日本コロンビア 鶴沢清治の世界「奏」「弾」

「奏」 ~鶴澤清治の世界~

「奏」 ~鶴澤清治の世界~

「弾」 ~鶴澤清治の世界~

「弾」 ~鶴澤清治の世界~

昔話が多いので、果たして、とうの立ちすぎた私などが聴いてもいいのだろうかと思ったものの、買ってしまいました。予想に反して、大変魅力的で理屈抜きに楽しいCDです。


内容は、「奏」の方も「弾」の方も両方とも構成はほぼ一緒で、(1)義太夫の三味線の聴かせどころをインストルメンタルで収録したもの、(2)道行、(3)昔話となっている。一部、オーケストライゼーションされた部分が入っていたりするものもある。また(2)と(3)は、ほとんど創作舞踊のための浄瑠璃のよう。スタンダードな義太夫から少し飛び出して、義太夫三味線や義太夫という曲節の表現や面白さを追求しているという点で、単なる義太夫ではない、清治師匠の表現する「鶴沢清治の世界」を聴くことができるCDだ。

そして多分、特筆すべきは、その制作年代ではないだろうか。1975年から1994年までに録音された曲のCD化なので、一番早い録音(1975年)は清治師匠が30才の時のものだ。道行と昔話編のおもだったものは、その1975年と1976年に録音されている。この時代の作品、「狐火」(1975年、「弾」収録)は、そのタイトル通り『本朝廿四孝』の「奥庭の段」から想を得た義太夫三味線とオーケストラの協奏曲になっていて、器楽曲における三味線の楽器としての可能性を知ることができる曲だ。たしかに義太夫三味線は相手が太夫だろうとオーケストラだろうと、対峙して協奏してこそ、その特性が生きる楽器なのだ。そういう特性をきっちりと浮き立たせた曲になっているところがすごい。私は今の清治師匠の三味線は大変厳しい修行をされた賜物なのだろうと思っていたけれども、それだけではなく、やはり、優れた三味線弾きとして、若い頃から作曲の才能やプロデューサー的才能もお持ちだったということのようだ。

もうひとつ特筆すべきは、多くの曲で語りを担当している呂大夫さんの存在だと思う。呂大夫さんの時に義太夫の規範を外れてでも表現しようとする語りが、「鶴澤清治の世界」を体現している。そういう意味では、「鶴澤清治と豊竹呂大夫の世界」と名付けてもいいかもしれない。私が気に入った呂大夫さんが出演する曲は、「尚武」(1994年、「奏」収録)、「おちょぼさん」(1994年、「奏」収録)、「蜘蛛の糸」(1992年、「弾」収録)、「ちえくらべ 一休さん」(1976年、「奏」収録)など。「尚武(しょうぶ)」は、「組打の段」を連想させる陣太鼓から始まる端午の節句にちなんだ若武者の門出を祝う曲。「おちょぼさん」は、「二人禿」のような芸奴見習い中の多感な少女の、ある一日を描いた曲。「蜘蛛の糸」はその題名通り芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を義太夫化したもの。「ちえくらべ 一休さん」はもちろん、チャーミングな一休さんのとんち話。前者二曲は音曲的色彩が強く、後者二曲は、義太夫風の語りだ。どれをとっても、義太夫に収まりきらない、いきいきとした表現に思わず惹き込まれてしまい、何度でも聴きたくなる。特に「一休さん」の語りなど、もう本当に私の目の前にくりっとした目をした一休さんが現れて、澄まし顔で盛大にイタズラをやらかした挙げ句、「あっかんべー」をしているような錯覚にとらわれてしまう。そして、呂大夫さんの語りを聴いていると門下の呂勢さんの語りを思い出してしまう。師匠とお弟子さんってこんなにもよく似るものなのかな?今、清治師匠が呂勢さんの相三味線をされているのも、そういったことがあるのかもしれない。

一方、現・源大夫師匠の語りは、呂大夫さんとの年代の違いからか、どれだけ揺さぶってもびくともせず、決して義太夫の語りの矩を越えることはない。「日本一の桃太郎」(1876年、「奏」収録)という昔話の創作浄瑠璃を語った次の段で、「もとよりもこの島は、鬼界が島と聞くなれば、鬼あるところにて今生よりの冥途なり」と『平家女護島』の「鬼界ヶ島の段」が始まっても全く違和感無いような語りだ。


義太夫の面白さというのは、まず詞章があって、その詞章の持つ世界を語りと三味線の音によって鮮やかに描き出すところにあると思う。また語りと三味線の音楽的な絡みそのものの面白さも義太夫を聴く楽しみのひとつだ。そう書いてしまえばあたり前の話だけど、聴いた後にそういうことを改めて感じさせてくれるCDだと思う。演劇的面白さを前面に出した三谷文楽とは、また違った面白さのあるCDでした。