文楽劇場 夏休み文楽特別公演 第2部 妹背山婦女庭訓(その1)

第2部 【名作劇場】 午後2時開演
妹背山婦女庭訓 (いもせやまおんなていきん)
 井戸替の段/杉酒屋の段/道行恋苧環
 鱶七上使の段/姫戻りの段/金殿の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2013/2597.html

今年2月の国立劇場文楽公演では、「恋苧環」からの半通しだだったが、今回は、井戸替の段からだった。杉酒屋の段では、おっとりとした純情なお三輪ちゃんだったのが、結構衝撃的で、その後、「恋苧環」、「金殿の段」と、お三輪ちゃんが徐々に橘姫に対する嫉妬と求女に対する恨みで半狂乱になっていく悲劇的な姿に胸を打たれずにはいられなかった。

そして、今回は第2部の『妹背山婦女庭訓』のみ2回、観ることができたので、2回目の第2部を拝見する前に、大神(おおみわ)神社まで行ってきた。大神神社では、参拝者がお賽銭以外にお酒と生卵をお供えしていて、大神神社がお酒と蛇の神社であることを強く印象づけられた。

お酒は、お三輪ちゃんの家業の杉酒屋や三笠御殿での祝杯、官女達が鱶七に供する毒酒などとして登場する。そして、蛇の方は、お三輪ちゃんが恨みの感情に乗っ取られる様子に通じる。

歌人の馬場あき子さんの著書、『鬼の研究』によれば、日本の古典芸能では、女の人が恋の嫉妬と不実な相手への恨みに苦しみ、その感情を爆発させてしまうとき、その状態を<蛇体>という形で表現する伝統があるという。特に<蛇体>の鬼の心になりきらない、慈悲の心を残した<般若(=半蛇)>の状態の表現が、重要視されてきたとも書かれている。おそらく、昔の人は、それが恋の究極の形のひとつだと考ていたのかもしれない。

『妹背山婦女庭訓』のクライマックスは、どうして山の段ではなく、お三輪ちゃんの悲劇なのか、今までよく分からなかった。しかし、こうやって考えてみると、山の段よりも、もっと純粋な愛情の形が、お三輪ちゃんの恋だと、作者の近松半二達は言いたいのかもしれない。ほとんど<蛇体>になりかけていたお三輪ちゃんが、自分の死が求女のためになると知ったとき、純粋な愛情を取り戻し、たとえ自分のことを利用した相手であっても、喜んでその人のために死んでいく。心からの純粋な愛情をもっていなければ出来ないことだと思う。

大神神社に参拝した後に観た『妹背山婦女庭訓』は新鮮で、一層、感慨深いものとなりました。


井戸替の段

七月七日は井戸替えをする習慣があったとか。そんな井戸替えの後の宴会の様子を活写しつつ、求女(和生さん)の登場となる。烏帽子屋とはいうが、馬鹿丁寧な言葉遣いが、なにやら事情があるらしい…と思うべきところなんだろうけど、私達は既に求女がどういう人間か知っているので、今更、訝しがることは出来ない。けれども、求女のどこか人を喰ったような人間性が出ている場面で面白い。


杉酒屋の段

ほおずきを両手で大事そうに持ちながら歩いてくるお三輪ちゃん(勘十郎さん)が、いじらしいほど可愛い。英さんもおっとりと語っている。2010年4月に文楽劇場で通しを観た時は、お三輪ちゃんが、本来はこんなにおっとりとした、優しい女の子なのに一夜にして劇的に嫉妬と恨みの塊に変わってしまうという流れに、気が付かなかった。

この段には橘姫(清十郎さん)も出てくるが、まだ正体は明かされない。お三輪ちゃんは、子太郎に橘姫が求女の元に通ってきていることを告げられ、事情が飲み込めないままに、去っていく橘姫とそれを追いかける求女の後を、お三輪ちゃんもさらに追いかける。


道行恋苧環

この道行の曲の中で、橘姫が求女を慕っていること、求女も満更ではないと思っていること、そしてお三輪ちゃんにとっては、求女は自分の恋人で橘姫こそが割って入って邪魔しに来た人なのだという、三人の関係性が描かれている。

この曲単独だけでもとても面白いし、大好きな曲なのだけど、物語の流れの中に置かれると全く違った角度から眺めるようで、とても新鮮に響いた。そして、呂勢さん、清治さんをはじめとする皆さんの演奏が素晴らしく、いつまでも続いて欲しいと願ったけれども、そんな願いは聞き届けられるはずもなく、終わってしまった。ああ、本当は何度でも聴きたい。


それから、今年2月の国立劇場での文楽公演で、「恋苧環」を観た時に、ふと、あの背景の書き割りの神社は、今まで春日大社だと漠然と思っていたけれど違う気がしてきて、本当は一体どこなのか、気になった。それで、まず、奈良の大神神社に行って、大神神社かどうか確かめたいと思った。

結論からいうと、あの書き割りは、大神神社ではないようだ。というのも、鳥居も灯籠も書き割りと形は似ているけど、色が違う。

書き割りでは朱塗りの鳥居に朱塗りの木製の灯籠にになっているが、大神神社の鳥居は、参拝者が目にする鳥居や灯籠は白木で、朱色のものはない。今の神社の境内の様子は必ずしも江戸時代と同じではないだろうけれども、少なくとも鳥居の色というのは、祭神が変わったりしない限り変わらないのではないかと思う。というわけで、謎はすっきりとは解決されず。

それでも、いろいろ考えているうちに、なんとなくやはりあの書き割りは、春日大社の社前ではないだろうか、という気がしてきた。

まず、道行自体は詞章を読む限り、「杉酒屋の段」の舞台だったお三輪ちゃんの家のある三輪から春日野の三笠山までの間の行程を描いたということで間違いは無いと思う。

ここで、お三輪ちゃんの家から三笠山までの、南北を走るほぼ一直線上にある有名な神社は、三輪山大神神社、布留の石上(いそのかみ)神宮、三笠山春日大社の3社だ(長谷寺もあるが、お寺なので、とりあえず候補からは除く)。この直線上には、「山の辺の道」と呼ばれる日本最古の古道のひとつがあって、作者の半二も、橘姫がこの道を通って三笠御殿に帰ったと想定したのではないかと思うので、たぶん、候補はこの3社で問題ないと思う。

そうすると話は簡単で、この3社のうち、書き割りに描かれた神奈備山と呼ぶにふさわしい円錐形の美しい稜線を持つ山をご神体としているのは、春日大社三笠山)と大神神社三輪山)。うち、鳥居が朱色なのは、春日大社ということになる。実は石上神宮には行ったことはないので、絶対に違うかといわれると、ちょっと心もとないけど、ネット上で画像を確認した限り、鳥居は白木のようだし、布留山というのがあるようだけど、山の稜線もきれいな円錐形には見えないし、ちょっと説得力に欠けるように思う。

ただ、春日大社と言い切るのにはちょっと抵抗があって、なぜかというと、書き割りに描かれている灯籠は朱塗りの木製で、石造の春日灯籠ではないからだ。春日大社は今も確かに典型的な春日灯籠は少ないけど、それでも一ノ鳥居からずっと石造の灯籠が続いていた記憶がある。

そんなことを考えながら、当時春日大社の実権を握っていた興福寺のホームページをみていたところ、「享保2年(1717)に中金堂で火事があり、その後約100年間、再建がかなわなかった。その間は、幕府からの再建の寄付金も乏しく、江戸や京都、それに大坂の生玉社などに宝物などを持ち込んで、資金を調達した。」という趣旨のことが書かれていた。

ということは、『妹背山』の初演当時の明和8年(1771)、興福寺と財源を共にしていた春日大社も、財政的に大変逼迫していたと考えて間違いないと思う。その場合、たとえば高価な石造の灯籠を売り払ったり、傷んでも修復できずに木製の灯籠に置き換えていたって、おかしくないかもしれない。まったくの想像だけど。

というようなわけで、私の中では、あの書き割りの背景は春日大社なのでは、という結論に落ちついた。道行自体は、三輪から三笠山まで移動していくので、大神神社石上神宮春日大社のどれが出てきてもおかしくはない。けれども、その中でも特に、お三輪ちゃんが求女に付けていた苧環の糸が切れてしまうという重要な場面のために、春日大社の前を背景に選んだのではないだろうか。…ここまで書いて、一瞬、春日大社の創建は「大化の改新」の後だから、やはり春日大社のはずはないかもと思ったが、「小松原の段」にはちゃんと「春日野の社頭に近き小松原」という一節があるから、時代が前後してても、この浄瑠璃の世界ではOKなんだろう、と思うことにした。ややこしや。


というわけで、その2に続きます。