国立劇場 江戸ゆかりの家の芸 「成田屋」

芸の真髄シリーズ第七回 江戸ゆかりの家の芸 「成田屋
一、 河東節 助六 市川海老蔵
二、 義太夫 妹背山婦女庭訓 道行恋苧環 市川ぼたん
三、 新歌舞伎十八番の内 長唄 春興鏡獅子 市川海老蔵
http://www.nhk-ep.co.jp/geinoshinzui/

呂勢さん清治師匠の「恋苧環」を聴けるし、市川ぼたんさんを観ることが出来るということで、馳せ参じました。

いつもながら素晴らしい清治師匠の道行チームで、感動。あくまで曲そのものを重視して、踊りのリズムと演奏のタイミングが合わなくても、全然合わせに行かないところが、改めて竹本とは違うと思いました。清治師匠がしきりに汗を拭っていらっしゃたし、呂勢さんも喉が本調子ではいらっしゃらなかったようで、お二人とも、ちょっとつらそう。皆様、この酷暑にお忙しくされていて、秋までノンストップで大変です…。


二、 義太夫 妹背山婦女庭訓 道行恋苧環 市川ぼたん

ぎりぎりに劇場に着いて何とか席に付くと、まだ開いていない幕の中の上手(かみて)側から三味線のチューニングの音が聞こえてきた。三味線の音からして本数は一、二本ではないようなので、ちょっと嬉しくなる。柝が鳴ると、下手(しもて)側から幕が開いた。


浅葱幕で舞台は覆われている。上手側に文楽座の人たちが見える。二段の山台が斜めに設置されていて、前段に三味線、後段に太夫が並ぶが、並びがいつもと違った。三味線は真ん中にシンの清治師匠、客席方向に清介さん、清軌さん、清治さんの奥に清志郎さん、清丈さん。後段は、シンが呂勢さんで、客席側に芳穂さん、睦さん、呂勢さんの奥に咲甫さん、希さん。

大劇場は広すぎるのか、それとも湿気が多い日だったから音の反響が悪かったのか、三味線も語りも残響が小劇場で聴くより短くて、演奏も大変そう。さらにテンポもいつもより遅いので最初はちょっと違和感。でも途中で慣れた。大劇場に比べると、文楽劇場や小劇場は、ほとんどの席で、聴いていて気持ち良い音響になっている。改めて、文楽劇場国立劇場小劇場は音響がよく設計されているなあと思う。


浅葱幕が切って落とされると、橘姫(尾上紫さん)と求女(花柳寿楽さん)がいるのだが、何より、そこに現れた背景の書き割りが文楽のものとは違うので、そっちに目が釘付けとなってしまった。今年の2月の文楽公演で「道行 恋苧環」を観て、ふとあの書き割りの場所はどこなんだろうと疑問に思った。結局、先日、大阪の文楽夏休み特別公演で再度「恋苧環」を観て、自分の中では、あの書き割りは春日大社の社前の風景だろうという結論に落ち着いた。ところが、舞踊は恐らく歌舞伎に準じているのだと想像するけれども、その書き割りは、文楽とは別のものだった。


この日の書き割りはどうなっていたかというと、中央に朱塗りの木製の灯籠が描かれていて、その灯籠から下手側に向かって朱塗りの瑞垣が続いている。上手側には、お三輪ちゃんが走り寄ってくる小道がある。また、上手の所々に薄がおかれているほか、描かれている草木は、杉の木、紅葉した木々など。紅葉した木々は桜の紅葉だろうか。秋らしい雰囲気を出しているが、「恋苧環の段」の直前の「杉酒屋の段」から、この道行は七夕の夜ってことが知られるので、ちょっと頑張って季節を先取りし過ぎちゃっている感もある。

さらに遠景には中央に円錐形に近い大きな山があり、下手にはそれに連なる小さめの山があり、横雲がたなびいている。多分、大きい山が三笠山で小さい方が若草山なのだろう。そして横雲は、詞章の終わりの方にある「花より白む横雲のたなびきわたりあり/\と」を表しているんだろう。近景は平地で春日野ということなのかもしれない。また、これはとても大きな違いだけど、文楽の書き割りは夜更けのように見えるが、この書き割りは、朝ぼらけという感じ。


一方の先日観た文楽の書き割りは、遠景に三笠山と思われる山があり、近景中央には春日大社の朱塗りの鳥居と、明かりの点った朱塗りの木製の灯籠が描かれている(今公演の舞踊の書き割りには鳥居は描かれていない)。

それでも、この歌舞伎に準じているのであろうと思われる踊りの書き割りの中の神社も、おそらく春日大社だろうなと感じた。というのも、「春日権現験記絵」という、鎌倉時代の有名な絵師、高階隆兼(たかしなたかかね)の書いた絵巻があるのだが、そこ描かれている春日大社も、やはり朱塗りの瑞垣が印象的だ。「春日権現験記絵」が描かれた鎌倉時代は、春日大社の敷地は朱塗りの瑞垣で囲われていたのだろう。そして、伝統的な日本画の描き方というのは、和歌の本歌取りのように、過去の名画の模写をアレンジして描くものなので、今公演の書き割りの春日大社の方が、むしろ伝統的な描き方の春日大社の社前だと思う。


そんなことを考えていると、文楽の書き割りについても、少し興味深い妄想が思い浮かんできた。

文楽の書き割りは中央に三笠山があって、鳥居も中央にあり、そこに遠近法のように朱塗りの灯籠が消失点に沿って並んでいって奥の方はぼやけているという形だ。紅葉などはなく、夜更けの中にぼんやりと深い緑が生い茂る様子が感じられる。伝統的な日本画にそういう構図の絵が無いとは言わないけれども、どちらかというと、江戸時代の伝統的な絵師には、あの絵のような西洋画の影響を受けた構図の絵を描くという発想は、あまりないと思う。

『妹背山婦女庭訓』は、近松半二等の合作なので当然、浄瑠璃の方が先に出来、後に歌舞伎に移された。しかし、ここで、今の文楽の書き割り自体は、歌舞伎の書き割りより後に出来たと想像してみたらどうだろう?ちょっと楽しいことが妄想できるかもしれない。


その場合、文楽の書き割りを描く絵師は、歌舞伎の書き割りを参考にしただろう。その時、まず舞台中央から下手側に延びる春日大社の瑞垣(おそらく参道の瑞垣)の位置が問題になったに違いない。というのも、今公演のお三輪ちゃんを見る限り、歌舞伎の恋苧環の道行は、上手側から来て、花道の方に抜けて行き、春日大社の前は通り過ぎるだけになっている。ところが、文楽は花道がないので、瑞垣を上手側に延ばしても、下手側に延ばしても、どっちにしても三人が春日大社の中から来たか、春日大社の中に入っていくように見えてしまい、不自然だ。

そこで、文楽では春日大社を舞台中央奥に想定し、そこを下手から上手へ去っていく道行の三人という風に場面設定したのではないだろうか。そうすると、遠近法で奥の境内に続く参道というのを描くことになる。それで、歌舞伎には描かれていない朱塗りの鳥居を描き、道なりに続く灯籠を配することで、春日大社の社前の雰囲気を出そうとしたのではないだろうか。

また、文楽である以上、浄瑠璃の詞章に忠実に、紅葉は止めて七夕の頃の風景とし、時間も夜更けにしたのではないだろうか。時間に関しては、浄瑠璃の詞章で道行のリアルタイムの時間が分かるのは、「歩むに暗き」という言葉や「星の光に顔と顔」などで、さらに夜にまつわる縁語を多用して、作者は道行全体に夜の雰囲気を醸し出している。そして、詞章の最後になってやっと、「花より白む横雲の たなびき渡りあり/\と」という詞でやっとあけぼのになる。そうなると、背景は夜の方がふさわしい。


そんなことを考えているうちに、『妹背山婦女庭訓』の初演当時の舞台の構造はどんなものだったのだろうと考えてしまった。

というのも、先日、岩波現代文庫の『文楽の歴史』(倉田善弘)という本を眺めていたら、「三人遣いの一般化は文化以降、あるいはさらに遅れて、天保の改革以降になるかもしれない。」(P.95-96)という記述を見たことを思い出したからだ。文化年間は1804年〜1818年、天保の改革は1841年〜1843年なので、19世紀前半ぐらいということになろうか。一方、『妹背山婦女庭訓』の初演は明和8年(1771)、その想定でいけば、一人遣いの時期に相当する。倉田氏がその時期、一人遣いであったと考える理由は本に色々書かれており、ここでは省略するけれども、半信半疑ながら、確かに私自身も不思議に思う点はあった。というのも、今まで見たことのある浮世絵や大和絵に出てくる人形遣いの図は、圧倒的に頭の上で操る一人遣いで、三人遣いの絵は、ほとんど見たことがなく、そのことが疑問だったのだ。もし、『妹背山婦女庭訓』が一人遣いで初演されたのなら、一人遣いの人形は小さいので、劇場も当然、一人遣い用の舞台を持つことになり、今の舞台の構造とは大きく異る可能性がある。

それで改めて、文楽の恋苧環の書き割りのことを考えてみると、あの書き割りは、江戸時代の伝統的な技法で描かれておらず、西洋画の影響を感じさせられ、初演からあの書き割りだったとは考えにくい。

それでは、もし初演のままでないとしたら、何故、初演当時の書き割りが踏襲されなかったのだろうか。


考えられるのは、一人遣いか三人遣いかは別として、当時の舞台は、今の手すりに当たる部分が人形遣いの胸元ぐらいまであり、人形は40〜50cm前後の大きさの人形を人形遣いの頭上近くで操る方法だったからではないだろうか、ということだ。そうすると、屋台はあった方が雰囲気が出るが、縮尺的に、細密な背景画はあってもあまり意味がないので、無かったか、あったとしても余程、簡素なものだったのではないだろうか。

去年見た東二口村の文弥人形はちょうど40〜50cmくらいの大きさの一人遣いの人形だった。そして、その舞台(『出世景清』の一部)では、屋台はあったが、背景画は無かったように思う。というか、そもそも、事前レクチャーで伺った話では、昔は舞台の真ん中に松の木だか杉の木だかが鎮座ましまし(多分、お能の「影向の松」的な依り代なのだろう)、人形の芝居がよく見えなかったのだそうだ。今はその木は舞台の脇に位置を移している。人形芝居に書き割りが必須という発想があれば、多分、舞台中央に木を据えたりすることはないのではないだろうか。


それ以外にも、以前トーハクで見た人形遣いに見立てた美人画も、今思い出すとものすごく気になる。稲垣つる女という女性絵師の書いた「人形遣図」という絵で、美人の娘が頭の上で虚無僧姿で尺八を吹く人形を遣っている様子を描いている。この虚無僧姿の人形が誰かといえば、間違いなく『仮名手本忠臣蔵』十一段目の加古川本蔵だろう。もっとマニアックな演目のマニアックな登場人物という可能性が絶対にないとは言わないけど、何に見立てたのか分からない見立て程つまらないものはないので、ここは誰もが知る有名な登場人物と考えるのが妥当だろう。

トーハクのwebページの説明によれば、つる女の活動期間は、明和年間(1764〜1772)頃とあり、大坂で活躍したとある。『妹背山婦女庭訓』の初演は明和8年(1771)、まさに明和年間だ。つる女は絵以外の情報がないそうで、その彼女が明和年間に活動したということになっているのであれば、この絵も明和年間の作品だろう。そして、彼女が大坂で活躍したのであれば、「人形遣図」を描くにあたって、人形浄瑠璃を見たことがないということはあり得ないだろう。となると、見立て絵という絵の性質から判断して、明和年間当時、義太夫節人形遣いの姿として誰もが思い起こす典型的イメージは、あのように、頭上に一人遣いの人形を掲げた姿だったのではないだろうか。

そして、明和年間の大坂では、つる女の絵にあるとおり、頭上近くで遣う形の人形が主流だったとすれば、書き割りはあったとしても簡素なものだろう。となると、人形が今の大きさになり、劇場の舞台も今のものに近くなった時に初めて、文楽の人たちも恋苧環の場面の書き割りをどうするかという問題に直面したのではないだろうか。そして、歌舞伎の書き割りと浄瑠璃の詞章を参考にして出来上がったのが、あの絵なのではないだろうか。


…などという妄想を、「恋苧環」の上演中、書き割りと文楽座の人たちを交互に見ながら繰り広げ、肝心の踊りの方はちゃんと見ることが出来なかった。残念。

とはいえ、曲の最後の市川ぼたんさんの所作は興味深かった。市川ぼたんさんのお三輪ちゃんは、花道の七三で自分の持つ苧環の糸が切れたのを見つけると、苧環に当たり付けるように力任せにひっぱたいて苧環を回し、「おのれ!」といわんばかりに鳥屋口を睨むと、花道を一気に去っていく。文楽では、この場面では、お三輪ちゃんには、糸が切れてしまったことに対する不吉な予感に対する恐れや、二人を見失うのではという焦燥感を感じるが、あのようなむき出しの怒りのようなものはあまり感じない。色々な演じ方があるのだなと思った。やはり、たまには歌舞伎も観た方が良いのかも。


三、 新歌舞伎十八番の内 長唄 春興鏡獅子 市川海老蔵
大奥では鏡開きの前に鏡曳きという行事をすることになっている。そこで披露する舞について、お殿様は今年はお小姓の弥生ちゃんの舞をご所望とか。奥女中達が、口に手を当てて「オホホホホ…」とか言いながら、いやがる弥生ちゃんをお座敷に引っ張ってくると、襖を閉めてしまう。弥生ちゃんは仕方なく、覚悟を決めて舞い始めるが…という曲。

前場の踊りで終われば、お殿様の弥生ちゃんに対する覚えも目出度く、弥生ちゃんはその後、間違いなく大抜擢され、末は政岡かという道も開けたかもしれないと思うのですが、獅子の精に乗り移られ、後場ではマジで獅子さながらになってしまった弥生ちゃん。その後、お殿様の覚えや城内での立場は一体どうなってしまったのでしょうか?

弥生ちゃんの「だから最初っからイヤだっつったじゃん!!!」という地団太が聞こえてきそうです…?(うそです)

胡蝶の二人が無茶苦茶、上手かった。


踊りが終わると、これ以上無いくらいの盛大な拍手で、ああそうだ、これは成田屋ファンのお祭りだったのだと、悟りました。結構苛烈なチケット争奪戦だったのに、成田屋ファンの席を一席奪って、文楽座の演奏を聴きにいってしまいました。申し訳ない。でも、私も文楽のファンなので、どうぞ許して。