国立能楽堂 普及公演 子盗人 半蔀

普及公演  子盗人 半蔀
解説・能楽あんない 
絵になる女君―幻の源氏絵巻と能  小嶋菜温子(立教大学教授)   
狂言 子盗人(こぬすびと) 大藏彌太郎(大蔵流
能   半蔀(はじとみ) 木月孚行(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2013/1959.html

その日は、じめっとした蒸し暑さに辟易しながら能楽堂に向かったのですが、「半蔀」は『源氏物語』の「夕顔」の巻へのオマージュとも言える、シンプルで優美な小品で、心奪われ、つかの間、暑さを忘れることができました。


能   半蔀(はじとみ) 木月孚行(観世流

名乗リ笛と共に僧(殿田謙吉師)が橋掛リを本舞台に歩いてくる。僧は自分が雲林院の僧だと名乗ると、夏期の一カ所にこもって修行をする夏安居(げあんご)の終わりも近いので、立花の会を催そうという。

パンフレットの村上湛氏の解説によれば、「能のワキ僧は夏安居の終わりに立花の会を催し、これまで手折った花々を供養します。この背景には、草木成仏と女人成仏が並んで説かれる『法華経』信仰が隠されいます」とのこと。

なるほど、納得。今回、観る前にワキの僧が雲林院の僧であるのは何故だろうと思っていた。類曲の「夕顔」は豊後の国、夕顔の娘の玉鬘が一時期身を寄せていた土地から来た僧がワキだ。これはこれで夕顔の娘、玉鬘のゆかりの人ということで分かる。一方、この「半蔀」は、雲林院の僧だが、雲林院は、かつては法華経を根本教典とする天台宗のお寺だったのだ。それに、雲林院は「賢木」で源氏が参籠したところでもあるし、後で知ったのだけれど、紫式部はこのあたりに生まれ育ったとも言われているのだそう。

つまり、雲林院の僧というのは、この曲でワキとなる資格十分だし、夏安居の最後を飾る立花供養に引かれて、常夏(撫子の古名)とも夕顔とも呼ばれた『源氏物語』の中でも印象深い巻のひとつの「夕顔」の女主人公が出てくるのも、注意深く練り上げられた話の展開ということなのだろう。

そして、法華経の草木成仏と女人成仏が背景にあるというのもおもしろい。だからこの「半蔀」は、シテが、源氏物語の登場人物、夕顔だが夕顔の花の精のいずれの解釈もあるということになっているのかも(ただし、今回の木月孚行師の演能は、シテは夕顔という解釈だったよう)。そして、法華経の草木成仏と女人成仏といえば、柳の精が人間の女人となって夫と一児をもうけたが、その柳の木は切り倒されて三十三間堂の棟木となったという、浄瑠璃の「卅三間堂棟由来」をも思い出してしまう。その三十三間堂天台宗だ。こちらの方のお話は、もっとはっきりと法華経の草木成仏と女人成仏を背景としたお話だといえそう。

お能の話を戻すと、僧は名乗り終えると、舞台中央に座し、

敬つて白す立花供養の事。右非情草木(そうもく)心なしといへども、その心のうちにすぐれ、この花光陰にひらけあり、あに心なしといはんや、なかんづく泥(でい)を出でし蓮(はす)、一乗妙典の題目たり、この結縁(けちえん)にひかれて、草木国土悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)

と供養を始める。そして、ワキ座に下がる。

すると[アシライ出シ]で、シテ(木月孚行師)の女が現れる。紅と白と茶の段替の唐織に、夕顔の葉と花の文様が白、浅葱、萌葱、紫、黄などの色で表現されており、さらに秋草もあしらってあったかもしれない。面は、ほっそりとしてはかなげで少し寂しそうな表情の若女で、草花の精を彷彿とさせる。女は一ノ松のところにたたずむと、手に取れば手(た)ぶさ(手首)に穢(けが)る立てながら、三世(みせ)の仏に、花たてまつる。」と謡う。彼女も立花供養のために花を立てに来たのだ。

僧は、女を見ながら、人家もないところから彼女が現れ、「白き花のおのれひとり笑みの眉をひらきたるは、いかなる花を立てけるぞ」彼女が立てた白い花が一輪、笑みがこぼれるように咲いていることを不思議に思い、何の花を立てたのだろうといぶかる。この部分は、源氏が初めて五条の小家がちな家の垣根に咲く夕顔を見た時に思わず口をついで出た言葉がそのまま使われており、観ている者に『源氏物語』の夕顔の巻の源氏と夕顔との出会いの場を思い出させる。

一方、女は、花の名前を知らない僧に向かって、「愚かのお僧の仰せやな」というが、卑しい家の垣穂にかかる花だから、名前を知らないのも当然といえば当然でしょうと答え、「これは夕顔の花にて候」という。

僧はなおも、「花のあるじはいかなる人ぞ」と問う。すると、「名のらずと終(つい)には知ろし召さるべし、我はこの花の蔭よりまゐりたり」と答える。結局、彼女は、何某の院にも常にいますが、五条辺りの夕顔と申します、というと、女は、ふと夢のように見えなくなり、立花の蔭に隠れてしまい、中入りとなる。


女と入れ違いに、所の者(大蔵基誠師)が立花供養に現れ、間狂言となる。僧は所の者に『源氏物語』の夕顔のことを尋ねる。求めに応じて所の者は、次のような話を語る。

夕顔は三位中将の女(むすめ)だが、子細あって五条あたりに隠れ住んでいた。源氏が六条あたり(六条御息所のところ)に通っていたころ、上臈が歌を吟じている声が聞こえた。源氏は不思議に思い、しばしその場にたたずんでいたが、そのまま帰った。ある日、源氏がその家の門の前に車を留めると、夕顔が花盛りとなっていたので、御随身にそれを取りに行かせる。御随身が花をとって帰ろうとすると、童が出てきて少し待てといい、しばらくすると「白き扇の妻いとうこがしたる」に夕顔を乗せて差し出す。御随身はそれを源氏に渡す。源氏がその扇を見ると、扇には、

心あてにそれかとぞ見る白露の
光そへたる夕顔の花

という歌が書き付けてあった。

また、八月十五夜に、源氏が夕顔の上に会いに行くと、このごろ何とはなしにすさまじく見えると言い、何某の院に夕顔をつれていく。しかし、奇妙なことが起こり、夕顔の上は亡くなってしまった。これというものも、六条御息所の生霊のせいであったが、このような上つ方のことはよく存じ上げないと、答えた。

これだけ知ってれば十分でしょ!といいたくなるくらい、『源氏物語』にも書かれていないことが語られるのが、興味深い。たとえば、夕顔の花を手折るより前に、一度、源氏は上臈が歌を吟じる声がその家からするを聞いているとか、何某の院に出てくるもののけ六条御息所であると断言するあたりとか。これは、中世の『源氏物語』の理解が関係しているのだろうか。

ちなみに、『謡曲大観』の「半蔀」には、今回の間狂言とは異なるバージョンの間狂言の詞章が書かれている。内容は、源氏が五条あたりを通った際に夕顔の花が咲き乱れるのを見て、惟光に取りにいかせたこと、内から例の白い扇の上に夕顔を載せ、一首の歌を詠んだものが源氏におくられたこと、八月十五夜に五条の小家ではから臼の音(精米をする音)が聞こえ、御嶽精進(みたけしょうじ、吉野の金峯山に参籠する前に千日の精進潔斎をする)の声などして物騒がしく、何某の院に移動したところ、不思議なことに物の怪にとらえられ命を落としてしまったことなど。

さらに所の者が語り終わった後に立花供養を行った僧が事情を話すと、所の者は、「さては花の供養をありがたく思ひ。夕顔の花の精現れたるか。又は夕顔の上の御亡心にて候べし。」と推量してみせる。一方、今回聴いた間狂言では、「夕顔の亡霊が現れたのかもしれない」という趣旨のことをいう。

こうやって見てみると、間狂言には、今回の間狂言のようにシテを夕顔の亡霊とするものと、『謡曲大観』のように夕顔の亡霊とも夕顔の精ともとれるように語るものと、少なくとも2つのパターンがあるようだ。実際、パンフレットでは今回、演能された「夕顔」の後シテは「夕顔の女」となっており、間狂言もその解釈に沿ったものになったのだろう。


所の者が去っていくと、後見が名乗リ座に半蔀の作り物を置き、後場となる。[一声]の囃子が始まるが、間狂言の間、大鼓の皮が大鼓の後見の方によってぎゅうぎゅうと張られていたせいで、前場のやわらかな音とは違い、甲高い大きな音がする(守家由訓師)。

僧は所の者の勧めに従って五条のあたりに来てみる。すると、シテの夕顔の女が橋掛リに現れ、名乗リ座の半蔀の作り物の中に入る。夕顔は、面は若女のままで、白地に金で花籠と露芝を描いた長絹に、紅の大口という出立。

シテが現れ、あの夕顔が物の怪に取り憑かれて亡くなった夜と同じように、にわかに嵐が来る様子が、『和漢朗詠集』の歌を引いて表現される。

シテは、夕顔が源氏に何某の院に連れて行かれる時に詠った、

山の端の。心も知らで行く月は。上(うわ)の空にて絶えし跡の(影や絶えなむ)

を吟じ、「又いうか逢ふべき」と嘆く。そして自分の跡を弔ってくれるという僧の言葉に応じて、「草の半蔀押し上げて立ち出づる御姿見るに涙のとどまらず」で半蔀を押し上げ、シオル。

<クセ>では、何某の院に向かう直前、明け方近くに五条の小家で聴いた、御嶽精進(みだけそうじ)の、「南無、当来導師(弥勒菩薩)などと唱える供養の尊い声を思い出してそぞろに袖を濡らしたことを語る。この場面の描写は、『源氏物語』の方でも、まるで浄瑠璃の『曽根崎心中』の心中の道行の場面のように、この世のものとは思えない、はかない美しさがある。

そして、夕顔はさらに、白い扇の端(つま)いたう焦がしたるに歌を書いて、夕顔の花を渡した、初めて源氏に出会った時の思い出を語る。もし夕顔の花の名を答えなければその場で終わっていた縁だったけれども、夕顔の花によそえた歌を詠みかけた扇を源氏が手にしたことで、折々尋ね寄って下さることになったことの嬉しさを思い出す。本当の名を名乗らない源氏に対して、夕顔も「海士の子なれば(白浪の寄するなぎさに世を尽す海士の子なれば宿も定めず。『和漢朗詠集』巻下・雑)」と答えたが、今、改めて、よるべの末を頼みたいというと、一首を詠じることにし、舞を舞う。情緒あふれる、まるで消え入ってしまいそうな[序ノ舞]だ。

夕顔は舞終わると、源氏が夕顔の「心あてに」の歌の返歌として詠んだ、

折りてこそ、それかとも見め、黄昏に ほのぼの見えし(見つる)、花の夕顔

を詠う。さらに僧に対して、

終(つい)の宿りは、知らせ申すしつ 常には訪(とむら)ひおはしませ

と言いかける。

源氏物語』では、源氏が初めて夕顔の家を見つけた時、そのささやかな住まいをしみじみと思い、源氏は、「何処(いづこ)かさして(世の中はいづれかさしてわがならむ行きどまるをぞ宿と定むる、『古今集』』巻十八・雑下・詠み人知らず)」ーー世の中はどこも仮の宿りだと思えば、どこであっても「玉の台」、立派な御殿になるのだ、と思う。

その後、夕顔が「心あてに」と歌を詠みかけたことにことよせて、源氏は、苧環伝説のように素性について明かさぬまま、夜な夜な仮そめの隠処(かくれが)で契ることとなる。源氏は一通りではない夕顔との深い縁を感じるものの、その昔から源融の亡霊などの物の怪のいた何某の院で、夕顔は女の姿の物の怪にとらえられ、二人は、思いもかけないところで今生の別れをすることになる。結局、行きとどまる宿を二人は見つけることができなかったのだ。

その後、源氏は、夕顔の乳母子であった右近から、夕顔が、「源氏が名を隠しているのは、自分のことをなおざりに思っているからではないか」と苦しんでいたことを知る。源氏は、隔てる心があったのではなく、人に知られてはならないことをしている身でもあったので、名前を明かさなかったのだと答える。源氏にとっては夕顔の住む五条は六条御息所の所に忍んで通っていた通り道であったし、もし夕顔が源氏の予想通り頭の中将の娘をもうけながら頭の中将の前から身を隠してしまった常夏だとしたら、またなおのこと、名を乗るにははばかりあったのだ。

そして、夕顔は、この曲の中で、あらためて僧に終の宿りの場所を僧に知らせ、常に訪い供養してくれるように頼む。頭の中将とも源氏とも生涯を共にすることの出来なかった夕顔は、この曲の中で、初めて終の宿りをワキの僧に伝え、法華経の功徳で成仏する機縁を得て、東雲に木綿付け鳥の声が響きわたる中、明けぬ前(さき)に、半蔀の中に戻っていくのだった。