杜のホールはしもと 文楽地方公演 昼の部

人形浄瑠璃 文楽
【昼の部】「桂川連理柵」六角堂の段、帯屋の段、道行朧の桂川

杜のホール橋下の入り口に、綱を引く照手姫という長い下ろし髪にぞろっとした質素な着付の若い女性の像があった。そういえば、以前、藤沢の遊行寺に行った時に、遊行寺の裏手に、照手姫が小栗判官を弔ったという長生院というお寺があったっけ。私自身は、照手姫というと無意識のうちに赤姫の姿で思い浮かべていたけれども、まだ人形浄瑠璃や歌舞伎の赤姫が成立する前に人々が思い浮かべた照手姫の姿は、この像みたいな感じだったのかも。後でちょっと調べてみると、相模原は照手姫ゆかりの土地らしく、照手姫で町おこし、ぐらいの勢いで、ご当時グッズやら観光案内が山ほど見つかったのでした。知らなかった。また来年も立川で公演があれば、空き時間に照手姫の旧跡を辿ってみようかな。


桂川連理柵」六角堂の段、帯屋の段、道行朧の桂川

桂川の長右衛門のことは、本公演でも内子座でも見ているけれども、未だによく分からない。けれども、特に帯屋の前半、嶋師匠の語りを聞いているうちに、優しすぎて不器用で、それが仇となり、自分を窮地に追い込んでしまう人なのかもしれない、という気がした。たとえば、自分が義母のおとせや儀兵衛からお金の詮議で攻められているのに、相手のことを思い遣って反論せず、かえって自分の方が窮地に追い込まれても為すがままだ。妻のお絹や父の繁斎の助け舟があればこそ、何とか難を逃れる。

石部宿屋の段のお半ちゃんと懇ろになってしまったことも、長右衛門の不器用で優しすぎるところが仇となっているのかもしれない。十四歳といえば、今の年齢ならまだ子供に限りなく近い。けれども、このお半ちゃんは石部宿屋の段の半年後には嫁入りの話が持ち上がる。そういう意味では、たいていの人は長右衛門の立場だったら、間違いが無いように振る舞うのではないだろうか。

嶋師匠の語りは、チャリ場のおもしろさもさることながら、詞章には直接表現されていない登場人物の想いを鮮やかに描き上げるところが好きだ。たとえば、箒で長右衛門を責めようとするおとせを、賢女のお絹が思わず止めて、何も云わない長右衛門の代わりにおとせに反駁してしまう時、お絹がいかに長右衛門のことをどれほど愛しいと思っているかがひしひしと伝わってくる。富助さんの三味線も、先日FMラジオで聴いた合邦の厳しく大胆な三味線とは異なり、柔らかい音色。


帯屋の後半、咲師匠と燕三さんの場面では、長右衛門の状況を何もかも飲み込んで、それでもあえて長右衛門をもり立てようとする繁斎の燈芯の異見や、お絹の報われない苦しい胸の内のクドキがある。長右衛門は、お絹にすべてを告白し、許しを乞い、観ている方も、お絹と長右衛門が夫婦円満であり、お半ちゃんも、何とか納得してどこかにお嫁入りするのが、最善の結末だと思う。

なのに、お絹・長右衛門の夫婦の和解の後、一人寝する長右衛門の元に、勘十郎さんのお半ちゃんが現れる。お半ちゃんのその姿には、一途に長右衛門を想っている気持ちがあふれ出ている。お半ちゃんが出てきた途端に、話は完全に、お半ちゃんと長右衛門を中心に回り出す。

それでもどうにかお半ちゃんをいなそうとする長右衛門に、見納めにもう一度顔をよく見せてほしいとせがむ、お半ちゃん。長右衛門は、お半ちゃんを無理矢理、家に戻すが、お半ちゃんの帰った後に残った書置を見つける。ひたすら細く刻むリズムの三味線が、長右衛門の鼓動の高鳴りを表現する。

書置の「桂川へ身を投げ候」という詞を読んだ長右衛門は最早、ついさっき、お絹と和解した時の道理を弁えようとする長右衛門では無くなってしまう。彼は、若い頃、芸子の岸野を桂川で死なせたが、今夜、また一人、自分を慕うお半が同じ桂川で身を投げようとしているのだ。長右衛門にとっては、賢女のお絹も養父の繁斎も道理の世界の人々であり、お半ちゃんの命がけの恋の前には、彼らの存在は長右衛門をとどまらせる力は、もはや無かった。長右衛門は、岸野の生まれ変わりとしか想われないお半ちゃんとの運命の恋に身を殉じてしまうのだ。

「白玉か、何ぞと人の咎めなば、露と答えて消えなまし」という詞章の通り、道行では、『伊勢物語』の、後に二条の后となる藤原高子を背負って恋の逃避行をしようとした在原業平さながらに、長右衛門がお半ちゃんを背負って登場する。呂勢さん・勘十郎さんのお半ちゃんは、確かに冒頭はあどけなさを残す少女ではあるけれど、立派に一人の恋する女性なのだった。

結局、お半ちゃんが幼い故に、一途で純粋な恋となり、その恋のちからが、お絹や繁斎が繋ぎとめようとした道理の世界から竜巻のように長右衛門の理性をさらって行ってしまったのだろう。そんな運命のような悲恋だからこそ、今の代も、人の胸を打つ、お話なかもしれない(とゆーか、この物語の結末がハッピーエンドだったら、世の女性は怒ります)。


冒頭の解説で睦さんがおっしゃっていたように、どの人物もいきいきしとしていた。お絹は賢女で、繁斎は人生の機微を知る人で、おとせはこれでもかというほど憎々しく、儀兵衛と長吉はあまりに滑稽で、今まで好きでなかった帯屋だけど、どうしても観てみたくて、翌日の立川公演にも行ってしまった。また機会があったら観てみたいという気さえしていて、とうとう私も専助の術中にはまってしまったらしい。