表参道ギャラリー5610 渡邉肇 × 堀部公嗣「人間・人形 映写展」

渡邉肇 × 堀部公嗣「人間・人形 映写展」
表参道ギャラリー5610
2013年2月25日〜 2013年3月 9日
http://www.deska.jp/

曽根崎心中』の「天神森の段」の部分を切り出し、普段、観客席からは見えないアングルやスピードで撮影した映像作品。衝撃的な映像だったけど、何か観てはいけないものを観てしまったという気分にもさせられる映像だった。

天神森の段は、完成度の高い段で、私にとっては、文楽の演目の中でも特に感動した場面のひとつだ。けれども、もし、お初と徳兵衛の気持ちを十分理解できるのかとか、共感できのるかと問われれば、私自身は否と答えざるを得ない。詞章と音楽と演者の力に圧倒され、その場面に感動はしても、お初と徳兵衛の本当の気持ちは分からない。お初と徳兵衛だって、この段をちょっと観て感動したからといって、赤の他人に簡単に分かったなどと思われたりしたくはないだろう。徳兵衛の詞にも、「笑はば笑へ口さがを、なに憎まうぞ悔やまうぞ、人には知らじわが心、望みのとほりそなたとともに一緒に死ぬるこのうれしさ」というのがある。彼ら二人の間には、心中するに至る二つの同調する心の軌跡というものがあって、余人に計り知れない、二人だけの心の世界があるはずだと思う。

今回の映像には、心中の場面の徳兵衛の視点から見たお初、お初の視点から見た徳兵衛というのがあって、それがものすごく衝撃的なのだ。その映像をエンドレスに流している部屋に足を踏み入れたときは、ちょうどお初の視点から見た徳兵衛が、脇差を振り上げて、お初に狙いを定めているところで、思わず、「私はこの刀はよけてしまうなあ。悪いけど、徳兵衛とは死ねん!」などと思ったりした。しかし、映像を観ているうちに、お初と徳兵衛の間にある何か、あるいは、二人を搦め取らずにはおけない強い運命的な絆のようなものをまざまざと見せつけられたような気がした。あの場面において、徳兵衛がええかっこしいやつだとか、お初が心中を急ぎすぎたのではないかとか、そんなことは、あの二人を巻き込んでしまった大きな運命のうねりの前には、何の意味もないことなのだ。ただただ、お初と徳兵衛は、二人で心中する運命にあったのだ、と感じさせられた。

そして、お初と徳兵衛の二人のことを今までとは別の次元で分かったような気分になったのと同時に、自分自身が観る資格のないものを観てしまったという気持ちも沸き起こってきた。お初の視点から見た世界、徳兵衛の視点から見た世界というのは、おそらく太夫や三味線の人は見たことはないだろうし、作者の近松だって見たことがないだろう。あれは、何十年も修行を積み、その実力でお初と徳兵衛を遣う機会をつかんだ、ごく少数の人形遣いの人達だけが見ることが許される世界なのだ。その選ばれし人形遣いの人達は、お初や徳兵衛のことを、それこそ初演や入門したての足遣いのころからずっと気の遠くなるくらい長いこと、考え続けてきた人達で、そういう諸々の思いを抱えた上で、自分自身の手でお初・徳兵衛の人形を遣いながら、あの視点から『曽根崎心中』の世界を眺めるのだ。

私達は気軽にあのような映像を見てみたいなと思うし、実際に見てみて、何かが分かったような気になるけれども、そこで見た映像というのは、たとえば今回なら簑助師匠や勘十郎さんが見て感じていることとは全然次元の違うものだと思う。少なくとも、映像の中の簑助師匠や勘十郎さんをはじめとする人形遣いの人達の表情には、そう私自身に強く言い聞かせ続けたくなるようなものがあった。

また、音楽に義太夫節を使わなかったということも興味深かった。この映像には、義太夫節の代わりにピアノを主体として、チェロやトロンボーン、オカリナなどに似た音色の楽器を伴った、バックグラウンド・ミュージックがついている。ピアノの旋律はちょうど三味線を連想させ、他の楽器は男声に近い音程や音質のもので、それほど違和感の無いものにはなっている。そのまま素直に義太夫節を当てなかった理由を考えてみると、おそらく、義太夫節を当てないことで、映像をスローモーションで流したり、様々なアングルから撮った映像を組み合わせるたりするなどして、自由度の高い映像の編集が可能とすることで、人形の持つ魅力を新たな視点から見せる効果を狙ったのではないかと思う。確かに、この音楽のお陰で、文楽人形の可能性というのは、義太夫節の詞章の視覚的表現の手段という枠に収まり切らないことは一目瞭然となった。けれども、やっぱり、私は、『曾根崎心中』のお初徳兵衛は、義太夫節の語りと三味線で観たい。

文楽の魅力というのは、人形だけでも太夫・三味線だけでもなく、三業一体になってこそ、醸し出されるものなのだなあと、改めて思ったのでした。