国立劇場 5月文楽公演 第二部(その1)

5月文楽公演 公益財団法人文楽協会創立五〇周年記念 竹本義太夫三〇〇回忌記念<第二部>4時開演
 寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)
    
 近松門左衛門生誕三六〇年記念
 心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)
    北新地河庄の段、天満紙屋内より大和屋の段、道行名残りの橋づくし
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2013/5103.html

寿式三番叟
住師匠が、勧進公演でご挨拶されていた時に感じた滑舌が少しだけ不自由そうな様子が、この曲では全く感じられず、素人には以前と同じに聞こえて、さすがと思った。

曲自体、私は大好きな曲。文楽の三番叟自体好きなだけでなく、能ガカリだし、お囃子には部分的に神楽的要素もあって、音楽的には、様々な芸能が一体となった楽しさがある。

最初の、お能の「翁」の舞に相当する部分は、御簾内は、お能のお囃子を写した演奏。お能囃子方に負けない、きりっとした、力強い演奏だった。

翁(和生)さんの舞は、お能の「翁」の印象的な舞の型を取り入れた舞。翁の付ける「翁」の面は、お能の翁の面に良く似ているけれども、よくよく見ると少し印象が違う。本行の能楽の方の翁の面は、『大鏡』に出てくる常継(よつぎ)という八百歳のおじいさんみたいな、信じられないくらいの長寿を得た人の、皺だらけの柔和な笑顔という感じ。一方、文楽の翁の面は、確かに皺だらけのおじいさんが笑った顔だが、年輪を感じるというよりは、あどけない笑顔といった方がいい感じ。まるでお能文楽という芸能の特徴の対比そのまま。ひょっとすると、あの文楽の翁の面を作った人は、そのまま能楽の翁を写すよりは、その方が文楽らしいと考えて、そんな風に作ったのかも。

「翁」の代表的ポーズその1(両手を水平に広げるやつ)もその2(頭の上で袖を被いて一周するやつ)も素敵に決まり、祈祷のような厳かな舞は終わったのでした。

その後、千歳(勘弥さん)の、文楽三味線に乗った、お能の舞と日舞の踊りの中間のような柔らかな舞があり、三番叟達(文昇さん、幸助さん)が橋掛リに相当する付近からきびきびと本舞台に現れる。その時、初めて御簾内の音楽に、能楽の囃子以外の神楽的要素が入って、いかにも三番叟の出番という、ワクワクした雰囲気を醸し出す。それに確かに三番叟は地方の神楽に取り入れられていることがある。翁、千歳、三番叟という登場人物の特徴と囃子の曲調が結びついていて、この曲を作曲した人の、太棹三味線のみに留まらない音楽全般に対する深い理解が。感じられる。

その後、千歳と三番叟達との問答が終わると、千歳は、三方に載せた、きらきらした、あの金のぶどうの房のような鈴を三番叟達に渡す。そして、三番叟の揉みの段が始まる。あのエンドレスの三味線と三番叟のコミカルなやりとりは、何度観ても楽しい。そして、すべてのものには終りがある。エンドレスかと思えた揉みの段は、残念ながら、舞おさめられ、目出度く終わりを迎えるのでした。

心中物に挟まれた三番叟だったので、余計に清々しく感じられました。


心中天網島
近松は天才すぎだと思う。

北新地河庄の段
河庄の段は、4月に観た時は、何処が良いのか良く分からなかった。けれど、今回、改めて観て、少し良さが分かった気がした。

筋としては、紙屋の治兵衛(玉女さん)が、遊女の小春(勘十郎さん)のところに通い詰めて、身代をつぶさんばかりとなったことを案じた治兵衛の兄の孫右衛門(文司さん)は、武士の身なりで小春の元に訪れる。そこに現れた治兵衛に、孫右衛門は、縁を切るよう説得するが、偶然、治兵衛の妻のおさんから小春宛の手紙を見つけてしまい、小春がおさんに義理立てして、治兵衛に対して愛想尽かしをしていることを知る。孫右衛門はそのことに感じ入りつつ、二人を別れさせる、というものだ。

これはこれで良くできた筋だと思う。しかし、近松のすごいところはそれだけにとどまらないところだ。この筋を主旋律だとしたら、その主題の旋律を支える伴奏の和音のように、それぞれの登場人物の心の奥の機微を、詞章の中には直接描かず、観ている者がその登場人物の置かれた状況から、自分の心と照らして自ずとそれぞれの人物の気持ちを想像出来るように書いている。その近松が行間に滲ませた部分こそが、この浄瑠璃の秀でたところなのだという気がする。

例えば、治兵衛は、出の直後、河庄の格子戸から小春の様子を見て、「心の中は皆俺がこと」と、小春の心の中に思いを致す。それなのに、小春の愛想尽かしの言葉を聞いて、逆上してしまい、さらにライバルの太兵衛になぶりものにされて、大恥をかいてしまった治兵衛は、小春に対して罵詈雑言を尽くした上に暴力まで振るって、別れる決心をする。でも、それは、治兵衛が人の心が分からない浅はかな人だから小春の真意を見抜けなかったというよりは、小春をあまりに好きだったからこそ、小春の「心の中は皆俺がこと」ばかりと知っていたのに、冷静な判断が出来なくなってしまって、浅はかな判断に陥って、逆上してしまったのだと思う。だから、治兵衛は、口では思い切るといい、小春を口を極めて罵っても、心の中では決して思い切ったりは出来ない。

また、小春は、治兵衛の妻であるおさんから治兵衛と別れて治兵衛の命を救って欲しいという手紙を貰い、思い切ると返事はしたものの、そう簡単には思い切れず、苦悩している時に、武士に扮した孫右衛門に出会う。治兵衛のライバルの太兵衛には決して身請けされたくない小春は、孫右衛門の力になるという言葉を受けて、その誘いに乗り、治兵衛への愛想尽かしをしようと決心する。しかしそのことの見返りは、治兵衛からの罵詈雑言や暴力であり、孫右衛門からは「人を誑(たら)すは遊女の習ひ」、「蹴られうが擲かれうが、そこをぢつと辛抱せずば、この状の客へ義理が立つまい」という情けの無い言葉だ。小春の身になって彼女をかばうのは、今まで幾度となく遊女とお客の修羅場を見てきたであろう花車ただ一人だけ。『曾根崎心中』や『冥途の飛脚』では、遊女の美しい一面しか出てこないけれども、この物語の中の小春は、人に身請けするのしないのとモノ扱いされ、愛想尽かしをすれば一転して罵詈雑言を浴びせられ暴力を振るわれ(たとえば、治兵衛はおさんにも罵詈雑言を投げかけたり、暴力を振るったりするのだろうか?)、孫右衛門からは、それが当然というように、たった一人の恋人と有無を言わさず別れさせられる。好き好んで遊女という境遇にいるはずのない小春の、やりきれない思いが伝わってくる。

一方、孫右衛門は、どうだろう。彼は、格子の影から小春を刺そうとした治兵衛の手を引き込み縛ったりするような手荒な真似もする。しかし、それも皆、弟のためであり、武士の扮装などしてまで小春のところに出向いて、治兵衛に道理を説いて彼を真っ当な道に戻そうとする、心からの弟思いの人だ。孫右衛門は、最初は、彼の救いの手に乗って愛想尽かしをしようとした小春の言葉をそのままに受け止め、心底を見届けたと思っていた。しかし、偶然、小春が肌身離さず持っていたおさんからの手紙を読んでしまうことで、小春の真意を知る。一転して彼は、その場で唯一人、小春の心根も、おさんや家族の悲痛な願いも、治兵衛のやぶれかぶれの気持ちも知る立場の人間となる。それでも、孫右衛門は、治兵衛の兄であり、おさんの従兄弟という立場からは、治兵衛に小春のことを思い切らさねばならない。このような別れをしなければならない、治兵衛と小春に対する憐れみを感じつつ、孫右衛門は治兵衛をおさんの元に帰らせる。

近松は明白に詞にしたりはしなかったけれども、治兵衛も小春も孫右衛門も、それぞれの人がそれぞれの立場で、言葉には表れない気持ちをかかえている。現実の世界でも、人の本当の気持ちは往々にして、言葉には表されない。けれども、人は人の気持ちを察することは出来る。だから近松は、敢えてこのように本当に書き込むべきことを書き込まずに、観る者の想像力に委ねることで、観る者が一人ひとりの物語を紡ぎだすような形にしたのかもしれない。


床は中が千歳さん、清介さん。切が嶋師匠、富助さん。河庄の段は、実は嶋師匠に代わって以降、ちょっと集中力が途切れてしまったが、途中で、語られてることを観ようとするよりも、語られていないことの方に思いを致す方が、ずっと話を深く理解できると気付いてからは、俄然、面白くなった。嶋師匠の語りというのは、解釈の自由度が高いというか、絶対にこのようにしか解釈できないというような語りではないので、私のような初心者で、この演目はこういう話だとちゃんと理解していない人間が聴くと、理解の手がかりが少なくて、理解のきっかけがつかめぬまま、良く分からずに終わってしまったりすることもある(私だけかもしれないけど)。声が素敵だし、迫力もあるので私も好きなのだけど、嶋師匠がどういう解釈でその物語を語っているのかを理解しながら聴こうとすると、結構、私には難しく感じたりする。それとも、そういう聴き方自体が、西洋音楽などの影響を引きずっているということなのかな?

とはいえ、この日は、私も仕事が結構忙しく疲れていて、集中力を欠いていた。しかも、二部の前に一部を再見して、「熊谷陣屋」で感動しすぎて、『曽根崎心中』でも疲れてしまっていたし。結局、一部と二部の間に、人混みで酸欠状態のロビーで待っている気にはとてもなれず、永田町の駅近くのエクセルシオール・カフェでお茶して、リフレッシュして戻ったつもりだったが、やっぱりだめだった。それにしても、私は別に好きでもないのに、エクセルシオールに行き過ぎだと思う。国立劇場小劇場の行き帰りにも時間があったら大抵行くし、国会図書館に行った帰りにも行くし、永田町から東京メトロにのって通勤定期の使える路線に乗り換える途中にあるエクセルシオールにも行くし、定期の使える路線の途中駅にも、いくつか長居できるエクセルシオールの手駒(!)を持っている。それから国立能楽堂の行き帰りにも寄ることが多いし、図書館とかに行った帰りも、もちろんエクセルシオールに寄る。だから、たまに、タリーズとかセガフレードとかスタバに空き席があって入れるとうれしくなり…、と書いてみて、なんだか情けなくなってきた。そして、大阪では、私の狭い行動範囲内には、エクセルシオールは見かけない気がする。大阪にはエクセルシオールって無いのだろうか。私は、大阪の文楽劇場で一部と二部の間にカフェでお茶したい人は何処に行けばいいのかという問題を、未だ解決できずにいるのです。一体、皆、どうしているのだろう?

というわけで、その2に続きます。