国立劇場小劇場 平成25年 2月文楽公演 第三部(その1)

<第三部>6時開演
 妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)
    道行恋苧環 鱶七上使の段 姫戻りの段 金殿の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2012/duplicate-of-2.html

道行恋苧環

道行の中では一番大好きだし、一番の名曲だと思う。なぜかというと、詞章が沢山の歌や謡曲から借りてきた溢れんばかりの豊かなイメージに満ち満ちているし、語りの旋律も三味線の旋律も素晴らしいから。この道行の旋律の主な旋律の一部は、後の段でもそれぞれの登場人物が出てくる時の三味線の旋律の中に採り入れられている。こんなオペラみたいなことしてるってすごい。『妹背山婦女庭訓』が出来たのは、時代的にはモーツァルトと同時代だ。この曲は、モーツァルトと比べたって結構いい線いってると思う。この当時、きっとすごい三味線方がいたのだ。

浅葱幕が切って落とされると、被衣を被って入鹿の館への家路を急ぐ橘姫が現れる。前に観た時は背景の山と赤い鳥居で、漠然と春日大社の一ノ鳥居前かと思っていた。けど、今回よくよく書割を見ると、中央奥に見える山の頂が二つあるし、灯籠も春日燈籠じゃないので、春日大社じゃないみたい。改めて思い返すと、詞章の冒頭は「岩戸隠れし神様の」と始まる。これは天照大御神の岩戸隠れ伝説のことだと思うけど、天照大御神といえば、昔の人にとっては、三輪明神天照大御神とは一心同体という理解だから、この冒頭の「岩戸隠れし神様」は、三輪明神のことでもある。また、詞章をもう少し先に行くと、今の奈良県桜井市にある「芝村」という地名が出てきたりするので、やはりあの鳥居は大神神社の鳥居なんだろうか。しかし、ああ、実際に見てみなければ本当のことは分からない。近いうちに必ず大神神社に行って確かめなければ。それにしても、もし大神大社だとすると、恋苧環の詞章では三笠山の辺りで苧環の糸が切れるようなので、そこまで歩いたということになる。昔の人は健脚というしかない。

大神神社苧環伝説に基づくかのように、求馬は、夜な夜な現れるがまだ正体を知られていない橘姫を追ってくる。古事記苧環伝説では、通ってくるのは女ではなく謎の男(実は龍神)。この橘姫のくだりでは、男女をひっくり返しているように見えるけれども、実は、この曲の主要モチーフのひとつである三輪明神が、男神大物主大神)でありながら、中世には天照大御神と同一視されていたので、女神でもあるという面白い神様だ。だから、そういう二面性を、この道行の中にも採り入れたのではないかと思う。また、お能の「三輪」では、謎の里女が夜な夜な、三輪に住む玄賓僧都のところに樒閼伽の水を備えに通ってくるというのが前場の設定で、その設定も橘姫が夜な夜な通うという設定に採り入れられているのではないかと思う。

求馬は橘姫に追いつくと、姫の名所を聞く。すると橘姫は、今度は醜いことを恥じて苧環伝説の男と同じように夜な夜な現れたという葛城明神を響かせながら、お能の「葛城」に出てくる柴屋で焼く松枝の煙にも似た白雲のように定かでない賤の女(=お三輪ちゃん)との恋の疑いを求馬が晴らしてくれるなら、どんな仰せにも背かぬことでしょう、という。

そこに、お三輪ちゃんが割って入る。お三輪ちゃんは、求馬に、「エヽ聞こえませぬ」と訴えると、二人の馴れ初めを語り始める。ここでも、お能の「三輪」の設定を引いているようで、夜に求馬と出会ったことになっている。杉は三輪明神のしるしだけど、「葉越しの月の面影」というのは、『妹背山婦女庭訓』の数年前に初演された歌舞伎舞踊長唄の「安宅の松」の「(松の)葉越しの月の影」から引いているようだ。

その後、「園に色よく咲く草時は、男女になぞらへて云はば」で手踊りが始まる。この手踊りの喩えも、とても面白い。「梅」が武士というのは、「武士は、花ごと落花する梅のように死ぬ時は潔く死なないといけない云々」という話を聞いたことがあるけれども、そこから来ているのだろうか?桜が公家というのは、これはもちろん、古今和歌集や新古今等の平安時代の貴族たちの和歌に山ほど桜の花が詠まれているからだろう。「山吹」が傾城というのも、ちょっと分からない。和歌の中の山吹のイメージは、山里に咲く鄙びた花というもので、傾城の印象とは明らかに違う。傾城買いには山吹(お金)が沢山必要だから、山吹なのかも。それから、「杜若」が女房なのは、勿論、『伊勢物語』の東下りの段で、在原業平が「かきつばた」を詠み込んだ、「唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」だろう。「菖蒲(あやめ)」が妾というのは、女房の「杜若」に似てるから。「牡丹」は、これもまた分からない。多分、名物裂や掛軸の表具で多く見られる牡丹唐草あたりの印象だろうか。「桐」は御守殿というのは、武家の桐の御紋ということだろう。それから「姫百合」は姫。江戸時代に流行った、女の子向けの双六みたいに、出てくる女性の身分が上がって行くのが面白い。

そして「なるとならずと奈良坂や 児の手柏の二人の女」の部分は、お能の「百万」にも出てくる「奈良坂の(や)児手柏の二面とにもかくにも佞人(ねじけびと)かな」という歌が下敷きになっている。「児の手柏の二面」というのは、コノテガシワの葉が、裏表が区別が付きにくいから両面、面のようだということで、橘姫とお三輪の二人がよく似たライバルということ。「恋苧環」の中で省略された、「ねじけびと」というのは、悪人、盗人という意味もあり、お三輪が橘姫に抱いている気持ちなのかもしれない。「中にもまるヽ男郎花」というのは、お能の「女郎花」が二人の男性に恋されてしまった女性の話なので、まるで「女郎花」に出てくる女性のように求馬が二人の女性の間で揉まれているということだろう。「恋のしがらみ蔦かづら」は、お能の「定家」で、藤原定家が、死んだ後も、恋焦がれていた式子内親王の御墓に定家葛となって、絡みついているというホラーな話を連想させる。そういえば、この「恋苧環」の冒頭に、同じ式子内親王の「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」を効かせた「焦がれて絶えん玉の緒も」という詞章があった。そして、最後は、まるでお能の「西行桜」の結末のように、「花より白む横雲のたなびき渡りあり/\と」、夜が明けてゆく。もはや三笠山のところまで来たところで、興福寺の鐘なのか、鐘が鳴ると橘姫は驚き、帰っていく。求馬はすかさず彼女の着物の裾に苧環の糸を付け、その糸を追っていく。お三輪も苧環の糸を求馬の着物の裾につけるが、この後の展開を予感させるように、苧環の糸は切れてしまう。それでもお三輪は二人を追って、私達の前から去っていく。


二日目に観たときは、清治師匠率いる三味線も、若干ばらけるところがあったし、呂勢さんのシンも高音がつらそうだったり、紋壽さんのお三輪もちょっとばたばたしてたりとしてたりして、ハラハラしてしまったけれども、後日観た時は、もっとずっと良くなっていて、とりあえずほっとした。とにかく、清治師匠の三味線と呂勢さんの語りがシンでこの曲を聴けるのは嬉しい。

お能の方では、一曲の中に道行だったり独立した謡い物になるような小段だったりが組み込まれていて、最高峰のシテ方ワキ方の人達の素晴らしい謡を、最高峰の囃子方の人々の演奏で聴くことが出来る。そういう時は、言葉ひとつひとつの表情や、音のひとつひとつの表現から、今まで気づかなかった意味を気づかされたり、納得させられたり、感動させられたりして、本当に楽しい。文楽の道行や景事の中にも、謡曲に優るとも劣らない素晴らしい詞章や旋律をもつものがいくつもある。そういう素晴らしい曲が、お能の場合と同じように、考え抜かれた表現をする人達によって演奏されるのを聴くのは、とても楽しい。

というわけで、その2に続きます。