国立劇場笑劇場 5月文楽公演 第一部

5月文楽公演
公益財団法人文楽協会創立五〇周年記念
竹本義太夫三〇〇回忌記念<第一部>11時開演
 一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
    熊谷桜の段、熊谷陣屋の段    

 近松門左衛門生誕三六〇年記念   
 曾根崎心中(そねざきしんじゅう)
    生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2013/5103.html

 一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
    熊谷桜の段、熊谷陣屋の段 
   

熊谷陣屋は時代物の王道という感じで好きな段だけど、熊谷が相模に必要以上に辛く当たるところが、あまり好きではなかった。

相模が陣屋に来てしまったといっては叱り、相模が「小次郎の初陣が気になって陣中まで来てしまった」といえば叱り、首実験で身代わりとなった小次郎の首を見た相模が思わず駆け寄ると押さえつける。相模に小次郎が死に様を問われたときも熊谷は、身代わりになった経緯をごくごく簡単に語り、「知れたこと」と、鋭く突き放してしまう。相模の台詞ではないけれども、熊谷だけの子供ではないのに、と思ってしまう。相模に厳しく当たるところは、自分の子供の小次郎を身代わりに立てられる非情さと通じる部分なのかも、という気がしていて、『一谷嫩軍記』の熊谷次郎直実という人は、理屈で正しいと思ったことは例えどんな犠牲を伴おうと遣り遂げる強靱な精神を持つと共に、それと表裏一体に、非情さも併せ持つ人なのかもしれないと思っていた。

けれども、今日は、熊谷の別の一面を見てしまった。今日「熊谷陣屋」を観て感じたのは、このような熊谷の態度は必ずしも、最初から熊谷が意図していたことでは無いのではないかという気がした。


そもそも、義経の「一枝を伐らば一指を切るべし」という謎かけによる命は、陣中で急に熊谷に命じられたことだ。熊谷は相模が東の国にいると思いこんでいたので、彼女に事前に打ち明ける余地もなかった。そのため、熊谷ただ一人で決断するしか無かった。それに、よくよく考えてみると、この制札の言葉は、はっきりと「敦盛の身代わりに小次郎を立てよ」と言っているも同然だ。謎かけになっているということは、公にすることは出来ない命だからで、熊谷に残された選択肢は、どうやって敵と味方を欺きつつ、小次郎を身代わりに立てるかということだけだったということなのだろう。

直実は自分の子供を自分の手で殺してしまったが、義経の命を完遂するためには、嘆き悲しむことすら出来ない。きっとあの最初の出の場面でゆっくりと歩く熊谷は、万が一にも、義経の謎かけに対する自分の解釈が間違っていたということは無いのか、あるいは、仮に解釈が合っていようと間違っていようと、取り返しのつかないことをしてしまったなどと、自分と哀れな小次郎の運命に対する無常を感じていたのかもしれない。熊谷が苦しい胸の内を抱えながら陣屋に戻ると、そこには思いもよらず、相模がいる。熊谷は見た目は慌てふためいたりはしないけれども、心の中ではまだ相模に対してどう説明したものか考えもつかず、動揺していたのだろう。それで、相模が陣屋にまで来たことを叱りつけたのかもしれない。

相模は叱られて、しかたなく、小次郎の初陣が心配で、ついここまで来てしまったと言い訳する。熊谷は、それに対して「戦場に赴くからは命は無きもの。堅固を尋ぬる未練な性根。もし討死したらわりやなんとする」と、きつく問う。この詞は厳しく聞こえるけれども、もし本当に熊谷が非情な人だったら、そんな問いかけもせず、相模の詞はそのまま答えず受け流したりするのではないだろうか。確かに、熊谷は、首実験の前に相模に本当のことを打ち明ければ、相模が動揺して不測の事態が起きるかもしれないことは恐れたかもしれない。けれども、それだけではないと思う。相模が小次郎が身代わりになったことを知ったらら、かならず悲嘆にくれるから、悟られずしてそれとなく彼女に心の準備をさせるために発した彼なりの思いやりの詞なのかもしれない。

また、熊谷はさらに、突然躍り出てきた藤の方に、敦盛の仇討で刃を向けられる。相模に加えて敦盛の母の藤の方まで出てくるとは、熊谷はまるで運が尽きてしまったようだが、「様子があらうその訳を」と詰め寄る藤の方に対して、熊谷は敦盛の最期の有様を仕方噺で語る。本当は敦盛は生きているのだから、藤の方を作り話で絶望させずとも、内密に敦盛が生きていることを知らせてもいいのではないかとも思える。けれども、この場面を観て、ここでもやはり、相模のことを気にして、作り話の敦盛の最期をするのだという気がした。彼は、もし藤の方に敦盛が生きていることを話せば、誰が身代わりになったかも話さずばならないと考えたのだろう。

実際、熊谷の人形も、組み伏した敦盛に対して「定めてふた親ましまさん。その御嘆きはいかばかりかと、子を持つたる身の思ひのあまり、上帯取つて引つ立て塵打払ひ『はや落ち給へ』」と言った語る時、相模のことをじっと見るのだ。また、敦盛が「心に懸かるは母上の御事」と語ったという時も、本来は藤の方を見るべきかもしれないのに、相模の方を見る。そして、熊谷の仕方噺が「是非の及ばず御首を」と敦盛の首を討ったところまで来た時、熊谷は、最後まで詞に出来ず、堪え切れない涙を扇で隠すのだ。この仕方噺の中では、熊谷は、自分の子供を自分の手で殺さなければならなかったにもかかわらず、その運命に対する怒りも嘆きもストレートに表すことが許されないという状況だ。だから、熊谷は小次郎のことを敦盛に仮託して話すことしか出来ない。熊谷の悲しみや苦しみが弥増しに増されて観る者に迫ってくる。

その後、熊谷は首実験に義経の陣屋に赴こうとする。しかし、実は、義経は熊谷が首実験を延引し暇を請うのを訝しく思い、謎掛けの真意が伝わったかどうか確認しに、すでに熊谷の陣屋に来ており、ことの次第を奥の一間で聞いていた。たぶん、義経は熊谷の仕方噺から、熊谷が謎掛けの命を遂行したことを悟ったのだろう。藤の方が首実験の前に首を見せてほしいと頼む様子を聞いて「敦盛の首持参に及ばず、義経これにて見やうずるは」と高らかに言うと、その場に姿を現す。

熊谷は、義経に首を差し出す前に、まず若木の桜の制札を抜き取り、「即ち札の面の如く御諚に任せ、敦盛の首、討ち取つたり。ご実験くださるべし」と、首桶の蓋を取る。相模はその首が紛れも無い小次郎の首であることに驚き首にすがり付こうとするが、熊谷はそれを制して、義経に対し、「花によそえし制札の面。察し申して討つたるこの首、御賢慮に叶ひしか、但し、直実誤りしかご批判いかに」と、緊迫した空気の中、義経に問い質す。この詞の中には義経を責める言葉はどこにも無い。けれども、直実の言葉にも態度にも表せない怒りと苦悩がひしひしと伝わってくる。

熊谷の気持ちを汲み取った義経は、扇の骨の間から首を実検し、「ホヽオ花を惜しむ義経が心を察し、よくも討つたりな」と声を掛ける。そして、「由縁(ゆかり)の人もあるべし。見せて名残を惜しませよ」と、相模にもその首を見せるよう促す。相模は熊谷に促されて、藤の方に首を見せるという口実の下、小次郎の首を受け取り対面すると、藤の方に敦盛の首によそえて小次郎のことを語り、観ている私達は、小次郎が敦盛卿の身代わりになったことは、熊谷と相模と藤の方が出会った頃から定められた因縁だった、少なくとも熊谷と相模の二人はそう感じているのだと悟る。熊谷の「十六年もひと昔、夢であつたなあ」という台詞は、あまりに悲しい。

そして、段切には、熊谷は有髪の僧となって名も蓮生と改め、相模と共に法然を師と頼んで黒谷に向かうために暇乞いをする。私は初めて熊谷陣屋を観たのは歌舞伎だったが、あの幕が閉まった後に大薩摩に送られて一人頭を抱え込んで花道を引っ込む熊谷は、熊谷の孤独な苦悩に焦点を当てた、名演出だと思う。けれども、文楽の相模と二人で法然の元に旅立つ熊谷も、浄瑠璃らしく親子の情、夫婦の情を感じられて、改めて良いと思った。


全段を通じて素晴らしかったが、私は特に呂勢さん・清治師匠、熊谷の玉女さんの仕方噺の場面に心打たれた。熊谷は私が思っていたよりずっと、情の深い人だった。熊谷陣屋は元々好きだったけど、もっと好きになった。


 曾根崎心中(そねざきしんじゅう)
    生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段

『曾根崎心中』は、徳兵衛が九平次に陥れられ進退窮まって、お初と心中した話とも言えるけど、本当は、お初が主人公かもしれないと、今日の公演を観て思った。

きっと、お初は、置屋での生活になじめず、徳兵衛との逢瀬だけが心の拠り所だったのに、徳兵衛が進退窮まり、徳兵衛を陥れた九平次に言い寄られ、もちろん両親のいる実家には帰れない。彼女こそ、どこにも行くあてもなければ、幸せになれる確率はこれっぽっちもなく、人生に絶望している。だから、彼女にとって心中は最初から望んでいたはずはないと思うけれども、徳兵衛がこのような状況に陥った今となっては、心中こそが、彼女の彼女の唯一望むことになってしまったのだろう。

でも、今日の道行のお初は、悲しそうには見えなかった。自分を愛して自分と共に死んでくれる人がいるとしたら、自分が本当に死にたいと思った時に自分を殺してくれる人が愛する人だったら、それほど不幸せという訳でも無い、と言っているようだった。簑助師匠のお初は観る度に透明度が増していっている気がする。いつか天女になってどこかに飛んでいってしまうかもしれない。