国立劇場小劇場 2月文楽公演 第一部

国立劇場小劇場 平成25年 2月文楽公演<第一部>11時開演
 摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)
    万代池の段 合邦庵室の段   
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2012/duplicate-of-2.html

『合邦』が、百万遍の念仏や踊り念仏などが出てくる、浄土宗への信仰が土台になっている物語であることを、とても興味深く思った。とはいっても宗教的プロパガンダというよりは、当時の人々にとっては、念仏や供養といった行為や極楽浄土を願う気持ちというのは、特別なものではなく、ごく身近で自然なものであり、そういう背景から出た作品なのではないかと思う。

玉手は最期の時に、彼女の取った行動の真実を大切な人々に語って心の中を明かし、百万遍の念仏の中で息絶える。今の常識でいったら、この物語は立派な悲劇だ。けれども、ふと、お能後場で主人公の霊が、ワキの僧の祈りによって現世への執念や恨みから解放されて極楽往生することを思い起こせば、この物語は、必ずしも不幸な結末として書かれたのでは無い気がしてくる。玉手は心の奥に隠しておいた彼女の使命を大切な人々に語り聞かせることで、邪恋の疑いを晴らし、自分の肝の臓の生血を与えて俊徳丸の病を癒し、周りの人々の念仏の中で、極楽往生したのだ、と当時の人々は考えたのではないだろうか。合邦庵室の段の結末は、悲劇の中のハッピーエンドとしてとらえることができのではないだろうかという気がした。


摂州合邦辻 万代池

先日、観世能楽堂能楽講座があり、その中で、お能には「群集劇」となっている曲がいくつもあるという話を聞いたが、今回、「万代池の段」を観て、江戸時代中期にできた『合邦』のこの「万代池の段」も、群集劇といえるのではないだろうかと思った。

彼岸で、天王寺参詣の人々でごったがえす中(周りにツメ人形はいたりしないけど、恐らく雑踏なのだ)、盲目の俊徳丸が杖をついて出てくる。『合邦』の俊徳丸は、自分が癩病にかかり盲目にまでなったのは、自分の前世の戒業が拙かったからと、自分の因果を悔やむ。父の恩に報いることもできず、許嫁の浅香姫との妹背の縁も、天からの雪とも散る梅とも見分けがつかないかのごとく消えんというばかり。おなじ雪とも梅とも見紛うといっても、『万葉集』の歌人大伴旅人が「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」と詠った気分とは全くかけ離れた、惨めな境遇にあり、不覚の涙を流す俊徳丸。周りには、難波津を象徴する梅の花が咲いていて、白梅と紅梅の花びらが風に舞っている。『古今集』の「春の夜のやみはあやなし 梅花 色こそみえね 香やはかくるる」の歌ではないが、さっと吹いた春風が運んだその薫りから、梅が散っていると知る。俊徳丸は、そのまま粗末な藁でできた蒲鉾小屋に入っていく。

それと入れ違いに現れるのが、お彼岸の天王寺参りの群衆に対して閻魔様の頭部を地車に乗せて引いて勧化をして歩く合邦だ。彼は、参詣の雑踏に向かって閻魔堂建立に喜捨し、閻魔様を信心することの功徳を説き、踊り念仏をするよう勧め、その場で参詣の人々と踊り念仏を始める。

この万代池の段と合邦庵室の段では、浄土宗の影響を大きく受けていると思う。踊り念仏は、浄土宗のものだし、合邦庵室の段に出てくる百万遍の念仏もやはり浄土宗のものだ。

この当時、この踊念仏の場面は、『合邦』を観た人々にどのような印象を与えたのだろう。想像するに、踊り念仏や百万遍の供養などは、ハレのものではあったかもしれまいけれども、おそらく今よりずっと日常的な、身近で見聞きするだったのではないだろうかという気がする。俊徳丸は、お能の『弱法師』を引いて、天王寺の万代池のほとりに住み日想観をしたりしている。その隣で勧化僧が踊念仏をするというのは、それがその当時、実際に、お彼岸の天王寺参りの雑踏で、往々にして目にする光景だったのではないだろうか。だから、合邦と俊徳丸が偶然出会う場として、違和感がないと専助は考えたのではないだろうか。

踊り念仏が終わり、合邦が物陰で居眠りを始めると、再度、俊徳丸が蒲鉾小屋から現れ、日想観をする。お能の『弱法師』では、盲目の俊徳丸が日想観をして、「目は見えなくとも、心の目で淡路絵島、須磨明石、紀の国の海まで見える」と言った直後に、雑踏に行き交う人にぶつかり、よろよろと倒れ込んで周囲の人に笑われてしまう。俊徳丸の哀れな姿を描くと共に、悟りを得ることの難しさの比喩をきかせたのだろうと思わせる室町時代好み場面で、この場面は『弱法師』のクライマックスの場面のひとつだ。一方、『合邦』の「万代池の段」では、俊徳丸は自分の因果の拙さを悔やんではいるけれども、「今日ぞ彼岸の日想観、目は見えずとも拝せん」と言うと、「阿字(宇宙を観ずる境地)の門に入り、合掌する」となっていて、『弱法師』のように、悟ったと思っても裏切られたり、道行く人々にぶつかり、笑われたりする場面は描かれていない。おそらく、この浄瑠璃の中では俊徳丸の貴公子としての側面を重視して、そのような人から嘲られる場面を注意深く排除したのかもしれない。

そして、『弱法師』の中では、日想観の後に父、高安左衛門尉通俊が現れ名乗りをすると、俊徳丸は「親ながらはずかし」と、思わずあらぬ方向に逃げようとする。一方、この浄瑠璃の中で、日想観の後に現れ俊徳丸が恥ずかしがって逃げようとするのは、許嫁の浅香姫からだ。俊徳丸は思わず「ヤレ懐かしや」と言おうとするが、「待て暫し、我が妻ながら恥づかしや、かく見苦しき姿にて、それと名乗るも面伏せ偽って帰さん」と心を決める。記憶が心もとないけど、たしか説経節の『しんとく丸』では、先に俊徳丸を見つけたのは、父ではなく、『合邦』の浅香姫に当たる乙姫だったと思う。『合邦』で、お能の『弱法師』ではなく説経節の『しんとく丸』の設定を引いたのは、合邦が玉手と浅香姫の恋争いを見て思わず娘の玉手に手をかける設定へ浅香姫を引っ張り込むと共に、物語のクライマックスである合邦とその娘・玉手の親子の情に焦点を当てるための工夫ではないかと思う。

結局、俊徳丸はいったんは浅香姫に、「五日以前の暁方、滅罪のため三十三所順礼の旅立ありし」と偽りを言って浅香姫を帰らそうとするが、入平の機転により、その当人が俊徳丸であることが明らかになる。しかしその直後に高安家の家督を奪おうとする次郎丸が家来共々現れ、入平との斬り合いとなる。入平が敵を追って行くと、その期に乗じた次郎丸が浅香姫を引っ張っていこうとする。そこに物陰で様子を残らず聞いていた合邦が現れ、浅香姫に、俊徳丸を地車に乗せて合邦の住家に向かうよういうと、自分は、次郎丸を万代池に投げ込む。

「万代池の段」の合邦の勧化と踊り念仏を観て、「合邦庵室の段」だけでは知ることが出来ない『合邦』の世界観を知ることが出来て、とても良かった。


合邦庵室の段

2012年の夏に文楽劇場で合邦を嶋師匠と富助さんで「合邦庵室の段」を観たときは、侍気質ではあっても本当は慈父な合邦が強調されていた気がするけれども、今回の津駒さんと寛治師匠、咲師匠と燕三さんの合邦は、清廉潔白で厳しく、いつまでも侍気質を失わない部分が強調された、時代物らしい合邦だった気がした。また、2007年2月、初めて文楽を観たときは、住師匠と錦糸さんの『合邦』だったのだが、これはまたニンといったら怒られるかもしれないけれども、いかにも時代世話の、頑固親父だけど本当は娘のことが愛しくて仕方ない合邦という感じだった(人形は2007年2月のみ文吾さんで他の2回は玉也さん)。三者三様で、全く同じ合邦ということがなくて、すごく面白い。

合邦はとても清廉潔白を信条としている人で、それこそが武士のあるべき姿だと考えている人だということだ。たとえば、「娘の影で立身望む」と世上の人に思われぬよう、娘への手紙には「必ず/\親一門もない者と云ひつのれ」と書き、娘が高安殿に腰元奉公に出て以来、五、六年もあい見ず、夫婦親子以外には親子の仲を隠し通し、百万遍の念仏講の来た人達も玉手御前の存在を知らなかたほどだ。それは何故かというと、合邦が、その最明寺時頼公に見いだされた青砥左衛門尉藤綱という武士の鑑と言われた人を父に持つ人だからだ。

そして今回の玉手御前は、父の気質を受け継ぎ、いかにも忠義大切の武家の娘という感じの、男勝りな、大変強い意志と行動力をもった人で、とても納得感があった。

また、玉手の和生さんが、2013年2月16日の産経新聞のインタビュー記事で、 「父に刺されるまでは、年の変わらぬ継子への恋心で、手負いになったら忠義心、と変化が出るよう心がけています」と答えていたのが、とても興味深かった。今までは、私は、玉手の行動が恋故なのか母としての行為なのかについては、母としての立場と元のお主への忠義という二つが玉手の本心なのだと思っていた。刺されてからの詞、「あなたこなたを思ひ遣り、継子二人の命をば、わが身一つに引受けて、不義者と云はれ悪人になって身を果すが、継子大切、夫のご恩、せめて報ずる百分一」というのを、そのまま文字通り受け取っていたのだ。しかし、その解釈だと最後まで分からないまま残るのが、何故、浅香姫に対してあそこまで邪険にしないといけないのか、ということだ。やはりそこには、嫉妬があったと考えるほうが自然な気がする。

玉手は、俊徳丸に毒酒を勧めた時の鮑の盃を後生大事に持っているが、その鮑の盃について、刺される前は、「お行方尋ぬるそのうちも君が形見とこの盃肌身離さず抱締めて、いつか鮑の片思ひ」と言っていて、刺された後は、「恋でないとの云訳は、身をも放さぬこの盃、母の心子は知らぬ片思ひといふ心の誓ひ」と言っている。ここのところは、今まで本当は刺された後の方が本心と思っていた。けれども、同じ一つの鮑の盃に二つの意味が重ねられていたように、彼女の本当の気持ちも同じように、母として継子を守ったという行為はひとつでも、年のほとんど変わらない俊徳丸への恋と継母としての継子大切とい二つの気持ちがないまぜとなって共存していたのだろう。そして、父に刺されて死に直面することで継母としての覚悟が決まったのかもしれない。

『合邦』の物語は、清廉潔白と公平無私なものと、邪恋の疑いや家督の乗っ取りの野心に代表される邪な心という全く逆のものが鋭く衝突を繰り返しながら次第に緊張を増していき、合邦が玉手を指す場面で爆発的なエネルギーを放出する。そして、玉手の口説きによって、玉手と周りの人は理解しあい、百万遍の念仏の中で往生した玉手に対して、それぞれ嘆き、供養への決意を見せる。人の心を動かさずにはおれない、浄瑠璃だ。


床は特に合邦庵室の段の津駒さんと寛治師匠、咲師匠と燕三さんのリレーが素晴らしかったのですが、寛治師匠の三味線が珍しく、心なしか音がぶれることがあっただった気も?調子が悪くていらっしゃるのでしょうか?もしそうなら、東京は今年は大変寒いので、本当に、お大事にしていただきたいです。人形は、玉手の和生さん、合邦の玉也さん、母の簑二郎さん、俊徳丸の玉佳さん、浅香姫の一輔さん、奴入平の幸助さんと、それぞれの登場人物にそれぞれの物語があり、そのそれぞれの人物に心を寄せて観るだけでも楽しく、何度でも観たいという気持ちにさせてくれる第一部でした。