国立劇場小劇場 9月文楽公演第二部(その2)

<第二部>4時開演
 傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)
    十郎兵衛住家の段
 冥途の飛脚(めいどのひきゃく)
    淡路町の段、封印切の段、道行相合かご
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2012/9100.html

その1からのつづきです。


冥途の飛脚(めいどのひきゃく) 淡路町の段、封印切の段、道行相合かご

今まで、忠兵衛くんのダメ男っぷりには、毎回イラっとさせられ、梅川が可哀想に思ってきた。頭の中で、忠兵衛くんへのイラつきと曽根崎心中の徳兵衛くんへのイラつきとが、一部ごっちゃになっているフシがあるので、その分は割り引かないといけないけど、恐らく初演当時から、忠兵衛くんにイラッときた人は多数いたと思われるので、初演から今まで、歌舞伎も合わせたりしたら、それこそ忠兵衛くんにイラついた人の数は述べ数百万人とかじゃきかないんじゃないだろうか。そこんとこ、近松はどう考えているんだろう、などと思ったりしていたが、今回、観ていて、実は、観ている側がそう感じるのは、近松がこの『冥途の飛脚』をそのように書いているのであって、観ている人はた見事に近松の術中にはまっているのだと気がついた。


たとえば、改めて、忠兵衛の性格について、近松がどう描写しているか検討してみてみると、冒頭こそ、

商ひ巧者(中略)、茶の湯俳諧碁双六延紙(のべ)に書く手の角取れて、酒も三つ四つ五つどころ紋羽二重も出ず入らず、無地の丸鍔象眼(まるくびぞうがん)の国細工には稀男(まれおとこ)、色のわけ知り里知りて

と、大和の里の出でありながら、商売にも遊芸にも長け、遊里での遊びにも通じていて、一言でいえば、粋な旦那衆だと書いている。

しかし、誉めているのはそこまでで、その後は、粋な忠兵衛の悪いところを、ちょっと意地の悪いくらいの書きぶりで、描いている。

まず、忠兵衛の出の場面である亀屋に帰ってくる場面からしてそうだ。「とぼ/\と外の工面内の首尾、心は蜘蛛手かく縄や十文色も出て来るは」というものだが、要するに、「忠兵衛は、梅川に入れあげ、彼女を受け出そうとしている田舎客から奪還し受け出すためのお金の工面をしている都合上、少しずつ店のお金をかすめ取っている。当然、外から亀屋に戻る時には、自分の留守中に方々から銀の催促があったかどうかが気になる。そんな、一歩間違えばお縄になりかねない綱渡りな状況で、忠兵衛自身は勇ましく闘っているつもりだが、心は千々に乱れて上の空、それでもやはり遊里の梅川のことが気になり…」といったところで、かなり皮肉った表現だ。

そしてこの時は、たまたま目の前を通りがかった飯炊きのまんから様子を探ろうとする。その時の忠兵衛の独り言は、「きやつは木で鼻没義道者(無愛想で人情が無い)、ただは云ふまじ、濡れかけて、だまして問わん」というものだ。結局、彼は首尾よく店の様子を聞き出すことが出来ず、「うそ腹に立ち煩」うことになる。

その時、八右衛門が通りかかり、彼からは五十両黙って手を着けているため、逢わないようにそのまま退散しようとするが、つかまってしまう。そこで、関係ないことをまくし立てたりする。そして彼に問いつめられて白状するが、涙ながらに訴えて一芝居打つ始末。

淡路町」の最後でも、「おいてくれうか、いてのこうか」の行ったり来たりの、なさけない忠兵衛を描いた場面の後は、「一度は思案、二度は不思案、三度飛脚。戻れば合わせて六道の冥土の飛脚と」で結んでいて、梅川の方に戻ってしまったのは、とりもなおさず、地獄への道だったと書いて、この段を終わらせている。

「封印切」の段では、もっぱら、彼に人の銀の封印を切らせることになる短気と見栄っ張りなところを中心に描いている。

八右衛門が、忠兵衛が彼の五十両をくすねた一件を揚屋の遊女達に語って聞かせている時も、思わずその場に出ていこうとする忠兵衛を「短気は損気の忠兵衛」と表現している。とうとう出ていくときは、「忠兵衛元来悪い虫、押さへかねてづんと出て、八兵衛が膝にむんずとゐかゝり」となる。忠兵衛自身は、「傾城は公界者(見栄をはらなければやていけない仕事)、(中略)川が聞いたら死にたかろ」「我が身の一分、川が面目」と、出ていった理由を梅川を思い遣ってのことのように言っているが、梅川が面目を無くすのも忠兵衛の身から出た錆であり、本絵のところは、自分の外面を守ろうとする行動なのだと、近松は描きたいようだ。

そのためか、封印を切ってしまう時の忠兵衛の言葉は、「この忠兵衛が三百両持つまいものか、女郎衆の前とは言い身代を見立てられなは返さねば一分立たぬ」と啖呵を切って封印を切り、「コレ亀屋忠兵衛が人に損かけぬ証拠、サア受け取れ」と封の解けた小判の束を八右衛門に投げつける。結局自分の面子を立てるための行動であって、「人にそんかけぬ証拠」というその行為が、その実、堂島のお屋敷の急用銀を使い込むという、まさに人に損をかける行為であるというのが、近松一流の皮肉だと思う。

そして、本当に梅川を可愛いと思うのであれば、梅川にも、それで貫き通せばいいものの、「逃げるように郭を出ないでゆっくり出させてほしい」という梅川に対して、わっと泣き出し、事情を告白し、梅川を巻き込んで心中へと突き進んでいくことになる。


一方の、梅川に対する描写は、「哀れ深き見世女郎」というのが、近松の梅川像のようだ。

その梅川の状況を端的に表現するのが、禿ちゃんが語る浄瑠璃だ。外題を「夕霧三世相」といって、近松が作った浄瑠璃のようだ。近松全集をみてみると、「三世相」の第三段に、このままの詞章がある。この第三段は、傾城夕霧の遺児、春姫が、夕霧が傾城をしていた新町で偶然、夕霧の妹女郎の荻野と出会う段だ。春姫が、傾城の娘として生まれた悲劇や、今は父親も行方知れずとなったことを語る。それに対して、荻野が、傾城の勤めがどういうものなのかを春姫に語って聞かせるという場面だ。「傾城というのは、誠を尽くしても男の人の方が便りもなく遠ざかった時は、どうすることもできないもので、思わぬ人から身請けされ、その誠が反故になってしまうこともある。気持ちを偽って会っていた人も逢瀬を重ねるうちに本当に好きになることもある。恋には誠も嘘もなく、あえていえば、縁があるのが誠だ。思いがつのりすぎて、覚めてしまうこともある。つらいと自分の身の上を嘆くこともあるでしょう。」というもので、ここまで語った禿ちゃんが、無邪気に、「恨まば恨め いとしいというこの病、勤めする身の持病か」と周りの遊女に尋ねるものの、「三世相」の詞章に、とても慰めを得ることの出来ない梅川の気持ちを察した傍輩の遊女達も、白けてしまうのだった。

そのような境遇の梅川は、「封印切の段」の間ずっと、泣いている。傍輩(ほうばい)の遊女達に愚痴を言っては涙し、八右衛門の、忠兵衛が五十両の代わりに渡した鬢水入れの顛末を聞いては涙し、忠兵衛が封印を切っては涙し、忠兵衛から実は封を切ったのは堂島のお屋敷の急用銀だったと聞いては涙している。そして、泣き尽くした梅川は、「それ見さんせ、常々云いしはこのこと、なぜに命が惜しいぞ、二人死ねば本望、今とても易いこと分別据えてくださんせなう」と、彼女の口から心中が出てくるのだ。

こうやってみてみると、近松は忠兵衛に対してはその短気で見栄っ張りのせいで、大変なことをしでかしてしまう状況を皮肉を以って描いていて、梅川に対しては、元々事情があって見世女郎となったという憂き目を見ていながら、さらに好きになった相手が忠兵衛のような人だったために、悲劇的なう境遇に巻き込まれるのを、同情に満ちた書き方で描いているように思われた。つまり、近松自身も忠兵衛には、やっぱり、観る人と同様、皮肉な見方をしていたのだ。


…などと、15日に観た時は思ったのだけど、今日、改めて観て、考えが変わってしまった。「淡路町の段」の最後にある、例の「おいてくれうか、いてのけうか」の、あまりにあほらしく、情けない忠兵衛くんを見ていたら、我ながら信じがたいが、そして、あろうことか、そういう、あほらしくて情けない欠点だらけの忠兵衛くんを愛おしく思う気持ちが、急に心の奥底から湧き上がってきてしまったのだ。

そうすると、「封印切」も、全く別のお話かのように思えてくる。考えてみれば、梅川も八右衛門も賢明で情にも通じた人達で、忠兵衛がどういう人か、欠点も含めて良く知っていたはずだ。そして、その上で、人間らしい過ちを犯す忠兵衛に、愛情や友情を抱いていて、必死で忠兵衛の暴走を食い止めようとしているのだ。近松は、ほんとは、こんな愛情や友情のことを描いていたんだ、と気付かされた。「道行相合かご」の中の、梅川の、「越後で切った封印の科はこなたの科でなし、皆この私故なれば、女冥利に尽きること」という詞は本心の詞なんだろうと思う。忠兵衛は見栄っ張りで短気でその場凌ぎな性格から過ちを犯すかもしれないけれども、その過ちは全て梅川を愛おしく思う気持ちから出たことだと、彼女はよく分かっているのだ。

近松は、そういう二人に神も仏も出さず、非情な最期を暗示して幕を閉じた。けれども、二人のことを賛美してこそいないものの、批判的に思ってはいなかったような気が、今はする。だって、もし批判的に思っていたら、こんな物語が書けるだろか。やはり忠兵衛と梅川の愛情と忠兵衛と八右衛門との友情を愛おしいと思うからこそ、書けたのだろうと思えた。


この日は、他に『傾城阿波の鳴門』の「十郎兵衛住家の段」も観たが、前回観た時よりも特に後半が、ずっと感動的だった。文楽でもお能でも、こんな風に、詞章を読んで、イマイチ納得できなかったところを、そういうことなのだ、と納得する形で舞台で示されることがある。そういう時、舞台を見ることの喜びをしみじみ感じる。

これからも何度でも何度でも色々な舞台を観てみたいものだ、というのが、今日の感想でした。