国立劇場小劇場 文楽9月公演(その1)

竹本義太夫三〇〇回忌記念 通し狂言 伊賀越道中双六 (いがごえどうちゅうすごろく)<第一部>11時開演
    和田行家屋敷の段
    円覚寺の段
    唐木政右衛門屋敷の段
    誉田家大広間の段
    沼津里の段
    平作内の段
    千本松原の段<第二部>4時30分開演
    藤川新関の段 
      引抜き 寿柱立万歳
    竹藪の段
    岡崎の段
    伏見北国屋の段
    伊賀上野敵討の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2013/9106.html

半二の絶筆であるという『伊賀越道中双六』の通し。「沼津」以外の段は、今回、初めて観た。朝11時開演の「和田行家屋敷の段」から「伊賀上野敵討の段」の終わる夜9時近くまで観て、この物語は、半二の浄瑠璃に対する愛のあふれた、「浄瑠璃へのオマージュ」のようだと感じた。


『伊賀越』を観ていると、場面場面で、別の浄瑠璃を思い出す。たとえば、「唐木政右衛門屋敷の段」で政右衛門が心に決意したことを隠して、何の断りもなくお谷を離縁して後妻をめとろうとする姿を観ていると、ふと『仮名手本忠臣蔵』七段目の放蕩三昧の日々を送るように見せかけて敵討ちの時節を待つ由良之助を思い出した。また、「沼津」の、貧しくとも人の良さそうな平作の様子に『新版歌祭文』の「野崎村の段」の久作や、十兵衛が秘薬の印籠と十兵衛の産みの親のことが書かれた書き付けを残して去った後、平作が十兵衛を追いかけ自害する姿に『義経千本桜』の「すしやの段」の権太を思い出したりもする。「藤川新関の段」では、志津馬が関所を手形無しで通行しようとして茶屋の娘お袖ちゃんに近づく様子に『妹背山婦女庭訓』の求馬とお三輪ちゃんを、「岡崎の段」で吹雪の中、軒先で凍えるお谷の姿には『奥州安達原』の「袖萩祭文」や『源氏烏帽子折』の常盤御前が牛若丸達を連れて吹雪の中をさまよう様子を重ねたくなってしまうし、志津馬の正体を知ったお袖ちゃんは、野崎村のおみっちゃんのようだ。

これらははっきりと本歌取りをしているわけではないが、『伊賀越』のそれぞれ場面や要所要所の台詞が演じられるたびに、なにがしかの浄瑠璃を思い起こさずにはおれない。半二が亡くなった状況が分かっているのかどうか不勉強故に分からないが、もし半二が『伊賀越』を書きながら体調の不安を抱え、自分の絶筆になる可能性が高いだろうと覚悟していたとしたなら、『伊賀越』を、このような作品に仕上げたことの意味を考えてみたくなる。

特に、この『伊賀越』の作風と並木宗輔の絶筆だと言われる『一谷嫩軍記』とを比べてみると、二人の個性の違いを改めて感じてしまう。

宗輔はその絶筆においてさえ緊迫した場面展開の続く、攻撃的に筆を押し進める作風を崩さなかった。「熊谷陣屋の段」の熊谷の制札の見得の後の義経への申し立てや弥陀六の石塔建立の述懐のくだりは、まるで、宗輔が熊谷や弥陀六に託して自分の人生の是非を神仏に問うている、心の叫びのようにさえ思われる。

一方、半二の『伊賀越』は、宗輔のような厳しさよりも、長年浄瑠璃作者として格闘してきた浄瑠璃への抑え難い愛惜の情を強く感じる。きっと半二の頭の中や筆を持つ指先には、過去の様々な浄瑠璃の名場面や登場人物の人物造形、台詞が深く深く染み着いていているのだろう。そして、人生最期の作品を執筆するに当たって、彼の考える本当に浄瑠璃らしい浄瑠璃ーー敵討ちや刀の詮議、実ハ実ハでひっくり返されるどんでん返し、親子の名乗りを出来ずに今生の別れをする親子、在所の娘の報われない恋、忠義の為に自らの子を殺さなければならない親 etc.ーーを、描いてみたかったのではないだろうか。

途中からそんなことを考えながら観ていたので、最後まで観終えたときは、半二の最期を看取ったような気分になってしまったが、同時に、半二の浄瑠璃に対する限りない愛情に、心が温かくなった。そして、初演から200年以上経った今でも『伊賀越』は面白く、当時の人々とその楽しさを共有できることを、とても幸せに思った。


また、このような感慨を持った一方で、不思議に思ったこともある。それは、一つの作品の中にもかかわらず、段によって、その心理描写やプロットの完成度の粒度がかなり異なることだ。特に「沼津」と「岡崎」が数ある浄瑠璃の中でも屈指の心理劇であり名作である反面、その他の段のゆるさ加減というのは、同じ作者とは思えないほどのもので、なぜそのようなことになっているのか、不思議に思われる。

たとえば、粒度の荒い方の段をあげるとすれば、今回の公演の冒頭で演じられる「和田行家屋敷の段」からして荒いと思う。沢井股五郎は、縁のある城五郎から依頼され、和田家の所有する正宗の名刀を奪い取ろうとしている。そのため、今回は上演されなかった大序の「鶴が岡の段」で行家の長男志津馬をだまして正宗を質に入れさせ、「行家屋敷の段」では和田行家のもとに出向き、その刀を自分で請け戻し、自分が志津馬の放蕩から正宗を守ろうと見せかけの提案する。まずここからして不思議だ。手段を選ばずに刀を奪おうとしている場合、志津馬をだまして質に入れさせるところまでしたのなら、普通はわざわざ持ち主の行家に断りに行ったりせず、黙ってその刀を請け出す方策を考えるのではないだろうか。さらに、実は行家がすでに刀は請け戻したと言うと、今度は姉のお谷と結婚したいと言いだし、さらにそれがかなわないと行家を油断させて切り殺す。結局、刀はすでに丹右衛門の手にあり手に入らないのだが、行き当たりばったりの成り行きまかせだ。

そもそも、股五郎に行家の持つ正宗を奪い取るようし向けた城五郎の思惑は、この浄瑠璃の筋の推進力となる重要な要素であるはずなのに、あまりに浅はかだ。彼は、将軍家が諸大名に対して名剣を献上させており、反目している上杉家が和田家の正宗をとって献上させるはずであるが、その刀を奪い取って自分が将軍家に献上することで上杉家の鼻をあかそうともくろんでいる。しかし、そのような目論見は、和田行家を殺害までして実行する価値のあることだろうか。

それに「唐木政右衛門屋敷の段」の唐木政右衛門の言動も不可解だ。彼はあのようなややこしいことをせずとも、単にお谷や宇佐美五右衛門に自分の考えと計画をストレートに話せばよかったのではないだろうか。


一方、「沼津」や「岡崎」は他の段と比較にならないほど完成度が高い。

たとえば、「沼津」の「千本松原の段」はもちろん文句無しに感動的だが、その前の「沼津里の段」の、十兵衛が秘薬の印籠と十兵衛の産みの親のことが書かれた書き付けを残して去った後、平作が十兵衛を追いかけ自害する場面までの話の運びの巧みさを以てして、半二が江戸時代における屈指の作家であるといっていいのではないかとさえ思う。

半二は、「沼津里の段」で富士山の見えるのどかな田園風景から描き出す。貧しいながらも気の良い雲助の平作と十兵衛の、のんびりとした軽妙な会話。平作の娘お米は在所には珍しいほど美しくて気立ての良い孝行娘。極貧の家ながら、親子の心尽くしのもてなしに感じ入った十兵衛は、すすめに応じて、平作の家に一晩泊まることにする。

さらに話し込む中で十兵衛は偶然にも平作が自分の実の父だと言うことを知る。極貧にあえぐ今、羽振りの良い商人となった息子に会うことはできないという平作に、この場で親子の名乗りが出来なくとも何とか親妹を助けたいと思う十兵衛。さらに、お米が十兵衛の印籠の秘薬を盗みだそうとして十兵衛に捕まり、お米が志津馬の妻で元傾城の瀬川であったことを知る。すべてを悟った十兵衛は、股五郎側の人間として出来るぎりぎりのこととして、印籠の秘薬と自分の産みの親の名前の書かれた書き付けをわざと置き忘れたまま、平作住家を去る。お米には、口に出来ない想いを込めつつ「たつた一人の親仁様、随分と気を付けて孝行に。」と声をかけて。

これはこれで、ひとつの納得のいく落としどころに見える。が、そう思えるのは観る側がそう感じるように半二が意図的に書いているからだ。この物語を平作の視点から見てみれば、全く異なる物語が展開している。

恐らく平作は若い頃から極貧の暮らしをせざるをえない境遇にあり、そのせいで数えで二才というほとんど赤子といっていい十兵衛を手放さなければならなかったに違いない。さらにお米が生まれた後は妻も先立ち、娘を男手一つで苦労して育てたのだろう。お米が傾城になった後は少しは生活も楽になったかもしれないが、今、こうしてお米が志津馬の一件で沼津に戻ってきた。ところが、若い頃は素人相撲もしたくらいの腕に自信のもあった平作だが、七十に手が届いた今となっては、雲助稼業ですらままならない。敵討ちを志す志津馬を支えたいお米を助けてやることも出来ないどころか、娘はかえって賃仕事に追われる日々を送っている。

そこに十兵衛が現れ、彼が残していった書き付けから、実は彼は実の息子立ったことを知る。平作はきっと息子の平三郎のことを片時も忘れたことはなかったに違いない。その平三郎は、噂通り義理に篤く頼もしい商人となっていた。しかし、その平三郎は、なんという運命の悪戯か、志津馬の仇の股五郎側についている。今こそ娘を助けねばならない気持ちと、たとえ名乗りあえずとも息子ともう一度会って言葉を交わしたいという気持ちとを、すべてをかなえるには自分が自害することになるかもしれないという覚悟が一度に平作を襲ったに違いない。そして、それは平作にとって、十分、命を犠牲にするに値することなのだ。だから彼は、十兵衛を追いかけ股五郎の行き先を尋ねようとするお米を押しやり、

オヽ尤もじゃ/\。ガわれ(お米)では往かぬわい。モ年寄つたれどもこの平作。理を非に曲げても云はして見せう。われも続いて後から来い。どの様な事があつてもな、必ず出るなよ。敵の所在聞くまでは大事の場所。木陰に忍んで立ち聞きせい。必ずとも粗忽すな。ヨ、合点か合点か。

という。このとき、平作の頭にはすでに、これから千本松原の段で起こることの覚悟が出来ていた。だからこそこのような台詞をいうのだろう。

初めて歌舞伎で「沼津」を観たとき、なぜ平作が急にお米に代わって、転つ転びつ、近道を通って十兵衛の先回りの道を走り往こうとするのか分からなかった。浄瑠璃にありがちな話の急展開のようにも思われるが、それは半二が私たちにそう思わせるようし向けているからだ。平作の視点からみれば、彼の心にはあの時、十兵衛を追いかけて駆けだしていく以外の選択肢はなかったことを、観終わった後よくよく考えてみて、やっと私たちは悟るのだ。

このように、細心の注意を払って精巧に組み立てられた「沼津」や「岡崎」と、他の段のゆるさのギャップというのは、一体何なのだろう?半二の体調が悪く、他の段にまで注意を向ける余裕がなかったと考えることも出来るかもしれない。しかし、「沼津」や「岡崎」を書いた人が、あのように隙の多い話を世に出したいと思うだろうか。

これは私の妄想だけど、半二はきっと、そういう、ゆるい話の展開につっこみを入れて楽しむことだって浄瑠璃の楽しみだと思っていたのではないだろうか。この『伊賀越』の初演(1783)は、松平定信による寛政の改革(1787-1793)前夜。武士の教養は地に落ち、道徳は腐敗しており、一方、江戸では黄表紙や洒落本などが出て世の中を風刺することが流行した当時、大坂にもそんな時代の風は吹いていたはずだ。

大義を失い私利私欲に突き動かされた武士達の騒動と、「沼津」や「岡崎」の在所で誇り高く精一杯生きる人々ーーそのすべてを一つの物語として描き切ることが出来るのが、浄瑠璃なのだと半二は言いたかったのかもしれない。


…まだまだ書ききらないので、その2に続く予定です。