轍の会(その二) 卒都婆小町

第33回 轍の会 公演  2012年7月15日(日) 午後2時 国立能楽堂
能 竹 生 島      シテ 櫻間金記/ツレ 金春康之
狂言 佐 渡 狐      シテ 野村 萬
能 卒都婆小町      シテ 本田光洋
http://www.kinkinokai.com/wadati.html

軛の会の感想の続きです。

二番目のお能、「卒都婆小町」は、小町物のひとつで、重い習い物になっている。私自身が観たことがある小町物といえば、他に「通小町」と「関寺小町」だ。

「通小町」は、もともと大和の唱導で行われていたものを金春禅竹の祖父、金春権守多武峰で演じ、それを同世代の世阿弥の父、観阿弥が改作し、さらに世阿弥が改訂したものと言われている。したがって、小町物の中では、恐らく一番古いルーツを持つ曲になるのかもしれない。元の名を「四位少将」と言ったそうで、小町はツレで、深草少将がシテとなり、小町の不実をなじり、百夜通いの狂乱を見せる。「煩悩の。犬となつて。打たるゝと。離れじ。」という深草少将は本当に恐ろしい。そして、最後は唐突ながら、飲酒の戒を守たということから小町と二人で成仏するという筋立てだ。

一方の「関寺小町」は、世阿弥作かと言われている曲で、七夕の日、関寺の近くの草庵に住む年老いた老婆、実は零落した百歳の小野小町のところに関寺の住持と稚児が訪れ、一緒に七夕の祭を楽しむというものだった。零落した後の小町を描くとは言っても、幼い稚児や心優しい住持との邂逅に心を浮き立たせ、楽しい時を過ごす小町に、観終わった後、心が温くなるような話だ。

さて、今回観た「卒都婆小町」の方はどうかというと、観阿弥作と言われる作品だ。「玉造小町子壮衰書」を典拠としており、最初は、卒都婆に座る小町を叱咤した僧に小町がまんまと教義の知識を駆使して反駁し、僧に三顧の礼をもって丁重な扱いを受ける。そのような、若いころの驕慢な面を彷彿とさせる様子を描いた後は、老い衰えた老婆の悲哀を描き、さらには、物狂いとなって深草少将の百夜通いを再現してみせるという話だ。「壮衰書」の作者とみなされて来た空海がワキだったようだと、新潮日本古典集成の『謡曲集(中)』の解説には記載されている(今はワキは高野山の僧となっている。もっとも『玉造小町子壮衰書』は空海が作者である可能性は薄いとされており、また、『壮衰書』の本文にはそこに描かれる女性が小町だとは一言も書いておらず、中世に至るまでに成立した理解と考えるのが妥当なようだ)。「卒都婆小町」は、複式夢幻能ではなく一場物であり、シテが中入りせずに、常座で物着をして物狂いとなって深草少将の百夜通いを再現するところなど、世阿弥以前の古態をとどめている能のひとつと言えるのかもしれない。

また、「卒都婆小町」で、もう一つ興味深いのは、高野山の僧と小町の教義問答で、小町が高野山の僧を言い負かすところだ。これを公演前に読んで思い出したのは、『舞の本』にある「常盤問答」という曲だ。平治の乱後、逆賊の子となってしまった子供達の将来を危ぶんだ常盤御前であったが、牛若丸を鞍馬寺に預ける際に、常盤は、鞍馬寺別当、東光の阿闍梨と教義問答を交わす。この問答が、「常盤問答」という曲の眼目となっている。内容は、常盤が女人が男性より罪業が深いということはないのだということを法華経やその他二十八品の経典を引いて論破し、そもそも鞍馬寺は「ゆげの女院の御墓堂があるし、御本尊の大悲多聞天は女性を誹らず、御妹の吉祥天女を脇に置くではないか、と問い詰める。東光の阿闍梨はぐうの音も出なくなり、常盤は無事、牛若丸を鞍馬寺に預けることになる。

「常盤問答」を始めとする牛若丸の母、常盤御前や牛若丸を主人公とした一群の物語は、清水寺の西門に「女瞽」と呼ばれる盲目の女性の芸能者達がいて、彼女たちが常盤御前の物語を形作ったのではないかという話をどこかで読んだ。「卒都婆小町」も、「常盤問答」も、さらに「卒都婆小町」の教義問答からとった「提婆が悪も。観音の慈悲。槃特が愚痴も。文殊の知恵」という《善と悪は実は表裏一体の同一のものだ》という問答を取り入れた『京鹿子娘道成寺』も、女人禁制や女人が罪障が深いという命題について、地上にあるものは有情無情にかかわらず、仏の前ではすべてが等価値という教義をもって反駁している。恐らく、いつからか女性が男性よりも劣る存在という考えが社会的に浸透していくのと並行して、それに反する考えというのも生まれて来たのかもしれない。それらは、女性の共感を呼んだだろうし、仏教も信者を男性以外にも拡大することが出来るという利点があったのだろう。

私が観たこれらの三つの曲を例えば成立した順に「通小町」「卒都婆小町」「関寺小町」と並べてみると、小町物を通じて、世阿弥のずっと前の時代から世阿弥の時代にかけて、お能がどのように変遷していったかを、概観できるように思う。その昔、唱導などで、地獄絵を絵解きするように、若い頃、驕慢で贅の限りを尽くした小町が、百夜通いの呪いから、百歳まで生きて老いさらばえて惨めな姿を晒す物語があり、それが「通小町」で描かれた。そしてその後、昔の美貌を失い老衰した小町の、男も女もない、一人の人間としての苦悩を描くことに焦点が移り、そのような小町を描いたのが「卒都婆小町」なのではないだろうか。さらには、そういう小町に対する人々の同情と小町の百歳に至っての境地、改めて六歌仙の一人に数えられる歌人としての再評価といったことを曲にしたのが、「関寺小町」だとしたら、とても面白い。

そこでまたしつこく思い出してしまうのが、文楽の景事、18世紀後半頃成立と思われる『花競四季寿』にある「関寺小町」だ。文楽の「関寺小町」は、最初は小町は倒れかけた卒都婆に座っており(ほんとは卒都婆は里塚のことらしい)、人形一体による一人芝居ながら「関寺小町」にある小町の独白の内容を踏襲する。しかし、後半は、かつて遊女だったという伝説もある小町は、その遊女だった昔を思い出すように、深草少将との「恋」について語るところから、詞章も『閑吟集』風の、やわらかいことば遣いへ変わっていく。「通小町」や「卒都婆小町」で小町が自身の驕慢な心から起こったことだったと懺悔した深草少将の百夜通いは、

いとし可愛ゆさがそれが真実ならば、そこのナ、なん/\情のそれが誠か、てんと誓文二世三世うれしえ、ほんに/\え、ほんにえ、憂きが中にも楽しみ

と、遊女が間夫を待つ心に置き換えられるのだ。

おそらく景事であるし、四季をそれぞれの季節に合った四つの曲をもって語るという趣向である故に、小町物の暗い側面が前面に出されなかったと考えるのが妥当かもしれない。しかし、「通小町」や「卒都婆小町」に描かれる小町と文楽の「関寺小町」に出てくる小町とは、罪障を背負い老衰し苦しむ老婆から、百歳を過ぎてなお、凛としたその姿に、美しい遊女の昔の面影を宿す老女へと、大きく印象が変わっているのが興味深い。ほとんど、五百年ほどもかけて、人々の小町の印象は変わっていったのだ。そして、今、小町と聞いて和歌や古典芸能以外に連想することといったら、その町の評判の美人を指して言う「○○小町」といった言い方ではないだろうか。なんだか、小町のために、ほっとため息をつきたくなる。


というわけで、本田光洋師の「卒都婆小町」の感想を書こうと思って書き始めたものの、時間切れで肝心の感想には行き着かず。ずっと先になりそうな気がしないでもないけど、時間を見つけて、感想はまた改めて書き足そうと思います。