本経寺 若太夫追善素浄瑠璃の会

面白そうな演目に惹かれて、ふらっとお伺いしてしまいました。

午後1時からの法要は行かないとして、午後2時から素浄瑠璃の会。パンフレットには定員100名と書いてある。そんなに人がくるんだろうかと思ったけど結局、私がもらった整理券の番号は100番越えで、ギュウギュウの満席でした。時間も午後4時か遅くとも4時半ぐらいには終わるのではと勝手に予想を立てていたのですが、全部終了したのは5時を回った頃という、濃い素浄瑠璃の会でした。


・初手向「摂津国長柄人柱」芦刈の段

津国長柄で人知れずいつまでも建設途上にある(造る)橋とも、あるいは、すでに朽ち果てた(尽くる)橋とも詠われる、幻の「長柄の橋」が出てくるお話。「芦刈の段」はその五段目とのこと。この段は謡曲の「芦刈」が下敷きになっているらしく、詞章を読むと結構大胆に謡曲から詞章を借用しているみたいで、とても美しい詞章でうっとりする。今回の素浄瑠璃では謡ガカリの「名にし負ふ難波津の」という箇所から始まった。能楽ファンとしてはうれしいけれど、とっても短い謡ガカリでお能の頻出メロディをほんのちょっぴりかすっただけで終わるので、せめてワンフレーズくらいは謡ってほしいなあと、ちょっと物足りなくもある。

曲は朱の創始者とされる鶴澤(松屋)清七の古譜の写本を元に復曲されたとか。そういわれてみれば清七っぽい三味線で…なーんて分かるはずもなく、そーなんだと思って聞いていた。でもまあ、言われてみれば半二の時代の派手で特徴的な旋律の多い三味線とはまた違うことは確かかも。


・追手向 「苅萱桑門筑紫轢」高野山の段

2012年12月の国立劇場文楽公演で聴いた曲。ふむふむ、言われてみればそんな話だったと思い出しながら聴きました。雰囲気はそのとき聴いたのとはかなり違う感じ。会場も違うし、なにより演者の人が違うからだと思う。希さんは最近は聴く機会があるけれども亘さんの語りを長く聴く機会はあまりないので、今回、拝聴することができてよかったです。

そういえばこの会では床の左右に和蝋燭を使っていた。国立劇場文楽劇場で床の左右にある蝋燭型の照明をみる度に、お能でよくやる蝋燭能みたいに、たまには本物の和蝋燭を使ってみたら雰囲気でそうなのに、と思っていた。今回はまさに本物の蝋燭が使われたのだけど、なかなか雰囲気があってよい感じ。蝋燭能では蝋燭のにおいはそれほどしないのに今回の和蝋燭は蝋燭の一種独特のにおいが漂い、それもまた格別な雰囲気を醸し出していてよかったです。ただ、やっぱり燭台が倒れそうで少し危ないですね。それで国立劇場などでは無理なのかな?


酒呑童子枕言葉」衣洗ひの段

酒呑童子を退治するよう命じられた頼光ら四天王が酒呑童子の根城、大江山に行く途中、川で泣き泣き洗濯をする上臈と出会う。頼光等がいぶかしく思い事情を尋ねると、その上臈は実は酒呑童子にさらわれた上臈で、酒呑童子に召し使われ、他の上臈と同様、食べられてしまうのを待っているという話を涙ながらに頼光等に語る…という酒呑童子の物語の一部を浄瑠璃化したもの。

酒呑童子の物語を大体そのままやってくれるのでうれしくなる。浄瑠璃でも謡曲でも狂言でも、すでに知ってる話を語りやら謡いやらでなぞってくれると、うれしいのは何故だろう?もちろんちょっとひねってあればそれはそれで面白いけど、ただなぞってくれるだけでもうれしいのだ。そして、これは私だけがそうなのではなく、多分、だれでも自分が知っている話がなぞられるのはうれしいんだと思う。きっと浄瑠璃謡曲はほとんどの場合、本説があるのはそのせいなのだ。

曲に関しては文弥節の影響を受けていると考えられるという文楽劇場の方の解説があったが、どのあたりが文弥節なのかよくわからず、ふーんという感じ。文弥節は哀切を帯びた旋律というけれども、義太夫節自体が哀切を帯びた旋律が特徴だから、「なるほど、このあたりの短調の部分が文弥節か」などといった感じで自ずと聴けば分かるってことはぜんぜんない。いつもここで挫折するの繰り返し。


「和田合戦女舞鶴」市若初陣の段

1時間の大曲。何とかこの段の前までは楽しく聴いたのですが、新幹線での寝だめもこのあたりで尽きてきて、もうろうとしてきた。残念無念。和田合戦という主題も原因かも。私の日本史の知識は勉強をさぼったせいで、時代劇にもついていけないようなお話にならないレベルなので、和田合戦といわれても全然興味が沸いてこない。またもや真面目に勉強しなかったことを後悔したのでした。よい子の皆さんは騙されたと思って学校の勉強は何でもちゃんとしましょうね。


大盛況のうちに会は終了し、きれいなお花も分けていただき、帰途についた。新幹線でテーブルの上の甘い香りのお花を眺めながら、ここ数日のことを思い出すともなく、思い出してしまった。今の仕事はハードで人間関係も複雑で、自分の人間の小ささを思い知らされる日々で正直、精神的にも体力的ンも参っている。金曜日もつい切れてしまい、言わなくて良いことを言ってしまい、多分、人を傷付けたと思う。月曜日は口を開くと人を傷付けてしまいそうで怖くて、普段なら人にお願いする仕事も自分でやってしまい、またそういう自分の行動が子供じみていて憂鬱だった。さらに自ら手伝ってくれた人に「ありがとう」と言った自分の口調に冷ややかなものを自分で感じ取り、さらに鬱々としてしまった。

そういう自分から逃げたくて、気分転換をしたくて素浄瑠璃の会を聴きにきた。けれども、結局、ここでも気をつかってくれた方に「ありがとうございます」と素直に言えばよかったのに、それをいえず、無視するような形になってしまった。そのときは、急なことだったのであたふたして、しまったと思っただけだった。けれど、浄瑠璃を聴いている間中、その自分の行為自体が自分の先日来の心の傷を押し広げるようで本当に自分の他人とのコミュニケーションの取り方の拙さに滅入ってきてしまった。また自分が良い年してティーンエイジャーのようなレベルの話で滅入っているということ自体、さらに滅入ってしまうことだ。

浄瑠璃が好きなのに、自分は情とかそういうの以前のレベルの人間なのだ。追善の素浄瑠璃の会で、そんなご神託をいただいたみたいで、参ってしまった。多分、現実から逃げようという心がけで行ったのがよくなかったのかもしれない。自分の問題解決能力を越えた環境で、一朝一夕には状況を変えることはできないけれども、向き合うしかないのだろう。などと新幹線の中で思ったりしていた。

新幹線のテーブルに載せた、会の終わりにいただいたお花は、私に不似合いに美しく、甘い良い香りをあたりに漂わせている。それは私の不器用さをますます照らし出すようでもあり、やさしく慰めてくれるようでもあり、私は複雑な思いでそのお花を眺めていたのでした。