上手くいかず、焦っていた。そのため、おつるの「小判というものがたんとござんす」という詞に目が眩み、自分も娘を持ってながら、このいたいけな娘を脅し、娘が怖がって声を上げると、近所にばれないようにと、小さな娘の息の根を止めるほどの力を込めて口を塞ぎ、殺してしまったのだ。

十郎兵衛は、国次の刀の詮議のために、身をやつして、盗賊となっていた。彼は窃盗が罪であることは、当然、重々承知していたはずだ。しかし、盗賊に身をやつして生活し続けた結果、窃盗という罪を犯すことに慣れてしまったのだと思う。ひとつの罪が日常になってしまった時、人は罪悪感が、鈍ってしまうのだろう。その結果、十郎兵衛は、それといった自覚も無いままに、新たにもっと大きな罪を犯してしまったのだと思う。

そして、その殺してしまった娘は、取りも直さず自分の娘のおつるであり、おつるの「たんと」ある小判とは、たった三両のことだった。十郎兵衛は、自分の娘を自ら殺してしまっただけでなく、お金の工面にも失敗し(とはいえ、十郎兵衛が調達したい金額が五十両だということは、今回の公演の範囲では出てこないので、イマイチ分かりにくいけど)、自分の身の因果を思い知る。

しかも、おつるは財布の中に、十郎兵衛の母からの手紙も携帯しており、その文によれば、十郎兵衛が探している国次の刀は敵に当たる群兵衛が盗んだとあり、さらに母はおつると十郎兵衛の元に旅立とうとしたが、直前に息絶えてしまったということが判明する。しかしこれは、十郎兵衛夫婦にとっては不幸中の幸いの知らせであり、おつるは、いわば命を捨てて、この知らせを運んでくれたのだった。

ここまでの場面を観て、興味深く感じるのは、十郎兵衛は、おつるの死を、お弓ほどには嘆かないことだ。彼にとっては、自分の手で娘を殺してしまったことよりも、お主に託された国次の刀の詮議の方が余程一大事のようだ。そのためか、この段の段切は、『近江源氏先陣館』の「盛綱陣屋」や『妹背山婦女庭訓』の「妹山背山の段」ように、失った娘や息子を親達が嘆く絵面で終わるのではなく、大勢の捕手(実際の舞台上ではツメ人形が三人だけで、ちょっと寂しいけど)に家を囲まれ、お弓がが松明の火ででおつるを火葬にできるよう細工を施した上で、夫婦が捕手から逃げるところで終わる。さらに、この『傾城阿波の鳴門』の結末は、刀を無事取り戻し、それぞれの登場人物がそれぞれ収まるところに収まって、めでたしめでたしとなる。

おそらく、この「十郎兵衛住家の段」は、十郎兵衛はお主への忠心から行動していたものの、彼の短慮な面が災いして、お金の工面に目が眩んだために、自分の娘を殺してしまうという悲劇を描こうとしたのだと思う。しかし、「借金の工面」と「刀の詮議」いう物語の展開の原動力となる仕掛けを仕込んだ結果、段切で、その日が期限の借金を返したのか踏み倒したのか描かざるを得ず、また、十郎兵衛に課せられた国次の刀の詮議の重大な手がかりを得る場面も描かなければならない都合上、結果的に、十郎兵衛自身の悲劇としての描かれ方は不十分となってしまったのではないだろうか。特に、お弓が率先しておつるに火葬の細工をして夫婦が捕手から逃げるという最後は、劇の途中でなまなか感動してしまうだけに、余計に、観ている方は、話からおいてけぼりにされるように感じてしまう。

同じ「十郎兵衛住家の段」でも、鶴澤八介メモリアル「文楽」ホームページの床本集にある『傾城阿波の鳴門』「十郎兵衛住家の段」は、十郎兵衛の悔恨や十郎兵衛の母からの手紙等の部分がざっくり削られたバージョンのようだ。このような編集の意図は、十郎兵衛の出番を最低限にして、「十郎兵衛住家の段」全体を、お弓とおつるの悲劇とする試みなのではないかと思う。なかなかの名案だとは思うけど、実際に観たら、「でもって、殺した張本人の十郎兵衛は、なんで他人事かの如く黙ってるのさ!」などと思ったりするのかもしれない。そう考えると、上演頻度が高いという前半の「順礼歌」のみで終わる上演の仕方も、よく分かる気がする。

また、「十郎兵衛住家の段」と似たような子供を失う場面がある、『近江源氏先陣館』が『傾城阿波の鳴門』の翌年、『妹背山婦女庭訓』がその三年後に書かれたことを考えると、ひょっとして、この場面の反省を元に、「盛綱陣屋」や「妹山背山」の段切が親たちの愁嘆で幕を閉じる形になったのかも、などと妄想してしまう。

人形は、何と言っても文雀師匠のお弓に心打たれた。一度は休演されたのに、体調の悪さは見せずに遣われていて本当に頭が下がります。文雀師匠の人形は、能楽宝生流の近藤乾之助師と同様、その人形の姿から登場人物の心情が溢れ出てくるかように感じる。その美しいフォルムが大好きなのだ。ただ、私が観た時は、後半の浄瑠璃がテンポが早く、ちょっと文雀師匠のお弓のしっとりとした演技が追いつかない場面が少しあり、そこが少し残念だったかも。


ところで、今回観るまで、この物語について、「阿波」や「順礼」という言葉から、四国八十八ヶ所のお遍路さんの話かと思っていたが、実は西国三十三ヶ所の順礼の話だった。

詞章の中にも、第一番の青岸渡寺から第三番の粉河寺の御詠歌、

青岸渡寺> 補陀落や岸うつ波は 三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬
紀三井寺> ふるさとをはるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん
粉河寺> 父母の恵みも深き 粉河寺 ほとけの近い たのもしの身や

が出てくる。

このうち、那智山青岸渡寺は、極楽浄土を目指して生きたまま入水入定するという、捨身行である補陀落渡海の出発地のひとつとして古来より知られている。一方、粉河寺は、粉河寺縁起が有名だ。粉河寺縁起には、「童(わらわ)の行者」という稚児のような行者が出てきてて、粉河寺の本尊である千手観音を7日で彫ったり、病で苦しんでいる長者の娘に加持祈祷をして病を治したりする。実は、童の行者は粉河寺の本尊の千手観音の化身なのだ。

補陀落渡海という<捨身の行>、紀三井寺の御詠歌の「ふるさとをはるばる」という詞、粉河寺の御詠歌の「父母の恵みも深き」という詞、粉河寺縁起に出てくる「童の行者」。「十兵衛住家の段」に、このようなイメージを重ねることで、この物語をもっともっと奥行きの深いものとして感じることが出来るような気がする。


という訳で、『冥途の飛脚』まで行き着かなかったので、その2に続きます。