親子の絆と群集劇

先日、観世能楽堂観世清和師と松岡心平先生と土屋恵一郎先生の「百万」に関する講座を聴いた。盛り沢山の内容で、どのお話もとても興味深く示唆的だったけれども、その中でも、松岡心平先生の、「能楽は、子方を中心とした能が多く、親子の絆を描くことをひとつの主要テーマとしていた」という趣旨の話と、土屋恵一郎先生の、「観阿弥の特徴は群集劇にあった」という話で、すごく衝撃を受けた。私にとっては、これから能とか文楽を観る時の見方を、がらっと変えてしまうような指摘だった。


親子の絆を描くという点においては、言われてみれば、子方を探して旅に出た物狂いの話は、元雅の「隅田川」の話のように子供は既に亡くなっていたという話や「善知鳥」のように親の方が死んでしまったという悲劇もあり、「百万」をはじめとして、「三井寺」「歌占」「弱法師」「丹波物狂」等、子供が生きていて無事再会出来るハッピーエンドの話もあり、確かに様々な曲がある。もし芸能の完成度を高めることを考えれば、子方を出さない方がずっと安全に決まっているけれども、敢えて子方を出すというリスクをとってでも親子の絆を描こうとしたのは、それだけ親子の絆というテーマが人々の心を掴んだからかもしれない。そして、人さらいによって子どもと別れ別れになるという話が圧倒的に多いのは、人さらいが頻繁に起こるような社会的に不安定な状況の中で庶民は暮らしていたということなのかもしれない。

「親子の絆」というテーマは、社会的に安定して人さらいもなくなった江戸時代の浄瑠璃においても中心的なテーマでありつづけた。江戸時代の浄瑠璃では、親子の死に別れという話が圧倒的に多い気がする。時代物では、『義経千本桜』の「すしや」や『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」など、挙げ出したら切りがないほど、(親の)主君への忠義のために、子が犠牲となる話があるし、世話物でも、『傾城恋飛脚』の「新口村の段」や、『艶容女舞衣』の「酒屋の段」など枚挙に暇がない。親子の絆というテーマは、日本人にとって、私達が今思っている以上に、心を捉えるテーマだったのだろう。


それから、「観阿弥の特徴は群集劇」という指摘も、とても考えさせられるものだった。特に「群衆の中から現れるシテ」という言葉を聞いた時、大げさかもしれないけど、私のお能文楽等の見方が根本からひっくり返されるような気がした。確かに、「百万」や「弱法師」、「隅田川」など、群衆に見守られているシテという状況は、言われてみればお能に多くあるが、今まではそこまで考えが及ばなかった。土屋先生は、「観阿弥は群衆劇の中で宗教集団の爆発的エネルギーを描いたが、世阿弥が、それとは全く異なる幽玄や美というものを描いた。さらに世阿弥の子、元雅はそれにある種、父の方向性に反抗する形で群集劇に立ち返ったが、彼自身は、群衆の中に個を埋没させることに安寧を見出すことは出来なかったのではないか。」という趣旨の話をされていた。とても納得できる話で、三人のお能の特徴が「群集劇」という視点から見れば、もっとはっきりと感じることが出来る。

多分、群集と芸能というのは、長い間、とても密接な関係にあったのではないだろうか。たとえば、ずっと時代が下った近松浄瑠璃でも、群衆が印象的な形で出てくるものがある。この作品より以前の作品を古浄瑠璃と読んで区別するという『出世景清』(1685年竹本座初演)などでも、逃亡した景清をおびき寄せるために、群衆が見守る中、景清の妻である小野の姫を拷問する場面がある。拷問に耐える小野の姫を見ていられなくなった景清は結局、群衆の中から現れ、名乗をするという、とても衝撃的な、まさに群集劇そのものの場面だ。近松の作品は、色々考えてみると、『出世景清』以外にも、そういった「群衆」の存在というのを思わせるような場面がわりにある気がする。2月1日に素浄瑠璃を聴いた『雪女五枚羽子板』でも、主人公の一人が多くの敵に囲まれる場面がある。『女殺油地獄』の徳庵堤の段も、本当は野崎参りの人々でごった返している中での話なのではないだろうか。『国性爺合戦』にも和唐内を捕まえようとする兵士が沢山出てくる。

そうはいっても浄瑠璃で私にとって群集というものを感じさせるのは近松ぐらいまでで、その後の作者達の書く浄瑠璃にはあまり群衆というのを感じさせる場面はないように思われる。唯一、『夏祭浪花鑑』の長町裏の段で、団七が義父の義平次を殺してしまった後の高津宵宮の神輿の喧騒は、「群衆」というに値する。また、それ以外の並木宗輔がかかわった作品のうち、『菅原伝授手習鑑』、『仮名手本忠臣蔵』などは、「群衆劇」とは言えないが、優れた「群像劇」という言い方は出来そうな気がする。近松が物語の主人公を没個性な群衆の中から現れた個性的な人物として捉えたのと比べて、並木宗輔(または、彼を含む作者集団)は、群衆の中の一人ひとりに個性があり、語るべき物語があることを発見した人達だったと言えるのではないだろうか。そう考えると、 改めて並木宗輔達の作家としての着眼点のすごさというのを感じる。

一方、宗輔の後の近松半二や菅専助の作品の中には、群衆というのは感じられず、専ら個と個の関係性が語られている。そのような視点で見ていくと、ひょっとすると、室町時代から江戸時代の終わりにかけて、一般の庶民が個を確立していった過程が、お能浄瑠璃に影響を与えているのかもしれないという気がして来た。