歌舞伎座杮葺落六月公演 第一部 (その1)俊寛

歌舞伎座新開場 杮葺落六月大歌舞伎 平成25年6月3日(月)〜29日(土)
第一部  午前11時〜
一、其俤対編笠 鞘當(さやあて)
二、六歌仙容彩 喜撰(きせん)
三、平家女護島 俊寛(しゅんかん)
http://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/2013/06/post_57.html

某日、新しくなった歌舞伎座吉右衛門丈の俊寛を観た。先日、観世能楽堂能楽入門講座で、観世清和師が、「お能の『山姥』に出てくる山姥は、まさに世阿弥そのもの」とおっしゃっていたが、この俊寛という登場人物は、ひょっとすると近松そのものなんじゃないかという気がした。


最近、文楽ばかり観ているので、冒頭、下手から幕が開き、最初っから床のお二人が舞台に出ているのが、ちょっと面白かった。文楽は、上手から幕が引かれるし、床は幕の外にあって幕が開いてから盆が回る。歌舞伎は、なぜ下手から開いて上手から閉まるのだろう?花道が下手側にあるのが関係しているのかな?

そして、葵太夫さんが、「もとよりもこの島は、鬼界が島と聞くなれば、鬼あるところにて今生よりの冥途なり。」という謡曲の「俊寛」の一節から採った下りを語り始める。ここは謡ガカリだけど、葵太夫さんは謡の節では語らず、義太夫節の節で語っていたので、面白いなと思う。何故、謡ガカリではなく義太夫節の節になっているのだろう?今はお謡を習ったり、お能を観る人が少なくて、謡ガカリにする演出意図が効果を発揮しないからなのかもしれない。

そもそも、原作者の近松門左衛門が、冒頭に謡からの一節を引いた演出意図としては、ここからお能の「俊寛」を典拠とした物語が始まるのだということを観客に知らせるためだと思う。この一節は、お能の「俊寛」の中では、<クセ>という謡いどころの中でも、クライマックにあたる部分だ。瀬尾が俊寛達の前に現れ許状を読み上げるが、俊寛の名前だけ無い。そこで、俊寛が、「何故、私の名前だけが無いのか。この鬼が住むという鬼界が島に私一人を置き去りにするとは、鬼よりも情けの無い話ではないか。」と訴える場面の俊寛のことばだ。

たぶん、当時はお芝居を観に来るような人なら、この一節を聞けば、お能の「俊寛」だとピンと来たのだろう。もしくは、昔の人の工芸であれ文芸であれ、他人が分かろうと分かるまいと、自分が最高と思うレベルを目指してものを作るという姿勢がかいま見えることはままあることなので、近松も、かりに観客がその意図を理解しようとしまいと、「平家女護島」という曲を最高のものにしようと考え、その衿持を示したのかもしれない。


歌舞伎の俊寛に話を戻すと、俊寛が一人いるところに丹波少将成経と平判官康頼が現れて、俊寛丹波少将が千鳥という娘と夫婦になったと報告する。すると俊寛は、

珍らしゝ珍らしゝ、配所三歳(みとせ)が間、人の上にもわが上にも、恋といふ字の聞き始め、笑ひ顔もこれ始め。殊更海士人の恋とは大職冠行平も、磯にみるめの汐なれ衣。濡れ初めはなんと、なんと。俊寛も故郷にあづまやといふ女房、明け暮れ思ひ慕へば、夫婦の中も恋同然、語るも恋聞くも恋、聞きたし聞きたし、語り給へ。

という。

平家物語』の俊寛僧都はシニカルで心奢れる人という印象だし、お能の「俊寛」も人生の孤独と対峙している人なので、私自身は、ついそれにつられて、今までどうしても、このような台詞を言う俊寛の「柔」の側面について違和感を感じてきた。しかし、この「俊寛」の前の場を考えてみると(2007年10月に幸四郎丈が国立劇場で「六波羅清盛館の場」を復曲した)、この近松の『平家女護島』の中の俊寛に関しては、私の感覚の方が間違っている気がする。

六波羅清盛館の場」では、妻のあづまやが出てくる。あづまやは能登守教経に捕らえられ、清盛公に差し出される。そして、清盛は、あづまやの美しさに心奪われ、義経の母、常盤御前が清盛公の側妻になったように、あづまやにも側妻になるよう命じる。あづまやの態度次第では、島流しとなった俊寛のことも悪いようにはしないかもしれない、と言うのだ。しかし、あづまやは、夫の俊寛後白河法皇側につき、鹿ヶ谷の自分の別荘で平家転覆の企てをしようとした人なので、清盛公の言葉を毅然としてはねのけ、自害してしまう。あづまやの自害は、とりもなおさず俊寛への操を立てた行動だった。しかし、ここからが近松の真骨頂なのだが、皮肉なことに、これが仇となって、俊寛は清盛公のさらなる恨みを買ってしまう。

そして、妻のあづまやのことを明け暮れ慕い、「語るも恋、聞くも恋」と言う俊寛だからこそ、この後、俊寛はひとり鬼界が島に残るという選択をすることになるのだ。

これは、とても興味深い。なぜなら、近松は典拠となっている『平家物語』の筋を改変し、原典にある理由とは異なる理由で俊寛を一人、鬼界が島に残すという筋にするからだ。『平家物語』では、俊寛が生きている間は俊寛の妻も生きているし、単に赦し文に名前が書いてなかったから一人、鬼界ヶ島に残されてしまう。しかし、その後、俊寛の家にいた童の有王という若者が俊寛を尋ねてくる。そして有王から俊寛の幼い一人娘が亡くなったことを告げられると、俊寛は、「娘が生きていると思ったからこそ、ここまで生きてきたのであり、娘がいなくなった今、これ以上の憂き目を見ることができようか。」と言い、絶食して絶命してしまう。

平家物語』の俊寛の話も十分、哀れで観客の感動を呼ぶと思うが、何故、近松俊寛に家族の消息を赦し文の一連の事件の中で明らかにすることにし、しかも死んだのは娘ではなく、妻にしたのだろうか?

前者の問いに関しては、『平家物語』の俊寛とは違い、『平家女護島』の俊寛は、自分の意志で鬼界が島に残ることにすることで、俊寛一人が鬼界が島に残ることは、俊寛が自分で選びとった人生の選択肢だったということを、明確にしたかったのではないかと思う。そのことで段切の壮絶な場面がより人の心に響くものになる。

それでは、後者の問いはどうだろう?ここからは私の妄想だけど、近松が書いた作品を考えてみると、『曾根崎心中』をはじめとする心中物、『国性爺合戦』などの時代物から、さかのぼって最初に書いたという『出世景清』に至るまで、彼の作品では、夫婦の情、男女の情が常に大きなテーマを占めているように思う。もちろん、浄瑠璃のもう一つの大きなテーマである親子の情も描いているが、その比重は、男女の情に関する方が大きいような気がする。これは、近松の前の時代の古浄瑠璃が圧倒的に霊験譚や親子の情を描くことが多いことを考えると、男女の情こそ、近松浄瑠璃で描こうとしたものなのではないかという気がする。

それでは何故、近松は男女の情を描きたかったのだろうか?一つ考えつくのは、近松の前の時代に盛んだった古浄瑠璃は素朴で得てして子供だましのようになりやすいものであり、近松は、その古浄瑠璃と決別し、大人の観客の鑑賞に耐え、大人の共感を呼ぶ作品を書こうとしたからではないだろうかと思う。それから、もう一つ、これは本当に根拠らしい根拠もない妄想だけど、近松自身の人生の中でも、男女の情というものが、大きな位置を占めていたのではないだろうかという気がする。例えば、近松以外の浄瑠璃作者達(義太夫狂言の原作者達)のことを考えてみると、確かに恋がストーリー展開の原動力となっているものは数多くあるけれども、大体、「会いたい、見たい」「添いたい」というレベルの話で、多くの場合、それ以外にも「お主への忠義と犠牲」とか「紛失したお宝探し」とか「敵対関係」とかいうテーマがあり、それらが輻輳して結末に向かっていく形が多いように思える。浄瑠璃の中では、近松こそ、最も男女の情を浄瑠璃のテーマの中心に据え、その心の機微にまで分け入って描いた人で、それは、とりもなおさず、近松自身が、そういうことに心を砕いていたということではないかと感じる。

そう考えると、俊寛というのは、実は近松が自分を仮託した登場人物の一人だったのではないかな、という気がしてくる。俊寛は妻のあづまやが死んだという話を聞いて、あづまやのいない都に戻ったとて、「三世の契りの女房死なせ、何楽しみにわれ一人、京の月花見たうもなし。」と語り、代わりに少将との別れを嘆く千鳥を舟に乗せようとする。南限の孤島で一人取り残されるというシチュエーションのせいで、この物語に関しては、つい孤独というテーマが大きく感じてしまうけれども、俊寛はあくまで、妻のいない都には未練無しと考え、自分が乗るべきは御赦免船ではなく、弘誓の舟(仏による悟りの彼岸へのお導き)だと言う。そして、代わりに、千鳥と丹波少将夫婦に未来を託し、二人の恋を成就させようと考える。しかし、「思ひ切つても凡夫心」、一人、この島に残るということは、全ての縁を未来永劫、断ち切ることであり、あづまやとの日々を含めた自分の過去をも断ち切ることでもあるのだ。その思いは、俊寛に思わず御赦免船のともづなを握らせ、ともづなに手が届かなくなった後は、岩に上り、水平線の彼方に消えようとする船を涙ながらに、いつまでもいつまでも眺めさせる。

歌舞伎の吉右衛門丈の「俊寛」は、私は歌舞伎を見始めて二回目か三回目の時に観たことがある。その時、「思ひ切つても凡夫心」という言葉が強く印象に残った。その後、文楽(のCD)でもお能の「俊寛」でもそれほど強調されていないし、なぜそこまで印象に残ったのか、不思議に思っていた。しかし、今回、再び歌舞伎で葵太夫さんの「思ひ切つても凡夫心」を聴いたところ、ここに力を込めて語ってらっしゃって、おそらく葵太夫さんの語りの印象が強かったのだと分かった。私も、この「思ひ切つても凡夫心」という言葉は、とても大事な言葉だと思う。近松は、心中物等を沢山書いてきたが、この「俊寛」では、恋の相手を失い一人残されることの絶望と、神仏を便りにそのことを昇華しようとしても決して癒されない孤独の苦しみを描こうとしたのだと思う。

というわけで、その2につづきます(多分)。