国立劇場小劇場 文楽9月公演(その2)

竹本義太夫三〇〇回忌記念 通し狂言 伊賀越道中双六 (いがごえどうちゅうすごろく)<第一部>11時開演
    和田行家屋敷の段
    円覚寺の段
    唐木政右衛門屋敷の段
    誉田家大広間の段
    沼津里の段
    平作内の段
    千本松原の段<第二部>4時30分開演
    藤川新関の段 
      引抜き 寿柱立万歳
    竹藪の段
    岡崎の段
    伏見北国屋の段
    伊賀上野敵討の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2013/9106.html

「沼津の段」と「岡崎の段」はよく似ている。「沼津の段」平作と十兵衛の物語だとしたら、「岡崎の段」は幸兵衛と政右衛門の物語だ。

そして共通しているのは、それぞれの段の二人の登場人物は同じ物語世界にいながら各々の心の内で別々の物語が展開しているということだと思う。たとえば、「沼津の段」の「平作内の段」までは、主に十兵衛の視点から描かれており、東路の旅情を交えた十兵衛の出生の秘密に係わるセンチメンタルな物語となっている。ところがその後の「千本松原の段」では、一転、父・平作の物語となり、息子と娘のために命を捨てる父親の物語が展開する。一方、「岡崎の段」は、かつて師弟であった幸兵衛と政右衛門の出会いにより、お互いがお互いを再発見する段だという感じがする。


かつての師弟、幸兵衛と政右衛門の再会は、「岡崎の段」の中盤、取り手に襲われていた政右衛門を幸兵衛が助け、助けられた政右衛門が幸兵衛に対して、
「お別れ申して十年余り、相好は変はられしが、生国勢州山田にて、武術の御指南下されし、要(かなめ)様ではござりませぬか。」
と声をかけるところがから始まる。幸兵衛もその詞で政右衛門が幼少の頃から育て上げた庄太郎だと気づく。

政右衛門は庄太郎という名であった幼少の頃、神職だった両親と離れ孤児となったため、当時要と名乗っていた幸兵衛が手塩にかけて育てたという。庄太郎は幼い頃から武芸を好んで、機転が利くのみならず、槍術、剣術、鎖鎌、体術、柔術に至るまで諸歴々の弟子を追い抜き、真影流の奥義を極める無双の達人となったという。幸兵衛は、庄太郎を大家へ仕官させ親の氏を継がせようと思っていた。しかし、幸兵衛の詞によれば、政右衛門は幸兵衛のことを「未熟の師匠と見限りしか」、家出して音信不通となってしまったのだという。その後十年あまり、夫婦は雨につけ風につけ、思い出さないことは無かったと回想する。

その詞を聞いた政右衛門は突然家出したことについて、師を見限ったのではなく、「一の流儀にのみ執着してはならず、諸流にわたって修行をすることこそが武芸においては重要である」という幸兵衛の教訓を実践しようとして諸国を遍歴し、武術を磨く武者修行に出たのだと詫び言をする。

その政右衛門の詫び言は半分本当なのかもしれないが、幸兵衛の「未熟の師匠と見限りし」という推測も半ば正しいのではないかと思う。学業であれ、芸事であれ、スポーツであれ、生徒は自分の技量が高くなるにつれて、さらなる飛躍を望むならば、幼少の頃の手ほどきをしてくれた師を離れ、さらに上の師につくというのは避けて通れない道だ。今なら多くの場合は、今なら上級の学校や私塾、クラブなどに入ったり、先生がより専門性の高い先生に生徒を紹介するという形でより上級の師に出会うことになるが、庄太郎の場合は、違った。

師匠の要は、自分が大家に仕官させ、親の氏を継がすところまで面倒を見ることが庄太郎にとって良いことであり、そうしようという心づもりであった。しかし、庄太郎は、相当独立心が高かったのだろう、要のもとに居ては出来ない武芸の修行があると確信し、回国して武者修行することを熱望していたのだ。そこで、彼は師匠には何も言わずに家を出た。ひょっとして元服もしないままに修行の旅に出たのかもしれない。

一方の要は、詞章には明確に説明されてはいないが、おそらく、天才肌の庄太郎が要のもとでの修行には決して満足していないことに薄々気づき、また近い将来、自分の実力をも越えてしまうであろうことも予感していていたのだろう。それでも要は自分が庄太郎を育て上げる力があると考えたかったに違いない。だから、突然庄太郎が去ってしまった後、要は庄太郎が家出した理由について、自分を「未熟の師匠と見限りしか」と推量したのだと思う。そして、庄太郎の本意をくみ取ってやることが出来なかった自分の師としての未熟さに対する後悔を胸に抱えつつ、風につけても雨につけても庄太郎のことを思い出さない日はなかったのだ。

政右衛門は、かつての師・幸兵衛夫妻と話す中で、幸兵衛が股五郎側に付いており、さらに股五郎の隠れ家を知っているらしいことに感づく。志津馬側の人間である政右衛門は、自分が政右衛門本人だとまだ気付いていないかつての師から、唐木政右衛門と立ち会いを行う場合は、「助太刀頼む、庄太郎」という助力の申し出を快く受け入れるふりをして、股五郎の在処を探ろうとする。が、師は容易には股五郎の在処を明かさないまま、庄屋に呼ばれ、外出する。


その間に、まるで道中双六か何かのように政右衛門を追ってきた妻のお谷が、すでに日も暮れたというのに、雪の中、宿もなく、子供をかかえて幸兵衛の家の門口に現れる。

常識的に考えれば、お谷が生まれて間もない子を連れて順礼の旅の者に身をやつして政右衛門の後を追って行ったというのは狂気の沙汰としか思われない。半二がもしそうしようと思うなら、同じお谷をこの場に居合わせるにしても、もっと別の筋立てを用意できたと思うが、何故、お谷はこのような形で政右衛門を追ってきたのだろう。

岩波の『新日本古典文学大系44 近松半二 江戸作者 浄瑠璃集』の解説を読むと、お谷が岡崎に乳飲み子をかかえて現れる登場の仕方について、矢作(やはぎ)の宿と呼ばれた岡崎の浄瑠璃姫物語のイメージを喚起させる目的があったのだろうとし、

恋人である御曹司(義経)の行方をたずねて、矢作から吹き上げへと慣れぬ旅を続ける浄瑠璃姫に、去られた夫への思いの種のみどり子を抱えて吹雪きの中を岡崎の宿へたどり着くお谷とが二重写しとなって(後略)

とされている(P.563)。

このことはよくよく考えてみると興味深い。確かに、現代だけでなく半二の時代の一般常識でも、お谷が乳飲み子をかかえて敵討ちの現場行くことは是とはされないことだろう。これを是とする物語分野があるとすれば、それは、御伽草子古浄瑠璃説経節幸若舞謡曲などの中世説話の類だ。

それらの中には、恋人を追って一人旅をし、困難に出会う女性がいくらでも出てくる。たとえば安珍清姫道成寺)伝説の清姫(花子)、俊徳丸を追う浅香姫、小栗判官を追う照手姫、吉田少将を訪ねて物狂いとなって今の岐阜県大垣市の青墓の宿から京のみやこまで上る謡曲の「班女」、天上界の人である夫・天稚彦に会うために夕顔の蔓をつたって天間で上って夫を捜し求める「天稚彦草子」に出てくる姫、華厳宗の開祖の一人、義湘(ぎしょう)という僧に恋して唐に渡る義湘を諦めきれず追いかけようとしてとうとう龍になっての行く末を守護した「華厳縁起絵巻(華厳宗祖師絵伝)」の中の美しい女性、善妙…。

そこまで古くさかのぼらなくても、近松門左衛門浄瑠璃にも多く出てくる。夫・景清を追っての京のみやこまで一人上ってくる『出世景清』の熱田大宮司の娘、小野の姫、幼い牛若丸達を抱えて雪の中、宿を求めてさまよう『源氏烏帽子折』の常盤御前、主人公を助けに敵の館に行き、寝間着のまま吹雪の中に捨ておかれ凍死してしまう『雪女五人羽子板』に出てくる娘などなど。

中世や江戸初期のように社会秩序の安定していない時代は、実際にそういう積極的な女性も確かに多かったかもしれない。けれども、これらの物語は読んでみると、現実に似せた状況を描いたドラマというよりは、多分に心の有り様の暗喩としての物語という感じがする。だから荒唐無稽で稚拙な筋の物語であっても、心を打たれるものも多い。

お谷のことを考えるとき、お谷という人物を「夫のことを真っ直ぐに想う女性の心」「子供のことを大切に思う母の心」の暗喩と考えると、お谷のことをよりよく理解できるように思う。たとえば、お谷は政右衛門は密通により不義の仲として親の和田行家から勘当されてしまうが、「夫のことを真っ直ぐに想う女性の心」は、所詮、武士の格式張った考えの枠には収まりきらないものではないだろうか。また、「岡崎の段」の雪の中、生まれた子供の顔を見せたくて夫を訪ねて一人旅をするというのは現実的に考えれば狂気の沙汰ではあるけれど、そうしたいと願う気持ちの暗喩なのだと考えれば、全く当たり前のことではないだろうか。浄瑠璃の物語世界で重視される忠義・義理というテーマや、時代が進むに伴ってどんどん緻密になっていった劇構造は、どうしても人間の自然な情動の発露とは相容れないものだ。そのような浄瑠璃の作品の中で、原点に回帰する形で人間の情を描くことを得意とした中世説話の手法を以って表現されたのがお谷なのではないだろうか。

そして何故、半二がそういうお谷を描こうとしたのかといえば、政右衛門が心の奥底深くに隠してしまっている情動を描くためではないかと思う。

政右衛門は、この『伊賀越』の中で自分の本心をほとんど表に出さない。彼は常に志を高く持ち、義を重んじるが、その行動は、お谷の父、和田行家の敵討という目的のみに向けられている。彼の行動や性格は、『史記』巻二十七、「刺客列伝」の中に出てくる荊軻(けいあ)という刺客を彷彿とさせる。荊軻は多くを語らず、書を好み、冷静沈着、義を重んじる人だ。彼に始皇帝を暗殺するよう頼んだ燕の国王の丹太子は、短慮で自分勝手な理由から敵討を頼む。また、始皇帝荊軻の物語の中では卑小な人物として描かれる。しかし、荊軻は敵討ちを頼まれた以上、義を重んじ、成功の見込みのない敵討ちに自分の命を賭ける。

この荊軻の物語はそれ自体感動的な物語ではあるが、半二はこの荊軻によく似た政右衛門を浄瑠璃のの中の登場人物とするために、もう一歩踏み込んで、彼の情をさらけ出させる場面を作りたかったのではないだろうか。

最初、雪の降る夜、政右衛門は幸兵衛の家の門口にお谷が乳飲み子と座り込んで雪を避ける姿を見つけて、ひどく動揺する。同じくお谷と乳飲み子を見た幸兵衛女房は二人を哀れんで家に泊めようとする。しかしここで自分の正体が知れたら全てが無となってしまう政右衛門は、『南無三宝』と幸兵衛女房の袖を引き留め、
「どこの者やら知れもせずに、滅多に引き入れ後の難儀はドドどふなさるゝ。きつと止しになされませ。夜中に一人歩く女、碌な者ぢやござりませぬ。戸を明けずと、ぼいいないたがよござります」
と、あの冷静な政右衛門とは別人かと思うほど、あわててお谷を泊めようとする幸兵衛女房を引きとどめる。結局、幸兵衛妻はともかく子供だけは助けようと、寒さとつかれと癪で気を失うお谷から子供を抱きとって家の奥の炬燵のあるところに子供を連れていく。

いてもたっても居られない政右衛門は、その隙に竈の付け木を見つけるとその付け木と柴木を持って門口のお谷のところに行くと焚き火をしてお谷を暖め、気付け薬をお谷の雪で流し込む。お谷の名を叫びたい気持ちを抑えつつ、お谷を抱きかかえながら暖める政右衛門の姿は、この『伊賀越』の中で最も感動的な場面だと言えるし、文楽の演目の中でも屈指の名場面といってもいいと思う。

政右衛門の介抱によって正気を取り戻したお谷に政右衛門は、

コリヤ何にも云ふな。敵の在所(ありか)手掛かりに取り付いたぞ。この屋の内へ身共が本名、けぶらいでも知らされぬ大事の所、そちが居ては大望の妨げ、苦しくとも堪へて一丁南の辻堂まで、這うてなりとも往てくれい。吉左右を知らすまで気をしつかりと張り詰めて、必ず死ぬるな。サア早う往け/\。

と声をかける。夫の詞を聞いたお谷は千人力の力を得たかのごとく、杖を頼りに去っていく。観ている者は、お谷が無事に生きながらえられそうな希望を得てしみじみと嬉しく思うが、後から考えてみれば、この場面が実は次の政右衛門の子殺しの場面のために、半二によって巧妙に用意された序章だったことに気づくのだ。


幸兵衛女房が気を失ったお谷の手から乳飲み子を引き取った時、観ている私達は、少なくとも子供だけでも助かると思い、安堵する。しかし、実際には因果なことに、幸兵衛女房が子供のみを引き取ったために、この子が政右衛門の子であることが明らかとなってしまうのだ。

「岡崎の段」の構成を考えてみると、「岡崎の段」は政右衛門の子殺しを描くためにある段だと思う。お谷と政右衛門の場面も感動的ではあるが、結局、お谷が幸兵衛の家に現れることによって子供が幸兵衛女房の手に渡るし、政右衛門がお谷を介抱する姿に感動するが、その感動は同時にこの後の子殺しの悲劇性をより鮮明にする役割も果たしている。

庄屋から帰ってきた幸兵衛と政右衛門とが話しているところへ、幸兵衛女房が引き取った乳飲み子を抱えながら走り来て、乳飲み子の肌着に「唐木政右衛門子、巳之助」という書付があったと報告する。

その報告に幸兵衛は思わず立ち上がり、

よいものが手に入つたぞ。敵の倅を人質に取つて置けば、この方に六分の強み。敵に八分の弱みあり。

と喜ぶ。

それを聞いた政右衛門は、乳飲み子を引き寄せ、喉笛を貫いて、息の根を止めてしまう。

何故、半二はここで政右衛門に子殺しをさせなければならなかったのだろうか。「岡崎の段」が子殺しを頂点とする構成になっていることから考えて、この政右衛門の子殺しには重要な意味があるはずだ。

この場面では、政右衛門は、自身を幼名の庄太郎で通し、自分が政右衛門でないかの如く、演じている。しかし、師と仰いでいた幸兵衛の「政右衛門の子供を人質にとり政右衛門の矛先をくじく」という計略を聞いた時、思わず庄太郎から政右衛門に立ち返ってしまい、相手を侮った卑怯な考えに怒りを覚えたのだと思う。

巳之助の喉笛を貫いた政右衛門の行動に驚いた幸兵衛に対し、政右衛門は、

ム、ハヽヽヽヽヽ。この倅を留め置き、敵の鉾先を挫かふと思召す先生の御思案、お年の加減かこりやちと撚が戻りましたな。武士と武士との晴れ業に人質取つて勝負する卑怯者と、後々まで人の嘲り笑ひ草。少分ながら股五郎殿のお力になるこの庄太郎、人質を便りには仕らぬ。目指す相手、政右衛門とやらいふ奴。その片割れのこの小倅、血祭に刺し殺したが頼まれた拙者が金打。

というと、子供の死骸を投げ捨てる。

政右衛門は庄太郎だった十五に満たない当時、師である幸兵衛に黙って家出をしたが、武者修行を経た今、思いもかけず師に正面きって反駁することになった。しかし、たとえ過去の師であっても師というのは親と同様、いつまでも大きな存在で、その人を乗り越えるためには、多大な犠牲が必要となる。幸兵衛のその志の卑劣さを指摘し、「政右衛門」はそれに屈するような人間ではないことを証明するために、、庄三郎は、政右衛門ーーつまり自分の子供である巳之助を殺してみせるという大きな犠牲を払わざるを得なかった。近年復曲された世阿弥作のお能「丹後物狂」は、父に誤解を受け叱責された花松は琵琶湖に身投げし九州筑紫の人に助けられその後苦難を乗り越え、立派な導師となって父と再会するという話だったが、父と子はお互いを再度見出すためには、大きな犠牲を払う必要があるようだ。しかし、政右衛門が、ある意味父代わりでさえあった幸兵衛の策略が卑怯であることを指摘し反駁するために、自分の子供を殺してみせるというのは、悲劇としか言いようがない。


このような惨忍な場面を通じて半二は最期に何を訴えたかったのだろう。

この場面について考える限り、半二は明らかに政右衛門に感情移入しているように思われる。政右衛門は武士として義を重んじ、志高く持った人だ。この『伊賀越』は初演されて数カ月後に竹本座はその幕を閉じたという。半二や竹本座の人々にとって、商業主義に徹して興行成績を上げるか、それとも人形浄瑠璃の奥義を極めようとするのかという志の問題は常に目の前につきつけられた問題であり続けたのではないだろうか。半二の作品を読むと、半二が常に新たな作劇の技術を模索しつつも人の情をいかに表現するべきかと腐心してきた人であることが、私のような初心者にも伝わってくる。半二にとっては恐らく人形浄瑠璃の奥義を極めるという志を犠牲にして、商業主義に徹するということは、とても出来ない相談だったのではないかと思う。そのような状況が半二に政右衛門のような人物と岡崎の段を描かせたのではないだろうか。狂言大蔵流山本東次郎けの家訓に、

乱れて盛んならんよりは、固く守りて滅びんことこそ本懐

というものがあるが、この東次郎家の家訓と政右衛門の子殺しの場面、そして半二の浄瑠璃作者としての矜持には相通づるものを感じる。


そして半二はこの浄瑠璃の中では幸兵衛に、師としてのもう一つの仕事をさせている。幸兵衛は、志津馬と政右衛門を対面させると、政右衛門の子殺しの触れ、

子を一抉りに刺し殺し、立派に言ひ放した目の内に、一滴浮む涙の色は隠しても隠されぬ。肉親の恩愛に初めてそれと、悟りしぞよ。

という。幸兵衛は幼少の頃から父代わりとなって政右衛門を育てた人だからこそ、政右衛門の目に一滴浮かぶ涙に気付いたのだと思う。そしてその志のに感じ入った故に、股五郎に所縁の者ではあるが、股五郎の在処を教えることにする。幸兵衛は、政右衛門を志を持つ武士として認め、師としてだけではなく、同志として、政右衛門と新たな関係を結び直したのだ。


岡本綺堂の「半二の死」では、『伊賀越』を執筆中の半二が、半二の病状を心配する染太夫に、

あやつりの作者では近松半二が最後の一人で、その亡い後が思ひやられる。流れる水に逆(さか)らつて、今までどうにか漕ぎぬけて來たが、その船頭のない後は……。櫂(かい)が折れるか船が沈むかその行末が眼にみえるやうで……。(嘆息して)まあ、お前がたが精出して働いて下さい。

という場面がある。しかし、この『伊賀越』を観る限り、半二はそこまで弱気ではなかったと思う。

確かに東次郎家の家訓のように「乱れて盛んならんよりは、固く守りて滅びんことこそ本懐」と思ったかもしれないし、半二を凌ぐような浄瑠璃作者はその後、現れなかった。けれども、半二は『伊賀越』の中で巳之助は殺したものの、政右衛門自身は殺さなかったし、その妻のお谷も殺していない。それは半二はなにがしかの最後の希望は持っていたということなのではないかと思う。そして、半二が亡くなって230年経った今も、古典という形ではあるが文楽を守っている人達がいるし、楽しみにしている人達がいる。半二の絶筆を観て、そんなことを考えた。もっと色々書きたいことはあるけれども、また別の日に改めて書きたいと思います。