国立能楽堂 普及公演 隠狸 高砂

解説・能楽あんない  松の葉を掃く尉と姥  大谷 節子(神戸女子大学教授)
狂言 隠狸(かくしだぬき)  野村 萬(和泉流
能  高砂(たかさご)  宇高 通成(金剛流
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2014/4113.html

3月の田中貴子先生に続いて同じく伊藤正義先生の門下という大谷節子先生の「高砂」の謎解きが、スリリングで面白かった。

大谷先生の話によれば、「高砂」は紀貫之が記した『古今集』の「仮名序」の謎解きとなっているという。かつて「仮名序」を読んだけど、貫之の七難しい講釈がつまらなくて、ああそうですか、としか言いようのない内容に思えた。けれども、中世の人々にとってはそうではなかったらしい。

平安時代、貴族達は『古今集』などを暗記することで和歌を勉強していたが、中世になるにつれて、そういった平安時代の文学をそのままでは理解するのが難しくなったという。そのため、『古今集』のみならず、『伊勢物語』や『源氏物語』などに関して歌の家がそれぞれに家の独自性を出した注釈書を盛んに出したのだそう。それが中世の時代には、今の人間からすれば(そしてきっと平安時代当時の人々や仮名序を書いた張本人の貫之にとってさえ)摩訶不思議な解釈に発展し、人々の間に注釈を頼りに原文を読むというスタイルが定着したのだとか。

世阿弥の能のいくつかの典拠として、いわゆる『三流抄』が挙げられるが、これは、『古今和歌集序聞書』というのが本当の書名だそうだ。まさに古今集の序に関する注釈書なのだ。そこに書いてあるエピソードから何曲も創作されるほど、古今集の仮名序は当時重要な位置づけだったのだ。

今回観た「高砂」の後シテの登場歌、

我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松幾代経ぬらん

という歌は、『古今集』(雑歌上・605)にもあるが、『伊勢物語』の百十七段にあり、帝が住吉神社行幸あった時、帝が奉納した歌となっている。そして、住吉明神からの返歌として

むつましと君は白浪瑞垣の久しき世よりいはいそめてき
(あなたが思っているより遙か昔から世の中を見守っているのです)

という歌が詠われた。

こういう神様からの返歌というは『古今集』や『新古今集』にいくつも載っているが、実際には誰がどうやって作っているのだろうと不思議に思っていた。大谷先生の話では、この歌の場合は中世の『伊勢物語』の注釈書『玉伝深秘巻(ぎょくでんじんぴかん)』の「阿古根浦口伝」に、業平が帝の歌を代詠したとあるという。すると、住吉神社の扉が開き、住吉明神の化身である赤い衣の童子が現れ、業平に向かって「汝は我なり。何ぞ本地を忘るるや」(あなたは私です。なぜ自分の本来の姿を忘れるのですか。)とのたまい、和歌の秘伝書を業平の与えたのだそう。つまり和歌の守護神、住吉明神と業平は同一体だと、和歌三神の一柱である住吉明神が言ったのだ。そしてこれが『伊勢物語』の起こりなのだと説いている。

その話は『古今集』の注釈書『古今和歌集序聞書』(『三流抄』)にも書かれており、『古今集』の成り立ちの話として触れられているのだとか。その住吉明神から授けられた歌の奥義が書かれているという二巻の伝書、「玉伝」と「阿古根口伝」は業平の家に伝わるも紛失したが、そのうちの「玉伝」は伊勢に奉納され、それが延喜帝に伝わり、延喜帝は『古今集』の編纂を思いついたということになっているのだそうだ。そういえば、前に『三流抄』を眺めた時、もっと古今集の中にある歌に言及しているのかと思っていたら序の部分の話がほとんどなので、ちょっとがっかりしたことがあった。でも、大谷先生のお話を聞いていると、仮名序というのは中世の人々にとっては歌道のバイブル的な特別な位置づけにあるらしい。

その話を聞いて興味が湧いて、今回、普段省みない「仮名序」を改めて読んでみたが、仮名序には謡曲のテーマとなった言葉がいくつもあることにあらためて気がついた。たとえば、自分で気がつくことができたものだけでも、「松虫」「高砂」「女郎花」「龍田」「関寺小町(「衣通姫の流」)」「難波」など。あらためて古今集を読んでみたいけど、とにかく時間がない…。

ところで、「高砂」は仮名序で和歌の「高砂住の江の松も相生のやうに覚え」とある部分から成立したそうで、世阿弥の時代は「相生」と呼ばれていたのだとか。貫之の言葉を前後関係を汲みながら読めば、様々な心の動きは歌を作ることでなぐさめられるという文脈に相生の松の話がでてきており、「高砂住の江の松も相生のやうに覚え」という部分は「たとえば二人が高砂と住の江のように離れたところにいても、歌を交わすことで共に寄り添っているかのように心を慰めることができる」という意味のように思われる。

一方、お能の「高砂」の中では、『三流抄』の注を尊重し、この高砂・住の江の松はそれぞれ『万葉集』と『古今集』ととらえられており、その二つが松にたとえられているのは、「ことのは」という言葉が松葉にたとえられるからであり、つまり「相生の松」というのは、『万葉集』と『古今集』が歌のバイブルの双璧であることを言っているのだという。だから世阿弥の頃は「高砂」ではなく「相生」と言ったのだろう。

そしてそのような理解に基づけば「高砂」とは、姥(高砂の松)と翁(住の江の松)が共にでてくる前場は「万葉集」と「古今集」の双方を讃え、後シテの登場歌である「我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松幾代経ぬらん」が謡われる後場は「古今集」のことを讃えた内容なのだという。また、前場の場所は高砂で、アイの勧めに応じてワキの神主友成りは後場の冒頭、舟で住吉に向かい後場の舞台は住吉の住の江に着くのだそう。そういえば、後場のワキの道行は、

高砂や、この浦舟に帆をあげて、この浦舟に帆をあげて、月もろともに出で汐の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖すぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり。

というものだった。

その後、後場では住吉明神が影向して神遊を見せたあと、青海波、還城楽(げんじょうらく)、万歳楽といった雅楽の曲の名が出てくるが、これらが出てくるのは、中国の「礼楽(れいがく)思想」に基づいているのだそう。「礼楽思想」とは、「礼記」の楽記にある思想で、礼節も音楽も刑罰も清治も、その目的とするところは秩序ある社会を作るという一事であるという思想のことのようだ。

つまり和歌の盛んだった時代(『万葉集』の平城天皇の御代のと『古今集』の醍醐天皇の御代)は平和泰平な世であるということを説くことで寿ぐのが、「高砂」という脇能の意図するところなのだという、非常に面白いお話だった。


ほかに、大谷先生のお話で興味深かったのは、前場で翁が地面に落ちた松葉を竹杷(さらえ)で掻く動作をするが、それは掃き清めているというよりは、ことのは(松葉)を掻き集める動作であり、古い歌や新しい歌を収集した「古今集」編纂を表す動作であるそう。そして、そのとき、「久」という字を書くという口伝があるとか(そういわれたので舞台で気をつけて観ていると、この日の前シテも「久」という字を書かれていた)。


ここまでメモを書いたついでに、大谷先生の講演内容のほかに、「高砂」関連の私の備忘録。

以前、国立能楽堂の企画で「《老体》で見る高砂」という企画があった。私は「高砂」がその時がほとんど初見だったのと、平日夜の解説で遅刻して行ったので演能前の馬場あき子さんと天野文雄先生の対談をちゃんと聞けず、なぜ昔は老体であったと考えられるのか、論拠についてはよくわからないままだった。今回、大谷先生のお話があまりにおもしろかったので先生のご著書「世阿弥の中世」を買ったところ、公演で拝聴した「高砂」の話は、ほぼ第4章 脇の能の第三節「歌道と治道ーー『高砂』考」に記載されていた。そしてその中に、「高砂」の後シテの住吉明神が老体である根拠になる部分についてふれられていた。それは前シテが謡う『古今集』おきかぜ(藤原興風)の述懐歌、

誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに

としている部分のようだ。これは興風が老い嘆きと孤独を詠ったものだが、それを世阿弥が初めて「長寿で名高い高砂の松でさえ私には及ぶまい」と意味を反転させ、祝言性を持たせたというのが大谷先生の解釈だ。そのあたりが老体であったという論拠だろうか。

現在の後シテは通常は邯鄲男などの面をし若い男性にするようだが、今回の公演では、「神躰」という面が使われていた。この面は「高砂」のほか、「弓八幡」などでもしようされる面で神威の高い神を表す面ということだそうだが、この日観た印象ではべしみのような感じに見え、とても力強い印象の面で、そのあたりが興味深かった。

というのも、和歌というもののイメージを考えてみると、貫之は古今序で和歌のことを、

力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見える鬼神をもあはれと思はせ、男(をとこ)女のなかをもやはらげ、猛き武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり

とも、

今の世の中、色につき、人の心、花になりけるより、あだなる歌はかなき言(こと)のみいでくれば、色好みの家に埋(むも)れ木の人知れぬこととなりて、まめなる所には、花すゝきほにいだすべきことにもあらずなりにけり

とも言っている。となると、和歌の神も住吉明神も、どちらかというと文系、今でいうと草食系(死語かもしれないけど…)の邯鄲男などがぴったりな気がしてしまう。

けれども宇高通成師は非常に力強い舞を舞い、足拍子もどしんどしんという感じで、邯鄲男とはおよそかけはなれた、神躰という面にふさわしい堂々とした舞だった。こういった系統の舞い方は、私は知識不足のためによくわからないけれども、「高砂」が脇能として発展していく中で、生まれた解釈によるものなのだろうか。


狂言野村萬師と野村万蔵師による隠狸(かくしだぬき)。野村萬師の太郎冠者はいつも憎めないキャラクターで楽しみだけど、今回は太郎冠者が隠し持つ狸(の縫いぐるみ)が超超可愛らしくて目が釘付けでした。あれ、欲しい…。