国立能楽堂 定例公演 鉄輪

定例公演 2013年6月21日(金) 開演時間 午後6時30分
狂言 千鳥(ちどり) 佐藤友彦(和泉流
能   鉄輪(かなわ) 観世銕之丞観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2013/1956.html

「鉄輪」は初見。写真は見たことはあるが、大体、頭に三本のロウソクのようなものを立てた怖い般若のような顔の女の人が、打杖を振りかざしている図だ。内容も女の人が自分を捨てて再婚した元夫を呪って妄執のあまり鬼になった、という怖そうな話だ。なのに結構人気曲のようで、どうしてよくかかっているのか不思議だった。

そして、この日、演能を観て、なぜ人気曲なのかが何となく分かった。確かにスペクタクルな演出で面白い。シチュエーションとしては、ちょうど、源氏に冷たくされた六条御息所が生霊となって葵上を苦しめる「葵上」を思い出させるし、そのシテの女の妄執の恐ろしさと滑稽ささえ滲ませる悲哀は、山中の一軒家に住む老女が、宿を提供した僧達に今までに食い殺した人の人骨が山をなす一室を見られ、恥ずかしさと怒りで鬼になって僧達を襲う「黒塚」も彷彿とさせる。この「鉄輪」では鬼の角の無い「橋姫」という面が使われたけれども、彼女はれっきとした鬼なのだ。

鬼の能の面白さを感じると共に、なぜ、鬼は人の心を惹きつけるのか、どうしても気になった。それに、なぜひどい目にあっても鬼になる人とならない人がいるのだろう?たとえば、六条御息所とか「黒塚」の鬼女、阿部仲麻呂とか菅原道真(亡くなった直後は鬼神といっても良さそう)とか崇徳院とかは何故、鬼になってしまい、どうして小野小町とか建礼門院とか和泉式部、中将姫は鬼にはならなかったのだろう?不思議に面白いのは、鬼にならなかった人に人々の同情が集まる一方で、本来は忌み嫌われてもおかしくない鬼に対しても、人々は同様に、もしくはそれ以上に、同情し共感するのだ。どうしても鬼のことが気になってしまい、馬場あき子さんの『鬼の研究』(ちくま文庫)を買ってしまった(ファンの責務でもある!)。


能   鉄輪(かなわ) 観世銕之丞観世流

狂言口開で始まる。貴船明神に仕える神職と名乗る社人(高野和憲師)が現れ、不思議な霊夢を見たという。都より丑の刻詣でをする女があり、この女の望みは叶うという御託宣を得たというのだ。それで、社人はこの女の到着を待つことにする。高野和憲師は烏帽子を被っているのだが、その姿がまるで「北野天神縁起絵巻」に出てくる大工の棟梁そっくりだった。「鉄輪」は『平家物語』の「剣巻」の物語を典拠にしているらしいが、その典拠となった話は、「嵯峨天皇ノ御時」と始まる。それにこの「鉄輪」の中にも安倍晴明が出てくる。だから時代設定としては、平安時代のこととして考えるのが妥当なのではないかと思うが、和憲師の姿を見たら、そのまま平安時代にタイムスリップしてしまったような気がした。

そこに、橋掛リから笠をかぶった女(観世銕之丞師)が現れる。泥眼(出目元休作)の面に、金地に菊の文様の唐織を壺折にし、その下に縹色の地に蘭のような細長い葉を持つ草の文様。笠をかぶっているのは、遠い道のりをやってきたからだからだろうか。それとも人目を偲んでいるからだろうか。一ノ松のところで見所と反対の鏡松の方向を向いくと、うつむきながら、[次第]「日も数そひて恋衣、日も数そひて恋衣、貴船の宮に参らん」と謡う。日を重ねるにつれて恋心が募るという意味のようだが、その後の[サシ]はただごとではない。「蜘蛛の家(糸)に荒れたる駒は繋ぐとも二道(ふたみち)かくる人は頼まじ」という古歌があるのに、人の心を知らず夫婦となった悔しさで、貴船の宮に詣でて来たのです。住むかいがある世と思えるよう、ひどいあの人に報いをお見せ下さい、と、ひとりごつ。貴船神社は、雨乞いや夫婦円満を守る神として有名で、そこに呪詛のために、夜な夜な通っているのだ。

女は本舞台に来て笠を取り、心静かに参詣しようとして床几に腰を下ろす。その様子を見たアイの神職が、女に向かい、あなたの丑の刻詣でで祈っていたことを叶えましょうという霊夢を受けたことを語る。そして、

鉄輪の三つ足に火を灯し頂き、身にはいかにも赤き丹(に)を塗り、赤き衣を着て、怒る心をお持ちあれ、必ず望みは思ひのままにあらうずるとの御事にて候

と告げる。

女は一度は人違いだと応じる。が、その「泥眼」の面の端正な美しい顔立ちは、凄まじい顔つきに変わっていく。神職はそのことを女に告げると、「急ぎ御帰り候へ。なう恐ろしや、恐ろしや」と怖がって、自分の方が先に帰ってしまう。一人残された女は、不気味に落ち着いたまま、それでは、まずは家に帰り、霊夢のようになりましょう、というと、いきなり床几を立つ。それと同時にそれまでゆっくりとした速さで語っていた地謡は「立つや黒雲の、雨降り風と鳴神も」から急にテンポを速める。女は怒りを爆発させるように、持っていた笠を床に叩きつけると、今まで見た橋掛リを戻るシテの歩みの中で最も早いといっていいくらいの猛スピードで、橋掛リをかけ去って行って中入りとなる。女のいなくなった舞台は、これから恐ろしいことが起こるに違いないという不穏な空気に包まれるのだった。


入れ違いに納戸色の素袍上下を着たワキツレの男(則久 英志師)が橋掛りから舞台に現れ、自分は下京の者だと言う。この話は、下京に住む庶民階級の人の話なのだ。男は、ここのところの夢見が悪いので安倍晴明に夢を占ってもらおうという。男の呼び出しに応じた晴明(殿田謙吉師)だが、彼は男の顔を見るなり、ずばり「女人の恨みを深く被(こうむ)りたる人にて候べし」と断じる。男は、自分は前妻と離婚し、後妻をもらったのですと包み隠さず話す。晴明が、男の命は今夜に極まったと告げると、男は、どうしても祈念して欲しいと晴明に頼む。

晴明は祈念を請け負うことにし、祈りの準備にとりかかるべく、常座でクツロぐ。その間に、後見が一畳台を正先に持ち込み、さらに高棚をその前に置く。高棚には、四隅に赤、青、黄、白の御幣を立ててあり、男と後妻の形代の鬘が置いてある。ここは実はパンフレットのワキの詞章では、「茅の人形(人形)を人尺に作り、夫婦の名字を内に籠め」となっている。つまり、詞章では等身大の人形が形代なのに、舞台上では、鬘が形代ということになっていて、詞章と舞台の齟齬がある不思議な場面になっている。とはいえ、等身大の茅の人形を置くというのは、能舞台でやると相当インパクトがありそうでケレン味を感じさせ、お能を見慣れている人にとっては、お能の演出の枠を越えているという感覚がある。その点、鬘を置く方がお能ミニマリズムや象徴性をよく表していると思う。また、この曲のさらに後の方で鬼になった女が「後妻(うわなり)の、髪を手にから巻いて」という場面があり、この一節が初演当時からあるなら、鬘は、その時から女の後妻に対する恨みを表現する重要なモチーフのひとつと言え、最初からあったと考えてもおかしくない気がする。この辺りの演出が初演はどうで、変遷したとしたならどう変遷したのか、興味深い。

お能の戻って、[ノット]の囃子が始まると、晴明は一畳台に上り御幣を振りかざし、高棚の前で伊弉諾(いざなぎ)伊弉冊(いざなみ)の神を始めとする諸神、諸仏を勧請し、祈りを捧げる。ところが晴明は只ならぬ気配を感じたのか、晴明は何度も辺りを警戒するように見回す。雨が急に降り出し、雷鳴し、身の毛もよだつ、恐ろしい気配がするのだ。ヒシギが奏され、晴明は一畳台から立ち去る。


[出端]で、シテは橋掛リから現れると一ノ松に佇む。面は「橋姫」(夜叉作)で、鬼の恐ろしさというよりは、自分の執心に突き動かされ、どうにもならない悲しみをたたえた顔立ちだ。装束は、先の貴船神社神職の託宣の如く、鉄輪の三つ足に火を灯し、(紅色ではなく)真紅の地に金のギザギザと波打った水平の間道の文様の摺箔に腰巻というもので、打杖を持っている。私はこのお能を観るまで、鉄輪というのは、何か神事に使うものかと思っていたが、実は、竈で使う五徳のようなものだそうだ。五徳を頭に載せて火を灯し、顔には丹を塗り、赤い衣を着た女…。鬼とは言っても、人を超えた存在というよりは、あまりに人間的で、生活感すら漂っていている。そのことが女の存在を、より哀しいものにしている。貴船の神様も何ゆえ、このような残酷なご託宣をしたのだろう。でも、そこが、何もかも振り切って鬼になりきれない女の心情をよく表しているのだとも思える。

女は捨てられた恨みつらみ、それでも夫を恋しく思うことを止められないつらさを述べると、「いでいで命を取らん」で一畳台に上ると、後妻のを左手に巻きつけ、打杖を振りかざす。私は「後妻(うわなり)打ち」ということばがあるくらいだから、高棚を壊す勢いで打ち付けるのかと思いきや、二、三度、打つだけなのだ。彼女は恨みつらみを述べるが、「船弁慶」の知盛の幽霊が義経に斬り込むように全力で復讐したりしない。それは彼女の心の奥に、捨てきれない優しさや夫への愛が残っているからだろう。

そのあと、「殊更恨めしき」元夫のところに行こうとするが、魑魅魍魎が現れ、彼等に責め立てられると、神通力が解けて女は鬼の力を失ってしまう。彼女は腹を立てるが、「時節を待つべしや、まづこの都度は帰るべし」と言う声ばかり聞こえて、目に見えない鬼となって消えていってしまうのだった。


最後は成仏もせず、「時節を待つべしや」といって帰るが、彼女はまた元夫の前に現れるのだろうか?私は現れないと思う。「時節を待つ」とは言ったけど、一方で、彼女は、恨み復讐することの不毛を悟ったのではないかと思う。だから、この後の人生が、どんなに惨めであろうと、彼女は、夫に去られた人としての人生を全うしたのではないだろうか。甘いかな、私の考えは。でも、そうあって欲しいと思わせた、銕之丞師の「鉄輪」でした。