国立劇場 浄瑠璃名曲選

平成25年度(第68回)文化庁芸術祭協賛 浄瑠璃名曲選
◆河東節『砧(きぬた)』 
   浄瑠璃=十寸見東治
   三味線=山彦良波 ほか
義太夫節日蓮聖人御法海(にちれんしょうにんみのりのうみ)勘作住家の段(かんさくすみかのだん)』
   浄瑠璃=竹本駒之助
   三味線=鶴澤津賀寿
新内節『恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)鈴ヶ森の段(すずがもりのだん)』
   浄瑠璃=新内剛士
   三味線=新内仲三郎
   上調子=新内仲之介
清元節『かさね』
   浄瑠璃=清元美寿太夫
   三味線=清元美治郎 ほか
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2013/10114.html

日蓮聖人御法海」は聴いたことなかったので行ってみました。

日蓮聖人御法海(にちれんしょうにんみのりのうみ)勘作住家の段(かんさくすみかのだん)

予想に反して大変興味深い浄瑠璃でした。

パンフレットによれば、「日蓮聖人御法海」は、その名の通り日蓮上人の奇瑞を描く作品とのことで、「勘作住家の段」は第三段の後半で、日蓮上人とその後継者、日像上人の因縁を語った段。第三段の前半は日蓮上人の龍の口での奇瑞が語られるらしい。この浄瑠璃日蓮宗のお会式(10月12日、13日の日蓮上人の忌日に行う法会)の時期によく演奏されるとか。折しもこの日はお会式の日でした。また解説には、上方では稽古浄瑠璃として行われたとも書いてある。面白い。クラッシックの楽器では、練習曲と言うジャンルの、演奏技術習得のために作曲された曲が沢山あるけど、浄瑠璃にもあるのだろうか?


実は今回拝聴する前に鶴澤八介さんのサイトで「勘作住家の段」の床本を見つけたので読んでみた。が、ご都合主義な話の展開で興ざめしてしまい、チケットを買ったことを後悔していた。

特にひどいと思うのは段の冒頭で、お伝という勘作の妻と勘作の母の会話の中で「(北条重時の奇病を治すため、幕府の役人が)申の年月揃ふて生まれた男の子の生肝を買はんとて方々尋ぬ」という話題がでてくるところだ。私のような早合点しがちなタイプの人間は、この情報とタイトルと浄瑠璃のお約束を照らしあわせて、ついその後の展開を想像してしまう。実際、お話は想定の範囲内で進行する。もし、たとえば「実は生き残ったと思われたお伝まで死んでました!」とかいう展開があったなら耳新しいから興味も引かれるかもしれない。けれど、判で押したような予想通りの展開では、私のようなタイプの人間は最後までテンションの上がりようがない。

ところが、今回の駒之助師匠の演奏は「(勘作母が一間に)入るこそ道理なれ」という部分から始まり、冒頭のお伝と勘作母の会話の部分はばっさりカットしてあった。この処理はものすごく納得。こうすることによって、申の年申の月に生まれた男の子の生肝云々の話が出てこないことになる。そのおかげで、初めて聴く場合はこの後の展開に驚くことができるし、筋を知っている場合も、その部分を聴いて「こんな初っぱなからネタバレするの?」と聴く気が失せることがなくなる。なぜこの作品の作者達もそうしなかったのだろう?仏事にことよせて上演されることを想定して、普段、浄瑠璃を聴きつけない人達にも親切な筋の運びにしたかったのだろうか。

この段の背景説明のような役割を果たしているお伝と勘作母との会話の部分を省略したことで、この後、筋は急速に展開する。まず、勘作とお伝の子、経市は実は申の年申の月に生まれだ。勘作母はその経市の生肝を手に入れたい侍にだまされ幕府に手渡してしまったため、そのことを詫びて自害してしまう。さらに勘作は家に戻ってきたとばかり思っていたが、庄屋がお伝の目の前に死骸を運びこんできて、実は禁漁区での密漁の罪で殺されており魂魄だけが家に帰ってきたのが知れる。悲劇に次ぐ悲劇でまるでジェットコースターのような展開となる。語りも高音の箇所が多くて、緊迫した場面となっている。

あまりの悲劇に生きる意味を見失ったお伝が川に身を投げようとする箇所で、日蓮上人の弟子、日朗法師が現れ、お伝の身投げを止めようとする。ここでは三味線が転調し、仏教説話としてこの後の展開に重きがおかれていることが暗示される。お伝が日朗法師が止めるのも聞かず身投げしようすると、さらに日蓮上人も現れる。このとき、日蓮上人のことは「末法有縁(うえん)の大導師高祖日蓮大聖人」と最大級の尊称をもって語られる。三味線も荘厳な音色でゆったりとしたテンポとなり、日蓮上人の事跡を語ることこそがこの浄瑠璃の眼目となっていることがよく分かる。

実は、子の経市は日蓮上人に買い戻されて生きていたのだった。日蓮上人はお伝に、経市の人相には将来日蓮に成り代わり法華経の大導師になる相が表れていると語る。経市は日蓮上人から日像という名を賜り、上人の勧めに応じて出家し、祖父母や父の菩提を弔うこととなったのだった。


このお話の中で勘作が鵜飼で禁漁区で密漁した科で殺されるというのは、パンフレットによれば、お能の「鵜飼」で知られる、甲州石和川の伝説が生かされているのだという。以前、国立能楽堂林望先生が講演していた話によれば、「鵜飼」のワキの僧は、ワキの台詞で出てくる出身の寺(清澄寺)などから日蓮上人と推察されるという話だった。日蓮宗の信者の間では当然有名な話だっただろうから、日蓮上人の説話を元にした浄瑠璃を作るのであればまさに必須の題材なのだろう。

お能の「鵜飼」は、禁漁区で夜な夜な漁をしていたシテの鵜使いを見咎めた住人達が、鵜使いを捕まえ、ふしづけ(簀巻き)にして川に沈めるという衝撃的な内容だ。鵜使いは亡霊となって、その川の近くにある御堂で一夜を明かそうとする日蓮上人と覚しきワキの僧の前に現れ回向を求める。僧はその鵜使いが二、三年前に僧に宿を貸した鵜使いだということを覚えており、その功徳によって鵜使いは成仏する。

私はお能の「鵜飼」で初めて「ふしづけ」という言葉を知ったせいか、鵜使いがふしづけにされたという場面が強く印象に残っているが、「日蓮聖人御法海」では勘作は首をはねられた姿で勘作住家に連れてこられる。この浄瑠璃の中では、勘作をふしづけにするのではなく彼の死骸を日連上人自らの回向とともに水葬する様子を描くことで、「流れ灌頂」(卒都婆を水に流す行事)「経木(きょうぎ)流し」(経木に死者の法名を書いて流す行事)の因縁話に仕立ててあるのだ。

そして勘作の死骸を弔う際に日蓮上人は奇瑞をみせる。川原に勘作の死骸を持ち込むと、鵜が集まり、

ぽっと燃え立つ鉄(くろがね)の嘴鳴らし羽(は)を振るい 眼(まなこ)を怒らし 勘作が死骸に集(たか)って肉(ししむら)を つヽき回せば

という恐ろしい場面が展開する。このあたりは、お能でいえば、むしろ「善知鳥(うとう)」というお能の、善知鳥を狩る猟師が地獄で化鳥に責め立てられる場面が引かれているようだ。「善知鳥」では、地獄で善知鳥が化鳥となってシテの猟師をさいなむ場面で、

罪人を追つ立て鉄(くろがね)の、嘴(はし)を鳴らして羽(は)をたたき、銅(あかがね)の爪を磨き立てては、眼(まなこ)を掴んで肉(しし)むらを(以下略)

という部分があり、浄瑠璃の方はこの部分の表現を思い起こさせる。

この世でシテに殺された鳥が地獄で化鳥となって鉄の嘴を持ちシテの肉むらをついばむという話は、世阿弥の父観阿弥が原作といわれる「求塚」にも出てくる。少なくとも中世にはそういったことが信じられていたのかもしれない。しかし鵜飼という職業は、鵜を使役するかもしれないが、鵜を殺したりはしないだろう。四角四面に考えれば、因果応報とは言い難いのでちょっとおかしい場面である気もするけれども、この浄瑠璃作者は理屈よりも劇的効果をとったということなのだろう。

また、私はこれらの場面では、大きな化鳥が一羽でシテを攻撃する姿を妄想していたのだが(少なくとも「求塚」は文脈上、一羽と考えてよさそうに思う)、「日蓮聖人御法海」では、「鱗鵜の鳥渦巻き立つて」とか「多くの鵜の鳥一度に去つて」など、鵜が群を成す様子が描かれているのが興味深い。これは鵜と同音の烏が入った「烏合の衆」という言葉からの連想した浄瑠璃作者のオリジナルなのか、そもそも私の妄想が間違っていたのか、どちらなのだろう?『地獄草紙』など見れば一発で分かるのだろうけど、おどろおどろしい情景に決まっているので、あまり気が進まない…。そういえば、狩野探幽の描いた『定家十二ヶ月和歌花鳥図』の六月の歌には鵜飼舟が出てくるが(「みぢか夜の鵜川にのぼる篝火の はやく過ぎ行く水無月の空」)、その場面を描いた探幽の絵には鵜が一羽しか出てこない。鵜や地獄の化鳥の文芸や美術におけるイメージが気になる。やはり、化鳥の方だけでも見てみるべきかな?

また、お能の「鵜飼」では、ワキの僧が川原の石に一文字づつ法華経の文字を書いた一字一石経を川の波間に沈めてシテの鵜使いを弔う。その弔いは、「日蓮聖人御法海」でも引き継がれており、日朗法師が一字一石経を川に投げ入れると、勘作をついばむ数多の鵜が汐が引くように一度に去っていく奇瑞が描かれる。

最後は

聖人莞爾と打ち笑み給ひ、
「一子出家の功徳にて九族(きゅうぞく)天に生ぜん事、何疑ひも嵐の雲。心の雲も吹き払ふ妙法蓮華の経力(きょうりき)功力。有情非情の草木国土、江河(ごうが)の鱗(うろくず)残りなく、成仏解脱のその印」

となっていて、日蓮上人の有難い詞と鵜飼石という石の因縁が語られ、目出度く語りおさめられる形になっている。


駒之助師匠の語りは、本当は技巧的なのかもしれないけど、そう感じさせない温かい語りでした。


新内節『恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)鈴ヶ森の段(すずがもりのだん)』

以前、新内節を聴いたことがある。その時もやっぱり長唄とか常磐津等のいくつかの浄瑠璃と共に聴いたのだけど、イマイチ、他の浄瑠璃との違いが良く分からなかった。江戸時代の人達はこんな微妙な違いしかない浄瑠璃の種類を聴き分けて好悪の判断をしていたんだからすごいなと思うと共に、一度聴いたからもういいや的気分になった。

しかし、今回、改めて聴いてみると、結構楽しかった。少なくとも今回聴いたのは、浄瑠璃の中に芝居の台詞が入っていて、江戸時代の人たちは、粋(いき)な音楽と人気の芝居の名台詞の組み合わせを楽しんだんだろうなという気がした。そういえば以前聴いたものも芝居がもとになった浄瑠璃だった気がする。