国立能楽堂 定期公演 呂蓮 通小町

定例公演  呂蓮 通小町
狂言 呂蓮(ろれん) 石田幸雄(和泉流
能   通小町(かよいこまち) 粟谷能夫(喜多流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2013/1960.html

今回、演能を観る前に『翁と観阿弥』の「通小町」の解説を読んだが、かなり興味深い内容だった。

そもそも、「通小町」は『申楽談儀』によれば、原作は、比叡山の山徒(さんと)という衆徒(しゅと)と同格の階級に属する唱導(説法)僧であり、それを観阿弥が改作したもので、さらに世阿弥の手も加わっているらしい。その「通小町」の特色として、角川学芸出版『能を読む① 翁と観阿弥 能の誕生』の「通小町」の解説には、次のように説明されている。

原作者が唱導僧であるだけに、本局は唱導色(説法色)がはなはだ顕著である。それが端的に表れているのが、「戒」を中心とした本局の展開である。戒とは五戒、つまり邪淫戒、偸盗(ちゅうとう)戒、妄語戒、飲酒戒、殺生戒のことだが、まず⑤(※引用注:第五段。小野小町が「かき消すように失せにけり」で後見座でくつろいだ後の、ワキの僧の独語の段で、小町の跡を訪ねることを決心する部分)で僧の前に現れた小町の亡霊は僧に授戒を求めている。一方、死後もなおも小町に執着している少将は邪淫ゆえに墜ちた地獄に小町を引き留めようと、小町への授戒を妨げる。そして、懺悔のために二人が百夜通いのさまを再現するのだが、その百日目に少将が飲酒戒を保とうと思ったこと、それえが機縁となって、少将も小町もともに成仏する。本曲は、このように「戒」をめぐって展開しているが、その設定は、もちろん「邪淫ゆえの堕獄、授戒による救済」という本曲のテーマとも一体の関係にある。

ここから分かるのは、深草少将が地獄に墜ちているのは邪淫の罪のせいらしいということだ。ここでいう邪淫というのは、詞章から判断する限り、百夜通いを成就できず、小町との逢瀬を実現できなかった遺恨の心ということなのだと思う。そして、詞章を読む限りでは、小町も地獄に墜ちており、深草少将が百夜通いの再現をしたことで彼女も少将と共に成仏できたということは、彼女は深草少将の邪淫の罪の道連れで地獄に墜ちてしまい、少将の百夜通いの成就と共に邪淫の罪が解かれ、共に成仏したということなのだろう。

また、五戒を中心に物語が展開しているという指摘は、「通小町」の、あの唐突な最後の場面の理解の鍵にもなりそうだ。この曲では、最後に深草少将がいきなり「飲酒はいかに」と問われて、

「戒(いまし)めならば保たんと、ただ一念の悟りにて、多くの罪を滅して、小野の小町も少将も、ともに仏道成りにけり、ともに仏道成りにけり

で成仏してしまうのが、あまりに急な感じがしで私には意味がよく分からなかった。というのも、結局、深草少将はこのお能の眼目になっている百夜通いの成就が機縁となって成仏するのではなく、最後の最後に急に出てきた飲酒戒が機縁となって成仏するからだ。そこが唐突で納得いかなかった。

しかし、五戒を中心として展開している話と考えれば、納得がいく。深草少将にとっては、五戒のうち、邪淫戒と飲酒戒だけが成仏の障りとなっていたのが、まず、百夜通いの成就によって邪淫の罪が解かれ、さらに飲酒戒も守ったゆえに成仏したということなのだろう。

ほかにも、この曲は小町物ではあるけれども小町はツレで、あくまで深草少将がシテであり、古くは「四位少将(=深草少将)」という名前だったというのも、唱導が原作という視点から考えてみると面白い。

唱導から能にうつしたということは、唱導でもかなり人気のある説法の題目のひとつだったのだろうが、その当時から深草少将を主人公とした話だったのだろうか?原作となっている唱導の記録が見つからない限り正解は分からないのかもしれないが、この物語の話の展開を推進しているのは確かに深草少将で、小町の成仏は深草少将の百夜通いの成就と飲酒戒の遵守にかかっている。そう考えると、唱導の原作自体、深草少将の位置付けはそれ相応に重かったに違いない。

どちらにしても、鎌倉時代から室町時代にかけての天台宗の唱導僧の活躍というのは、その後の寺社縁起や御伽草子古浄瑠璃の原型となっている説話が多く絡んでいて、とても興味が引かれる。


能   通小町(かよいこまち) 粟谷能夫(喜多流

ヒシギの後、[名ノリ笛]でワキの僧(森 常好師)が現れる。自分のことを「八瀬(やせ)の山里に一夏(いちげ)を送る僧にて候」と名乗る。

八瀬といわれると宮廷の儀礼で駕輿丁(かよちょう)として出仕する八瀬童子を思い出すが、『翁と観阿弥』の解説によれば、延暦寺領で、青蓮院(しょうれんいん)という門跡寺院の荘園だったという。この僧とは誰を想定しているのだろうか。小町は「尊(たっと)きお僧」と言っているがそれ以上の情報はない。けれども、『翁と観阿弥』には、この場所が比叡山領だったことから、天台宗の僧を想定しているとする。原作をつくった唱導僧もこの場所に由縁があったのだろうか?

それに何故、一夏(旧暦の4月16日から7月15日迄の90日間)の間のお話という設定になっているのだろう?この曲の中に出てくる小町の「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ 小野とはいはじ薄生ひけり」の歌の薄や、この歌に引かれて「包めども我も穂に出でて、尾花招かばとまれかし」という表現が出てくるため、薄の穂の出てくる夏の終わりを時期として想定しているからだろうか。

僧は、毎日、どこからともしれず女性が木の実や爪木を持ってくるので、「木の実の数を尋ねばやと思ひ候」という。この詞は、観世流では「いかなる者ぞと尋ねばやと思ひ候」、金春流などでは「木の実の数々を尋ねばやと思ひ候」となっており、観世流は小町の、金春流などでは木の実の名を尋ねそれぞれ尋ねようとしているのだが、喜多流では何故か「数々」の二つ目の「数」が脱落してしまってちょっと意味の通じない詞章になってしまったようだ。

そこに、ヒシギの後、[次第]の囃子と共に実は小野小町で女(大島輝久師)が現れ「拾ふ爪木も焚物(たきもの)の、拾ふ爪木も焚物の、匂はぬ袖ぞ悲しき」を謡う。面は若女で紅白の段替の唐織。

女は常座で自分は市原野あたりに住む女で、爪木を持ってきたと語ると、舞台中央まで出てきて、手に持った榊のように見える小枝を僧の側に供える。

僧は女の御志に感謝すると、木の実の数を尋ねる。

すると、女は、

忝(かたじけな)き御譬(たと)へなれどもいかなれば悉達太子(しっだたいし)は、浄飯王(じょうはんのう)の都を出で、檀特山(だんどくせん)の嶮(さが)しき道、菜摘み水汲み薪とりどり、様々に身をやつし、仙人に仕へ給ひしぞかし、況やこれは賤の女の、摘み習ひたる根芹(ねせり)若菜、我が名をだにも知らぬ程、賤(いや)しく軽き木の実なれば、重しとは持たぬ薪なり

と語る。ここは観世流には無い部分で、新潮日本古典集成『謡曲集』の「通小町」の解説には、この部分は世阿弥の伝書のひとつ、『五音』にも引かれており、世阿弥の作だと思われること、それから『平家物語』の大原御幸の花摘みをする建礼門院を下敷きにしているが指摘されている。女院が自ら花摘みをなされるのは捨身の行なのだと後白河院に語った阿波内侍の詞から引かれているのだ。「通小町」の小町はツレではあるけれども、建礼門院の姿に重ねられる程の重い役であるべき、と世阿弥は考えたのだろう。

この後には、「拾ふ木の実は何々ぞ」で始まる、聞いていて楽しい木の実尽くしが謡われる。

そして、ワキの僧がさらに女の名を尋ねると、女は、

シテ 恥づかしや己(おの)が名を
地謡 小野とはいはじ、薄(すすき)生ひたる市原野辺に住む姥ぞ、跡弔ひ給へお僧とて、かき消すやうに失せにけり、かき消すように失せにけり。

で、女は後見座でくつろぐ。

ワキ座にいた僧は、この不思議な出来事の後、かつて、ある人が市原野を通った時に、薄一群(むら)の中から声があり、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ、小野とはいはじ薄生ひけり」という歌を詠うのを聞いたことを思い出す。これは小野の小町の墓所(むしょ)なのだ。とすると、先ほどの女性は小町の宇憂いに違いないと気づき、市原野に行き、小町の跡を弔おうと思う。

僧は草庵を出て市原野に行き、座具を敷いてお香を焚くと、

南無幽霊成等正覚(じょうとうしょうがく)、出離生死頓証菩提(しゅつりしょうじとんしょうぼだい)

と唱える。

小町が弔いの声を聞いて喜んで授戒を求めると、揚幕の中からおどろおどろしい声が聞こえる。

ここで、シテの深草少将(粟谷能夫師)が

いや叶ふまじ思ひ寄らずや、戒授け給はば怨み申さう、はや帰り給へやお僧

と言うのだが、私の席では詞が聞き取れず…。国立能楽堂での幕の中から謡うという演出は、謡が聞き取れないことが多い。多分、国立能楽堂は、橋掛リが長すぎるのだ。橋掛リというのは大抵の場合、長い方が見てる方は気分が良いが、幕の中から発する謡が聞こえないとか、中入りするのにすっごく時間がかかって興が冷める時があるとか、欠点もある。

ともあれ、シテは、小町一人成仏したら自分一人が地獄の苦患を受けては、ますます苦しいので、お僧には帰ってほしいと訴える。

僧は、戒を授ければその威力に引かれて成仏できないことがあるでしょうか、戒をお受け下さいと声をかける。

小町は少将のことはどうであれ、自分の決心は変わらないというと、薄を押し分けて出ていこうとする。

すると、幕が上がり、シテの深草少将が橋掛リに現れ、「包めども我も穂に出でて、包めども我も穂に出でて、尾花招かばとまれかし」と謡う。深草少将は痩男の面で、黒頭に鼠色の水衣に萌葱に金の花菱の厚板、紫の大口という出立。萌葱の厚板は深草という名を、花菱は百夜目の晴れ着の花摺衣、紫の大口は同じく百夜目のうら紫の藤袴に合わせたものだろうか。

地謡が小町の「思ひは山の鹿(かせぎ)にて、招くも更にとどまるまじ」という詞を謡うと、少将は、「さらば煩悩の犬となつて、打たるると離れじ」と謡う。その執念は恐ろしいばかりだ。この詞は『宝物集』の「煩悩は家の犬、打てども去ることなく、菩提は山の鹿、つなげどもとどまり難し」から来ている対句だという。

恐ろしい限りだが、なおも少将は本舞台に進み、小町の袖をとって授戒を妨げる。

僧が二人を見て、「さえは深草の少将、小野の小町の幽霊にてましますかや」というと、「百夜通ひし所をまなうで御見せ候へ」と、百夜通いを再現するよう促す。『翁と観阿弥』にある座談会の松岡心平先生によれば、古い能では、過去の出来事の再現は懺悔の意味があるとか。

そこで、小町が自分は少将にそのような迷いがあるとは知らずに戯れ言のつもりで言った百夜通いを少将は真(まこと)と思ひ暁(あかつき)毎に百夜通うことになった様子を小町との掛け合いで語っていく。

このとき、「本より我は白雲の、かかる迷ひのありけるを」で小町はワキ座に座るのだが、その後は特に少将を見るわけでもなく、お僧の傍らという安全な場所に座って他人事のように思ってるようにさえ見える。あたかもディレクターチェアにでも座って「次、雪の日のシーン、行ってみましょうか!」と言わんばかりの感じで、ちょっと不思議だった。本当はここの小町はどんな心持ちなのだろう。深草少将の行為がストーカー並みの執念で怖いというのは措いておくとして、もし小町も深草少将を憎からず思っていたとしたら、深草少将の百夜通いを今更取り消すこともできなくなって、ただ見守るしかなかった小町にとっても、その百夜は苦しい日々だったのかもしれない。

少将は、「君を思へば徒歩跣足(かちはだし)」で笠を手にし、雪の非や雨の夜を再現すると、「身独りに降る涙の雨か」で笠をかかげると、寂漠とした笛の音の中、[カケリ]となる。途中、笠を落とし、拾おうとする型がある。

少将は、月は待っていても小町は待っていないだろう、あれは戯れ言だたのだと言い、ただ一人寝ならばつらくはないのだと思う。ただ心を尽くして幾夜も通った後、ふと榻の数を読めば、今宵がとうとう百夜目であることに気づく。

ふと自分の姿を見ると笠をもつその姿も見苦しいと笠を捨て、風折烏帽子、花摺衣、うら紫の藤袴、紅の狩衣という出立で、気高く引き繕い出かける。

そこに、祝言の「飲酒はいかに」という問いが発せられるが、少将は、

月の盃なりとても、戒めならば持(たも)たん

と言うと、ただその一念により、多くの罪を滅して、小野の小町も少将も共に成仏していったのだった。