国立能楽堂 能を再発見するII 卒都婆小町

◎能を再発見するII―憑依する少将―
鼎談 馬場あき子(歌人)・梅若玄祥シテ方観世流)・天野文雄(大阪大学名誉教授)
能   卒都婆小町(そとばこまち) 大槻文藏(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2012/1158.html

「能を再発見する」シリーズ第2回目。第1回目は、「高砂」というのは現在中将の面をして演じられるが、元は老体で演じられたのではないかという仮説に基づき、「『高砂』を老体で演じてみる」というものだった。しかし、いかんせん、私はこの時、ほとんど初めて「高砂」をちゃんと観たので、常の「中将」の面をした「高砂」がよいのか、それとも本来の「老体」の方が良いのか、比べることが出来ず、我ながら失敗したと思った。今回は、前回の轍を踏まぬよう、事前に別の能楽師の方の「卒都婆小町」を観たのだが、それから随分時間が経って記憶が曖昧になってしまい、あまり意味がなかった。しかし、それでも、今回は、演能自体が素晴らしかっただけでなく、事前に行われた鼎談が後から考えると示唆的でおもしろかったので、大変楽しい回となりました。

今回の企画は、サブタイトルに「憑依する少将」とあるように、小町に少将が憑依して物着となって百夜通いを見せる場面について、本来は物着はなかったのではないか、と考えたことが発端らしい。公演の最初に企画を監修された天野文雄先生と梅若玄祥師、それから馬場あき子さんの鼎談があったので、おそらく鼎談の冒頭には、この件に関する話もあったのではないかと思うけど、私は途中から入ったので、その話は聞くことができず、残念。しかし、鼎談の終わりの方で、馬場さんが、道行のことを結構つっこんできいてらしたのと、御先(みさき)の烏が何の説明もなく登場するというところを、驚いて何度も聞いていらっしゃったのが、印象的だった。

パンフレットの天野先生の「『卒都婆小町』を読み直す」という解説によれば、『申楽談儀』十四条に、

小町、昔は長き能なり。「漕ぎゆく人はたれやらん」と云ひて、なほなほ謡ひしなり。後はそのあたりに玉津島の御座あるとて、幣帛を捧げっければ、御先となりて出現あるていなり。これをよくせしとて、日吉の烏大夫と言はれしなり。当世、これを略す。

と書いてあるらしい。

この引用の冒頭に出てくる小町というのは、「卒都婆小町」のことだ、ここに出てくる「漕ぎゆく人はたれやらん」というのは、詞章の前の方に出てくるシテの小町の詞だ。小町は百歳の姥となった自分を恥じて、

都は人目つつましや、もしもそれとか夕まぐれ

月もろともに出でて行く、/\。雲居百敷(ももしき)や、大内山の山守も、かかる憂き身はよも咎めじ、木隠れて由(よし)なや、鳥羽の恋塚秋の山、月の桂の川瀬舟、漕ぎゆく人はたれやらん、/\

と道行を謡うが、その道行の最後の言葉なのだ。そして、この「漕ぎゆく人はたれやらん」の後には、さらに長々と道行が続いたのだという。この道行きで小町はどこに行こうとしていたのかというと、玉津島明神参詣だと考えられるという。

パンフレットの天野先生のエッセイによると、小町の玉津島詣でという説話が当時あったらしく、たとえば、「鸚鵡小町」に、

シテ さても業平玉津島に参り給ふと聞えしかば。我も同じく参らんと。都をばまだ夜をこめて稲荷山。葛葉の里も浦近く。和歌吹上にさしかかり。
地謡 玉津島に参りつゝ。

というのがある。他に狂言の「業平餅」などから総合的に考えて、道行の「漕ぎゆく人はたれやらん」の後は、小町が玉津島に参詣しに行くという内容になると、天野先生は考えた。しかし、今回は、この部分は補綴はされていない。

もう一つ、『申楽談儀』に書いてある「御先」について。これは「御先の烏」のことで、「御先の烏」というのは、玉津島明神の使わしめなのだそう。 玉津島明神というのは、和歌浦にある神社で、住吉明神と共に和歌三神の一と呼ばれている。

申楽談儀』に、「後はそのあたりに玉津島の御座あるとて、幣帛を捧げければ、御先となりて出現あるていなり。」とある部分について、天野先生達は、「後」というのを「後半」または「キリ」と考えた。そこで、後半、小町が深草少将の百夜通いを再現する立働きの後、地謡が「胸苦しやと哀しみて、一夜を待たで死したりし、深草の少将の、その怨念が憑き添ひて、かやうに物には狂はするぞや」の後、「これに就けても後の世を」の前に、御先の烏を出すことにしたのだそう。舞台では、その場面には烏が出てきて、合掌する小町の肩を天狗の団扇のような団扇で撫でると、小町は「これに就けても後の世を、願ふぞ誠なりける(※本来ここは地謡のところシテの謡、以降地謡)、/\、願ふぞ真なりける、砂(いさご)を塔と重ねて黄金の膚(はだえ)細やかに、花を仏に手向けつつ、悟りの道に入らうよ、/\」で、出家の旅路に出るという演出になっていた。烏は、赤松祐一くんという15才の子方が演じていたが、これは良かった。小学生ぐらいでも普通の大人でも何か、取ってつけた感が出てしまいそうだが、15才くらいというと、その「大人でもなく子供でもない」という、どうとも定義できない感覚が、何か使わしめという役柄の持つ不可知な感じに合っているのだ。こういう子方の配役も面白いなと思う。

この烏を出すという演出自体は、理にかなっていてよかったと思う。最後、小町が得脱の境地に至り、仏門に入ろうと志す契機が視覚的に端的に表されていたから。しかし、問題は、この烏が何なのか、詞章には何ら説明がないことだ。この点について、鼎談で馬場さんが天野先生に尋ねていたが、天野先生は、「解説に書きました」とお応えになり、「お能とはそういうものなのです!説明が無いと分からないものは沢山あります。」とおっしゃって、馬場さんが、驚かれてた。私は、この鼎談を聞いていたその場では、話がよく了解できなかったけれども、お能を観てみると、馬場さんの驚きが、なんとなく分かる気がする。もし、せめてこの小町が玉津島詣に行こうとしていることが、この詞章のどこかに描かれていれば、この場面は、和歌に秀でた小町に対して、和歌三神の一の玉津島明神が使わしめの御先の烏をもって、解脱の契機を与えた場面なのだと、すんなり納得できる。しかし、今回は玉津島詣でについても烏についても、補綴されなかった。

天野先生は、御先の烏の説明について、詞章に書き加えようとすれば、「これに就けても後の世を」の前後であろうと考えたのだそうだが、曲の流れをせき止めてしまうので入れなかった、とお話しされていた。それで改めて思ったのだが、本当は、玉津島詣での道行を復活されせればよかったのではないだろうか。そうすれば、キリの部分で玉津島の使わしめの御先の烏について説明せずに烏を出すことができたのではないかと思う。実際には、この道行の「漕ぎゆく人はたれやらん」の後の部分は全く残っていないらしく、残念ながら補綴の手がかりがない。けれども、ひょっとして、馬場さんは御先の烏のことにつけても道行復活しかるべしと考え、かつ、歌人の馬場さんなら道行の作詞ぐらいお手の物だから、鼎談の時、道行について結構突っ込んで天野先生に質問されていたのかも、などと思った。

しかし、天野先生の方にも、言い分はあるようだ。この「卒都婆小町」の舞台は、阿倍野であることは、ほぼ間違いないそうで、今回の詞章にも、「漕ぎゆく人はたれやらん」の直後に、「かやうに歩き候ふ程に、これは津の国阿倍野の松原とかや申し候」という小町の詞が付け加えられている。この阿倍野は和歌三神の一、住吉明神に近いのだそうだ。この住吉の祭神の第四柱が当時は衣通姫と考えられており、衣通姫は玉津島明神なのだという。そして、その住吉の御先が烏なのだという。逆に玉津島明神の御先が烏というのは確かめ得なかったのだそうだ。そのことが、観阿弥阿倍野に御先の烏を出現させる背景となった、と先生は結んでいる。

他に当初、この企画の元となった、物着について。これは、パンフレットの天野先生の解説によれば、南北朝期には、まだ物着という演出はなかったそう。したがって、『松風』、『柏崎』等では、本来物着はなく、世阿弥の時代に案出されたものだと考えられるという。しかし、先生は、物着は曲の流れをせき止めるし、憑依から覚めた後も少将の姿のままというのは不自然と考えられたそうで、今回は、その物着が無かった。実際に観てみた私自身の感想は、特に物着が無くても問題なし、というところ。お能は観る側に色々無いものを想像するよう強要する芸能なので、無いなら無いで問題ない。まあ、あった方が見た目は綺麗、というぐらい。そもそも、私自身は、初心者でお能的センスに欠けるからか、物着自身が不自然と感じたことは、なかった。そんなこと言ったら、水衣だって不自然だし(あんなの着てる人、絵巻とかで見たこと無いし!)、義経がたいてい子方なのも不自然だし、「鉢木」で「梅桜松」の鉢木を持っているっていうのに松しか出てこなくって「梅」の時も松を切るのもヘンだし、「玉井」で、彦火々出見尊の姿が井戸の水面に映って豊玉姫玉依姫が驚く場面は、彦火々出見尊が、「そんなところに立ってたら絶対に水面に映んないから!」といいたくなるような場所に立つし(ずーっと気になってたので書いてみました)、書き出したら止まらないくらい、お能には不自然な点は多い。だけど、なんでだろと色々考えを巡らせるのが、また、無茶苦茶、面白い。

また、今回の企画とは別に改めて面白いと思ったのは、小町と弘法大師と思わせる真言僧との問答。これは幸若舞の、常盤御前鞍馬寺別当、東光の阿闍梨と教義問答、「常盤問答」を思い起こさせる。時代的には、観阿弥の方が古いのかもしれないが、仏教的には変成男子とかにならないと成仏できないという女性が、仏教的には高い立場にいる高僧をやり込めるという図式が、中世の時代には、面白いと受けいられたのだ。別の見方としては、天野先生のパンフレットの解説によれば、この曲は、「邪正一如」「煩悩則菩提」「一切無差別」という禅的思想を主題としてかかげた作品とみてよい、ということだ。こういう部分が、先日、能楽講座で聞いた、観阿弥の時代の能における宗教的エネルギーとつながっていくのかもしれない。

文楽ファンとしても興味深い点があった。文楽の景事に『花竸四季寿』という組曲がある。この中の「関寺小町」という曲が、「関寺小町」とは言いながら、詞章も人形に付けられた振りも、大筋、この「卒都婆小町」から引いていることが分かり、非常に興味深かった。何故、「関寺小町」というタイトルになったのだろうか。『花竸四季寿』は四季になぞらえた四曲のオムニバス構成になっている。「関寺小町」は、四季のうちの秋に割り当てられているが、確かにお能の「関寺小町」は七夕の日のお話で、秋の曲だ。ひょっとすると、『花竸四季寿』の「関寺小町」を作った人は、「卒都婆小町」の小町に深草少将が憑依する趣向を眼目に曲を作ったが、秋の曲にするために、小町つながりで「関寺小町」というタイトルを付けたということなのかも。

というわけで、他にもまだまだ書きたいことが山ほどあるけれども、今日のところはこれぎり。