国立文楽劇場 11月公演(その2)

平成25年度(第68回)文化庁芸術祭主催 公益財団法人文楽協会創立50周年記念 竹本義太夫300回忌
通し狂言 伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)

第1部 午前10時30分開演
鶴が岡の段/和田行家屋敷の段/円覚寺の段/唐木政右衛門屋敷の段/誉田家大広間の段/沼津里の段/平作内の段/千本松原の段

第2部 午後4時30分開演
藤川新関の段 引抜き 寿柱立万歳/竹藪の段/岡崎の段/伏見北国屋の段/伊賀上野敵討の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2013/11122.html

11月17日に文楽劇場で『伊賀越』の通しを観た後も、すとんと腑に落ちないまま、ずっと引っかかっていることがいくつかあった。

ひとつは、何故、「岡崎の段」で、政右衛門は子の巳之助を殺すかということだ。これは、初演当時の観客に受け入れられないような場面であれば当然劇中の最も重要な局面で描かれることはないだろう。だから、この疑問は、「何故、当時の観客である町人や町人が想像する武家社会の倫理上、政右衛門のような立場の人が子供を殺すことが容認され、感動を呼ぶ物語とみなされたのか。」と言い換えることも出来るかもしれない。

それはひとつには、政右衛門がお谷と正式に祝言を挙げていないことから、巳之助は嫡子とはみなされなかった、ということが挙げられるかもしれない。けれども、たとえ嫡子ではなくとも、巳之助は和田行家の娘であるお谷の子供だ。行家の敵討ちを成就させるために、嫡子でないとはいえ、行家の血を引く子供を殺すのは本末転倒な気がしてしまう。そう感じて、考えを巡らせるうちに、やはり儒教思想が大きく影響しているのではないかという気がした。親のためには子を殺してもよいという理屈が通るのは、まさに儒教的発想だからだ。

考えてみると、浄瑠璃の世界には、子殺しまたは子供が親の犠牲になる話は枚挙に暇がない。「熊谷陣屋の段」の熊谷直実と小次郎、「寺子屋の段」の松王丸と小太郎、「すしやの段」の弥左衛門と権太、『合邦』の「合邦庵室の段」の合邦と玉手御前、『先代萩』の「政岡忠義の段」の政岡と千松、『近江源氏』の「盛綱陣屋」の高綱と小四郎、『傾城阿波の鳴門』の「順礼歌の段」の十郎兵衛とおつる等々。

これらの話の中では、親の忠君のためや子供の不忠を誅するために親が子供を死に追いやることは、物語のクライマックスとなるような大きな悲劇・試練とは捉えられている。しかし、子殺しを罪悪として描いているものが皆無であることは一考に値すると思う。「熊谷陣屋」の相模や「政岡忠義」の政岡が犠牲となった子供のために嘆くが、それは儒教の倫理だけでは納得しがたい親としての本能的な悔恨やそのつたない因果に対する悲嘆であって、犯罪を訴えるといった種類のものではないように思われる。

一方、親殺しのテーマを描いているのは、私が不勉強だからかもしれないけれども、今、私が考えて思いつくのは、『夏祭』の「長屋裏の段」の団七ぐらいだ。あの『油地獄』の与兵衛だって、親は殺していない。それに、『夏祭』の団七は、「元宿無団七というて粋方(すいほう、侠客など)仲間の小歩き(小使い)、貰い喰ひして暮らして」いた人という設定で、典型的な町人のカテゴリからは外れた裏の世界に限りなく近い人であり、一方の義理の親の義兵次も、ほとんど窃盗に近いことをして生計をたてている自分勝手な人間であり、「ひねくれたやつだもの」といわれたり、「あの親父に意趣有る者といったら、大坂に残る者が無い」などとも評されているような人だ。「長屋裏」の親殺しは、一般的な町人の常識の埒外の出来事とするために何重もの安全装置が施されている。

そう考えると、「盛綱陣屋」や「傾城阿波の鳴門」を執筆し、『本朝廿四孝』などという外題の浄瑠璃まで書いた近松半二の筆になる政右衛門の子殺しは、親の忠義のためには子殺しも容認されるという前提の下に描かれた場面なのかもしれない。

つまり、庄太郎こと政右衛門は、巳之助を人質にとって唐木政右衛門の矛先を挫こうという師・幸兵衛の考えを、かつての尊敬して止むことのない師の教えにふさわしくない、卑怯な手であると考え、怒りを覚えた。政右衛門は、ひとつにはその師を戒めるため、またひとつには巳之助が人質になることで自分の矛先が鈍って、自分が政右衛門であることが明らかとなれば敵討ちに支障を来すことから、そのような事態を防ぐため、自ら巳之助を殺さざるを得なかった。それは敵討ちという忠義の問題であるから、このような状況では、政右衛門は子を殺すことが求められ、彼は心を金鉄のようにしてそれを実行した。しかし一方で、決して表に出すことができない肉親としての恩愛の涙が目の内に一滴、浮かんでいた…ということなのかもしれない。

また、「伏見北国屋の段」で十兵衛が志津馬の討たれるために現れるのも、儒教的な「孝の道」の考えからすれば尤もなことなのだ。もし、股五郎の「非道に与した先非を悔いる」というだけであれば、桜田五右衛門を逃がしていったんの忠義を果たした上で、自分は切腹なりすれば良かったかもしれない。しかし、十兵衛は、生みの親の平作が何を望んでいたのかを考えたのだ。平作は、十兵衛の妹のお米が志津馬側の人間であるが故に十兵衛に志津馬側の人間として討たれて、その代償として、志津馬に報いたいお米のために股五郎の行き先を聞き出そうとした。だとすれば、平作に孝行する道は、今度は股五郎側の自分が志津馬に討たれ、かつ、股五郎側の消息を伝えてそれを手土産に妹を志津馬と添わせることだと考えたに違いない。

「岡崎の段」に話を戻すと、その段切に、幸兵衛が彼の旅葛籠に隠れて一部始終を伺っていた蛇の目眼八を斬って、「まずはその通りの手柄を待つぞ」と言うと、政右衛門が「まだお手の内は狂ひませぬな」と応え、お互い笑い合いながら「やがて吉左右」「吉左右」と言い交わし、政右衛門が師の刀の血を拭う場面がある。この場面は、子殺しという癒され難い悲劇があったにもかかわらず、「笑ふて祝ふ出立は、侍なりける次第なり」と結ばれる。その転換の早さが私にとっては違和感のあるところだった。

しかし、11/23、Eテレの「SWITCHインタビュー 達人達(たち)」という番組の内田樹先生と観世清和師の対談で(これはとても面白かったので、また別途感想を書こうと思います)、武道家であり思想家である内田先生が武道家の師弟関係について語っていたことがまるで政右衛門の言い分そのもののようで、感心してしまった。内田先生によれば、「師弟関係」とは、師に対して全幅の信頼を置き、師のいうことをすべて信じて実行することで、自分が成長するプロセスが面白いのだという。政右衛門もまさに、幸兵衛との関係に関して子供のころからこの通りのことを思っていたのではないだろうか。そして政右衛門は「岡崎の段」で、忠義のために自分の子供を殺すことになってしまったが、師である幸兵衛は、政右衛門が恩師をたてて悪人の股五郎を匿うという師の意向を汲み、かつ忠義のために自分の子供を殺した、そのすべてを看破していた。そして、幸兵衛は政右衛門の志に感じ入り、彼を認めたのだ。全幅の信頼を置く恩師に認められた政右衛門が、悲劇の後のカタルシスを得る瞬間がこの場面なのかもしれない。

また、内田先生は、「いるべきときに、いるべきところにいるのが武術」ともおっしゃっていて、これも目から鱗な言葉で、かつ、政右衛門に照らして考えると、非常に興味深かった。つまり、政右衛門は、和田行家が股五郎に殺されたとき、お谷とは正式に祝言を挙げておらず、お谷は勘当の身だったから、政右衛門はなおさら和田行家の屋敷の敷居をまたぐことさえ、できなかった。これは、廻国修行までして武術で身を立てようとした政右衛門としては、痛恨の極みの事件だったのではないだろうか。そこまでして磨き上げた武芸は、義理の親となる人が討たれんとして、それが最も必要とされたまさにその瞬間、何の役にも立たなかったのだ。

私は今まで、何故、政右衛門が「唐木政右衛門屋敷の段」でお谷と離縁し、義理の妹のおのちと祝言を挙げ、さらには「岡崎の段」で子殺しをしてまで敵討ちを全うしようとするのか、その原動力となっている彼の動機が今ひとつ理解できなかった。しかし、内田先生の言葉を聞いて、政右衛門は、自分が幼少の頃から様々な武芸の修得に邁進して奥義を極めた身でありながら「いるべきとき、いるべきところにい」なかったという後悔にさいなまれたのではないかと感じた。それは彼にとっては彼が人生をかけて追求してきたことが、実は何の役にも立たなかったということになりかねない事態で、そのことが、彼にすべてを振り捨てさせ、敵討ちを遂行するという方向に向かわせているのではないかという気がする。


ほかにも少し。

「沼津」の「千本松原の段」を観ていたら、舞台の下手側に、文楽やら歌舞伎やらでよく出てくる角材の道標があって、片面には「沼津」、片面には「よしはら」と書いてあった。住師匠の浄瑠璃に感動しながらも、関東の人間としては「そんな大雑把な道標、ないっつーの!」と内心、つっこみたくなった。それに十兵衛が吉原に徒歩で数時間でたどり着けそうなことを言っているのも気になった。

しかし二部で頂いた伊賀越道中双六マップを見て、東海道の沼津宿の一つ置いた西隣に「吉原」という地名があって、なるほど、と思った。だから、お米に対して「江戸の吉原の松葉屋で全盛を誇った傾城、瀬川殿」と、「吉原」の前に「江戸」とつけているのだろう。もちろん、この浄瑠璃の時代設定である大永年間(1521-1528)には江戸の吉原は影も形もなかっただろうけど、近場の手越宿の傾城といっても『平家物語』の時代ならいざ知らず室町時代の話ではピンと来ないし、ほかに「江戸の吉原の」を仮託できる場所もなく、そのまま「江戸の吉原」ということにしたのかもしれない。

また、「岡崎の段」で、お谷が幸兵衛の家の前の軒下で雪をしのいでいると、夜回りの番に声をかけられる。そのとき、お谷は「私は秩父坂東廻る順礼」と答える。これも岡崎で秩父坂東順礼とはどういうことなんだろうと思ったけれども、伊賀越道中双六マップを見て、「大和郡山から秩父三十三カ所や坂東三十三カ所を廻る旅に向かう途中の順礼」だということが言いたかったのかなと思った。


浄瑠璃や半二の考えの背後にある様々なことについて考えさせてくれた『伊賀越』でした。三年ぐらい経ったらまた是非、通しで再演してほしい。願はくはその頃にはもうちょっと文楽や古典についても理解が進んでいて、もっと深く『伊賀越』が理解できるようになっていたい…。