文楽劇場 夏休み文楽特別公演 第2部 妹背山婦女庭訓(その2)

第2部 【名作劇場】 午後2時開演
妹背山婦女庭訓 (いもせやまおんなていきん)
 井戸替の段/杉酒屋の段/道行恋苧環
 鱶七上使の段/姫戻りの段/金殿の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2013/2597.html

第2部のメモのつづきです。

鱶七上使の段

口は、始さんと清馗さんが御簾内で語る。

奥は、津駒さんと寛治師匠。以前は津駒さんはこういう勇壮な段よりはお姫様や町娘が出てくるような段が似合うような気がしていた。けど、最近は、6月の鑑賞教室での燕三さんとの尼崎の段もそうだったけど、結構、こういう鱶七のような無骨な人物と入鹿みたいな巨悪が中心となって展開する段も、おもしろいのでした。


物語は蘇我入鹿の御殿が新たに御殿を三笠山近くに造営し、その祝いの品々が続々と届いているところから始まる。

ここで不思議に思うのは、この物語の中では、入鹿が三笠山に御殿を造営しているということだ。史実の入鹿に関して有名なエピソードといえば、当時のみやこ一帯を見下ろす甘橿丘(あまかしのおか、高市郡明日香村)に大邸宅を建て、父の家を宮門(みかど)と呼んだというものだろう。入鹿の、天皇さえも蔑(ないがし)ろにする傲慢さと野望の大きさを示すエピソードとして、多く人の印象に残っている話ではないだろうか。それなのに、この浄瑠璃の中では、入鹿の御殿は、甘橿丘ではなく三笠山に玉殿を造営する。

それでふと思い立って、「続日本絵巻大成14 春日権現験記絵 上」(中央公論社小松茂美編)を見てみた。というのも、以前、「春日権現験記絵」に『妹背山婦女庭訓』の発想のヒントになるようなものを見つけたことがあったので、三笠山に関することなら、何かヒントがあるかもしれないと思ったのだ。

その以前見つけたヒントというのは、橘姫のことだ。数年前、春日大社の宝物殿で、たまたま「春日権現験記絵」の模本が展示してあったので眺めていところ、その冒頭に、「橘氏の女(むすめ)」という人が出てきた。春日明神は藤原氏氏神だが、その縁起を描いた絵巻の冒頭に、「橘氏の女」を名乗る十二単姿の姫が出てきて、その女人が藤原氏の人々に対して託宣をするという場面から始まるのだ。実はこの「橘氏の女」は、春日明神の化身なのである。そのことに、とても興味を引かれた。橘氏といえば、藤原淡海公の妻、県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)が橘の姓を賜ったことを思い出す。橘三千代藤原氏繁栄の基礎を作った淡海公の妻であり、聖武天皇の后、光明皇后の母として権勢を振るった夫人ゆえに、藤原氏の守護神となった春日明神の化身の「橘氏の女」という人物が生まれたのかもしれない。

そして、「橘氏の女」は、『妹背山婦女庭訓』の中に出てくる橘姫のことも思い出させる。橘姫という名前は、単に「橘」という大内裏の紫宸殿の前に咲く花の、香り高い高貴なイメージが「姫」にふさわしいからと付けられた名だいうだけでなく、不比等の妻の一人、橘三千代からの連想もあるのだろう。そして、淡海公にはさらに別の妻がいて、それは「蘇我武羅自古の女(むすめ)」という人だ。不比等とこの夫人の間に生まれたのが、お能の「海士」に出てくる藤原房前だ。そのような史実が、橘姫が蘇我入鹿の妹で、求馬と夫婦になるという設定に反映されているのかもしれない。

そんなことがあったので、改めて、ヒントを求めて「春日権現験記絵」を眺めてみると、第二段に興味深い詞がある。

藤原弘光という人が大和川の北の辺りをみてみると、夜な夜な光る場所がある。不思議に思ってよくよく見ると、竹林の中、高貴な女人がそこにいて、「ここは子孫が繁栄することになる場所です」とおっしゃる。そこで、弘光が、「あなたは一体、どういった方で、どこからいらっしゃったのですか。」と問う。すると、その高貴な女人は、

我が屋戸は都の南鹿の住む
三笠の山の浮き雲の宮

と詠うや否や、かき消すように見えなくなってしまう。その消えてしまった高貴な女人は、実は、「橘氏の女(むすめ)」なのだ。

このエピソードを手がかりにして、なぜ入鹿の御殿が三笠山にあるのかを想像してみると、ひょっとして、蘇我入鹿の妹、橘姫に仮託されている「橘氏の女」が、「三笠の山の浮き雲の宮」に住むからなのかもしれないと考えてみたくなる。またその御殿の様子について、「春日権現験記絵」には、橘氏の女が、その場所が「家高く竹繁くして」竹林園に似るからここを住処と定めると託宣する場面が描かれている。竹林園というのは、前後の文脈から判断して、中国の漢の時代の梁の孝王が造営した竹の生い茂る竹林の園のことを指しているようだ。『妹背山婦女庭訓』の「鱶七上使の段」では、三笠山の御殿を秦の始皇帝阿房宮に見立てており、やはり、中国の皇帝の壮麗な御殿にたとえている。どうも、入鹿の御殿が三笠山にあるのは、「春日権現験記絵」の影響かも、と思わせるものがある。

しかし、それでもなぜ、作者の近松半二達は、入鹿の住居を有名な史実通り甘橿丘にせず、三笠山の麓にしたのかという疑問は残る。考えうる答えは、『妹背山婦女庭訓』が、藤原氏・春日野にまつわる伝承のアナロジーを本筋として出来上がった物語だからだということではないだろうか。妹山背山の段のストーリーだけは、その例外となってしまうが、それ以外については、大化の改新や釆女の猿沢池入水の挿話、興福寺法相宗菩提院の鹿殺しをした13才の三作という少年を石子詰めにしたという伝説のある十三鐘(じゅうさんがね)の伝承、橘姫の設定など。また、お三輪ちゃんが、鱶七に脇腹を刺されてその血が求馬の入鹿討伐の計略で重要は役割を果たすのと引き替えに自分の命を失うというのは、お能の「海士(観世流龍以外は「海人」)」を思い出させる。

お能の「海士」は、讃岐国志度寺の「志度寺縁起」(正確には「讃州志度道場縁起」*「新編香川叢書 文芸編」(編集;香川県教育委員会、発行:新編香川叢書観刊行企画委員会)を典拠とした物語だ。志度寺は、天武天皇十年に藤原淡海公が寺の棟梁に加わったとしており、藤原氏藤原氏菩提寺である興福寺に縁の深いお寺だ。

その縁起のあらすじは長くなってしまうが、だいたい次のようなものだ。

藤原淡海公の妹は、唐の高宗皇帝の后となり、その後、菩提寺興福寺に珠の中に仏像がありそれがどこから見ても正面を向いているという「面向不背」の珠を送ったが、その珠を乗せた唐船は航行の途上で暴風雨に遭遇し、珠は讃岐国房前(ふささき)の浦にある竜宮にとられてしまった。そのことを大変惜しんだ淡海公は、身をやつして房前の浦に住む海女の娘と契りを結び、三年間、その漁村で暮らし、子も成した。

ある日、淡海公は海女の妻に、「過去の因果があって夫婦となって三年が過ぎた。私は本当は藤原不比等で、妹が唐から送ってきた宝珠を龍神から取り戻したくてここに来たのだのだが、奪い取ろうにも為す術がない。あなたは海に入って自由に泳ぎ回ることができる。どうしたらよかろうか。」と、打ち明ける。

すると海女は、「貴賤の違いがあっても男女は同じで、夫婦にもなりました。しかし、卑しい身ながら、あなたが口に出さない何かがあると思っていました。三年も一緒に居てくださり、子まで生まれました。我が身がどうなろうと先の世の契りですから、どうとも思いません。珠をとって来たら、命はないでしょう。そのときは、必ず菩提を弔ってくれないでしょうか。そして、この子を嫡子としていただけないでしょうか」というと、膝の上の赤子に乳を含ませ、涙を流した。不比等は、「この縁は深く、決して忘れることは無いし、子供についても無論そうするつもりで大事に育てよう。あなたも御仏の良き縁を得て成仏することは間違いない。」と言った。

そして海女は竜宮に行って珠をとると、龍王が怒って海女の四肢を切ってしまった。海女はたちまち命を失った。小島では、海女を引き上げてみると、四肢がなく絶命していた。不比等は珠を得ることが出来ず、妻も亡くしてしまい、嘆き悲しむこと一通りではなかった。しかし、泣きながら乳の下を見ると、横に大きな傷跡があり、そこを押し広げると珠が入っていた。不比等は、これを見て、海女の悟りが深かったから、珠を得たのは人間業ではなく、竜女に生まれ変わったから為し得たことなのだと思い、嬉しさと悲しさが半ばする心境だった。そして不比等は、この珠をとった小島を眞珠嶋(しんじゅじま)と呼ぶこととし、その嶋の坤方(ひつじさる、南西)の海浜の高洲に小さな御堂を建て、海女の亡骸を奉納し、後に死度道場と呼ばれるようになった。また、藤原氏はこの珠のおかげで繁栄を極めたが、この房前浦の龍王をその珠の守護神にするために、猿沢の池に勧請した。

かなり長くなってしまったが、この志度寺縁起に出てくる海女のお話は、お三輪ちゃんの悲恋を彷彿とさせるに足るお話のように思う。

志度寺縁起」にある目的とは異なれど、藤原不比等は入鹿討伐という計略をもって、其原求馬と名を変え、烏帽子屋に身をやつして、お三輪ちゃんと契りを交わしたのだ。お三輪ちゃんは、たちまち恋におちてしまう。ところが、最後には、計略通り、お三輪ちゃんは鱶七に刺されてしまう。そのとき、鱶七に求馬の正体とその計略を告げられ、お三輪ちゃんは、

なう冥加なや。勿体なや。いかなる縁で賤(しず)の女がさうしたお方と暫しでも、枕かはした身の果報、あなたのお為になる事なら、死んでも嬉しい、忝ない。

と、まさに、志度寺縁起の海女と同じ感慨を語る。お三輪ちゃんに海女の境遇を重ねたくなる部分だ。

そして、お三輪ちゃんを差した金輪五郎が、なぜ、鱶七という名を名乗ったのかも、お能の「海女」とこじつけたくなるところがある。

鱶(ふか)というのは、大型の鮫に対する西日本での呼び名だそうだ。お能の「海女」では、竜宮で珠を守護していたのが、八大龍王の他、「悪魚鰐」だったのだ。「悪魚」というのは何かよくわからないけど、おそらく獰猛な魚ということだろう。そして「鰐」というのは、今、動物園や水族館にいるワニではなく、鮫の古名だ。つまり、竜宮で藤原氏の宝物である珠を守護していたのは八大龍王以外に眷属として鰐=鮫=鱶がいたのだ。

金輪五郎は、低い身分の使者に身をやつしているが、そこが、八大龍王の眷属である鱶に通じ、鱶七という名に変えたことになっているのかもしれない。そして、金輪五郎は、藤原氏の計略の成就のために、お三輪ちゃんを刺し殺すことになるのだ。


姫戻りの段

橘姫が入鹿の御殿に戻ると、官女達が甲斐甲斐しく橘姫を迎えにくる。一方、苧環の糸に引かれて入鹿の御殿の前まで来た求馬は、たちまち官女達につかまる。官女達は、求馬を見るや否や、「七年物の恋人様か」と言うので、橘姫の恋は七年越しということなのかもしれない。

官女達がいなくなると、求馬は、橘姫の正体をこの時、初めて知るようだ。求馬の正体を知っている橘姫を一度は殺そうとするが、それを道理と受け入れる橘姫の心底を見届ける。そして、求馬は、橘姫に、入鹿の盗みとった三種の神器の一つ、十握の御劔を奪い返せば、二世の契りを交わそうという。自分で手を下すのではなく、自分の恋人に手を下させるのは、志度寺縁起で海女に竜宮に珠を取りに行かせる不比等にも通じる流れのように思える。


金殿の段

杉酒屋がついたことと、咲師匠と燕三さんと勘十郎さんのお三輪ちゃんの嫉妬と憤怒に半狂乱となる姿、事切れる前の求馬を想う純粋な姿に圧倒されたことで、やっと、半二達がお三輪ちゃんの物語で描きたかったことが、少しだけ分かって来た気がしました。

お三輪ちゃんが求馬につけた糸は「道行恋苧環」の最後で切れてしまったが、糸が切れた三笠山のほど近い場所で、あたりに家といえば、入鹿の御殿しかなかったようだ。お三輪ちゃんは、その御殿に入っていく。

このとき、お三輪ちゃんは「エヽこの緒環の糸めが切れくさったばかりで道からとんと見失うた。」と独り言つ。あの「杉酒屋の段」での、おっとりとした純情なお三輪ちゃんからの変貌ぶりに、見ている方は改めて驚くことになる。しかし求馬と橘姫は、まったくお三輪ちゃんのことなど眼中になく、お三輪ちゃんにとっては、腹立たしい、嫉妬心を燃やしたくなるような状況なのだ。なんとしても、二人を見失う訳にはいかない。

豆腐の御用(勘寿さん)で和んだ後、求馬と橘姫が内証の祝言をすると聞き、お三輪ちゃんは、ますます怒りを募らせるが、一方で、見たこともないような大きな御殿がお三輪ちゃんを無意識のうちに気後れをさせ、不安をかき立てるのか、はしたない者だと言われて嫌われたらどうしようと弱気にもなり、お三輪ちゃんの心は千々に乱れる。


そんな状況で、お三輪ちゃんは、偶然通りかかった官女達に捕まってしまう。官女達はお三輪ちゃんが橘姫と求馬の跡を追ってきた橘姫の恋仇と気づき、お三輪ちゃんをさんざんになぶることにする。

この官女達がお三輪ちゃんをなぶりものにする様子は、「後妻打ち」という言葉を思い出させる。「後妻打ち」というのは、本妻が後妻(うわなり)を嫉妬して打ちたたく因習のことで、昔は先妻と近しい者が集団で後妻に乱暴を働くというようなことがあったらしい。お能では『源氏物語』の六条御息所が病に伏す源氏の本妻、葵上に生霊となって襲いかかる「葵上」が後妻打ちの話として有名だし、他に「三山」という曲で、大和国三山の香久山を夫、畝傍山を桜子、耳成山(みみなしやま)を桂子と女とたとえて、桜子に夫が靡いたからと桜子を打つ桂子の話がある。

お能では、「葵上」も「三山」も、後妻打ちをした先妻が後妻に攻撃をしても結局、先妻は、若くて美しく夫の愛情を勝ち得た後妻に対しての狂おしい恨みを晴らそうとするうちに、その煩悩こそが御仏との機縁となり、ワキの僧の回向により成仏していくという筋立てになっている。お三輪ちゃんの場合は、むしろ彼女の方が後妻打ちをしにいったように思えるが、「姫戻りの段」では、官女達が求馬のことを「七年物の恋人様か」と言っているし、求馬と橘姫が内証の祝言をするくらいだから、お三輪ちゃんのことをなぶったのかもしれない。

官女達は、お三輪ちゃんに無理矢理、御酒宴の酌の真似をさせたり、馬子唄を謡わせたり、さんざん嘲笑する。所詮、お三輪ちゃんに祝言の場を見せることなど最初から頭にない官女達は、気が済むだけなぶると、「サア/\これで姫様の悋気の名代納った。」と、そのまま去っていく。
お三輪ちゃんは、恋人をとられた上になぶりものにされ、恥をかかされ、袖を噛むどころか喰い裂き、乱れ髪に、口元は食いしばり、身を震わせ、全身に嫉妬と恨みと怒りをにじませながら、求馬を探し歩く。

そこに現れるのが、鱶七で、お三輪ちゃんが「そこ退きゃ」と鱶七の脇をすり抜けようとしたお三輪ちゃんの裾を、鱶七は踏みつけると、お三輪ちゃんのたぶさを掴んで、氷の刃をお三輪ちゃんの脇腹にぐっと突き刺してしまう。

お三輪ちゃんは、刺されながらも、

さては姫が言い付けぢゃな。エヽむごたらしい。恨みはこちからあるものを却ってそちから殺さする。心は鬼か蛇かいやい。オヽ殺さば殺せ。一念の生きはり死にかはり、付きまとうてこの恨み晴らさいで置かうか。思い知れよ。

と、怨念の固まりのようになって叫ぶ。

この言葉は「葵上」の六条御息所の生霊の恨みつらみの詞を連想させる。

六条御息所の生霊は、病に伏す源氏の本妻の葵上に対して、

今の恨みは有りし報(むくい)。嗔意(しんい)の炎は身を焦がす。思い知らずや。思い知れ。恨めしの心や。あら恨めしの心や。人の恨み深くし、憂き音に泣かせ給ふとも。生きてこの世にましまさば、水闇(みずくら)き沢辺の蛍の影よりも。光る君とぞ契らん。

と語る。

「私の今の恨みは、かつてのあなたの所業から起こった報いなのですよ。燃え上がる炎のような激しい怒りや憎しみが私の身を焦がすのです。これでも思い知らないのですか。思い知りなさい。恨めしい心よ。私の恨みは深く、あなたがこの世に生きている限り、いくらあなたが泣こうと、私は暗い闇の沢辺から蛍の影から現れ、光源氏と契ることでしょう。」というのだ。

このとき六条御息所は、まだ「小面」という若く美しい女性の少し口元が微笑んだような、冷たい笑みを見せるような、曰く言い難い表情の面をしているが、すぐに中入りして、「般若」の面をつけて現れる。「般若」の面とは、半分「蛇」であり半分「菩薩」なのだという。恨みや怒りから、半分、蛇体になりかけながら、蛇体や鬼になりきっておらず、そのような自分を恥じ、悔いる気持ちが心のどこかに残っている。だからこそ、霊験あらたかな僧侶による回向によって、成仏することが出来る。

お三輪ちゃんも、この時、まさに蛇体になりかけていたと思う。しかし、求馬を愛する気持ちが心に残っていたからこそ、鬼になりきらずにいることが出来た。日本の説話の中では一度、鬼になってしまったら、もう二度と人間に戻ることが出来ないのだ。

お三輪ちゃんの場合は、鱶七の、

女悦べ。それでこそ天晴れ高家の北の方。命捨てたる故により、なんぢが思ふ御方の手柄となり入鹿を亡すてだての一つ。ホヽウ出かしたなァ。

という詞で始まる謎解きによって、お三輪ちゃんの死が無駄でないことを知る。

室町時代の人は、回向により成仏できると信じていたから、「葵上」の後場では、横川の小聖という霊験あらたかな僧侶の力で六条御息所の生霊は成仏することが出来たが、近松半二等がこの浄瑠璃を書いた江戸時代後期の人々は、もはや念仏で成仏できるとは信じることができなかったのだろう。だから、鱶七は回向をする代わりに、お三輪ちゃんの死が、とりもなおさず求馬が成し得ようとしていた大計の要なのだと語り聞かせる。

お三輪ちゃんは、鱶七実ハ金輪五郎の詞を聞き、

なう冥加なや。勿体なや。いかなる縁で賤(しず)の女がさうしたお方と暫しでも、枕かはした身の果報、あなたのお為になる事なら、死んでも嬉しい、忝ない。

と、怨念と憤怒に凝り固まった心を和らげる。

お能の成立した中世の時代を振り返ると、その当時の人々は「煩悩即菩提」という考えを特に重視し、悟りを妨げる煩悩は、実は菩提(=悟り)と何ら変わることがない(相即不二)と考えた。ゆえに「葵上」の六条御息所は、蛇体になりかけながら、悟りをひらくという<般若(半蛇)>になったのだ。お能では、「道成寺」のように蛇体になりきってしまうものよりも、般若の能こそを人の心を深く表現するものとして重視しているという。

この『妹背山婦女庭訓』を書いた半二達も、そのような蛇体になりきらない、煩悩の極みまで行きつきそうになりながらも、ぎりぎりのところでその煩悩を反転させ、志度寺縁起の海女のように、恨みを越えて夫や子を慈しむ、深い恩愛の情を持つことのできる女性として、お三輪ちゃんを描きたかったのではないだろうか。

それに、鱶七の「爪黒の鹿の血汐と疑着の相ある女の生血」云々の下りを聞くと、私のような屁理屈言いは、つい、爪黒の鹿の血汐を採ったのは、年の改まる前だったのに、どうして七夕になってからやっと得た生血と混ぜることが出来るだろう。鹿の血の方はとっくに真っ黒に固まってるわ!と思ってしまう。もし、半二達が巨悪の入鹿を打つ鎌足・淡海というような流れを重視していたとすれば、このような仕掛け上の不首尾は見つかった時点で如何様にも修正すると思う。なのに、詞章にそのまま残っているということは、やはり、入鹿対鎌足・淡海の巨悪討伐という筋よりも、遙かに、お三輪ちゃんの怒り狂わんばかりの姿とそれを乗り越えた求馬への純粋な愛情というものを描くことに重点をおいて、その設定や表現に腐心していたということなのではないかと思う。


お三輪ちゃんは、求馬に対して抱いていた愛情を取り戻すと、

忝ないとはいふものヽいま一度、どうぞお顔が拝みたい、たとえこの世の縁薄くと、未来は添ふて給はれ。

(お三輪ちゃんが手に持つ苧環の)この主様には逢はれぬか、どうぞ尋ねて求馬様もう目が見えぬ。なつかしい。恋しや/\。

とつぶやくと事切れてしまう。お三輪ちゃんは、最期は、「杉酒屋の段」で登場した、ほおずきを大事そうに持ちながら歩く、あの純情で一途なお三輪ちゃんに戻って、空しくなった。その様子を観たとき、初めて、お三輪ちゃん悲恋の物語が、とても愛おしく思えた。