国立劇場小劇場 文楽9月公演第3部(その2)

不破留寿之太夫、週末に再見してきました。


初日は、演じている方々の間に、そこはかとなく「こんな感じでいいんだろうか」という不安感みたいなものが漂っていなくもなかった気がします。でも、週末までの間に大分、演出も整理されてきてメリハリもはっきりしたことで、趣向とかテーマとがはっきり見えてきたし、初日よりずっとおもしろかったです。たった一週間も経たないうちにこれだけの工夫が出来る、清治師匠や関係者の方々の引き出しの多さに感銘を受けました。さすがプロです。初日はもっと短くしてサクサクやった方が良いんじゃないかと思ったけど、楽しい趣向が盛りだくさんで、確かに1時間20分は必要、という感じでした。


そしてシェークスピアを含めた広い意味での古典の奥深さというものも感じました。

シェークスピアの戯曲は骨格が骨太だし、スケールが大きい。登場人物は、自分の身の回りにいそう、というよりは日本の古典芸能に出てくるような類型的な人物に近く、不破留寿は太郎冠者などの狂言の登場人物を彷彿とさせるし、春若は『妹背山婦女庭訓』の求馬みたいといた感じで、観る人の経験や想像により様々な見方が出来る。また演出として、お能狂言、歌舞伎などを本歌取りした趣向が随所に採り入れられていて、それも作品に深みを与えている。春若の不破留寿を「なぶってやろう」という言葉から、いろんな狂言を思い出す人もいるだろうし、歌舞伎の台詞を採り入れたところでは、それぞれの歌舞伎の演目を思い出す人もいるだろう。お能の囃子を入れたところでは、その囃子が暗示することがちゃんと起こるので、ちょっと楽しい。

初日はそういう趣向をどこまで自分勝手に楽しんでいいのか、イマイチよく分からなかった。たとえば、冒頭、月夜に満開の桜の大木の下に不破留寿が横たわっている姿を観て、私は思わず桜の好きな西行を連想してしまった。和歌の世界や能楽の世界であれば、一つ一つの歌や句は緩い<意味のネットワーク>でつながっており、最終的にはそのネットワークが和歌なり能楽なりの世界の小宇宙を形成しているので、お能文楽の地の部分を聞いて思わず連想することは大体多かれ少なかれその物語の世界観を補強するものになる。だから、連想をすればするほど物語の世界が重曹的に厚みと陰影を増し、より深く感動することができる。もっと言えば、能や文楽では、劇中、そうやって連想することが、ある意味、観客に求められている。だから、能とか古典の文楽なら、桜と不破留寿を見て西行と桜を連想したならそれを大事に心に持っておきながら見ることが物語を楽しむ上で重要だ。

けれども、たとえば三谷文楽みたいに現代的な喜劇だと、劇中で語られる言葉の意味は一意で、その意図するところが正確に伝わるよう細心の注意が払われている。こういう演劇では観客は劇中で自ら何か連想して話を補うよう求められていないのだ。だから桜と不破留寿を見て、綺麗と思うのは演出側の意図に即しているのだろうけど、西行と桜を連想しても、物語を楽しむという観点では特に役には立たない。

で、「不破留寿之太夫」の話に戻ると、この物語はそのままストレートに観ても、もちろんおもしろいけれども、沢山の古典芸能や音楽の本歌取りがあるので、たぶん、文楽やその他の古典芸能を観る人にとっては、古典の文楽と同じように、本歌取りの部分を探し、本歌取りの本歌を連想することで何重にも楽しめるように作られているのだと思う。だから、西行と桜を連想したとしたら、たぶん、満開の桜が何を象徴しているかとか、桜と強く結びついている西行とこの物語の主人公、不破留寿の共通点とか違いとか、あれこれ考えることで、不破留寿のことをもっと良く理解できるかもしれない。また、そういう本歌取りが沢山ある作品は、二回見ても二回目は違った発見やおもしろさがあるし、たぶん、三回、四回と見ても飽きないと思う。これが過去の古典芸能を作った人々がしてきた工夫だし、清治師匠だからこそ、こういう工夫を出来るのだろう。そういう観点から観ると、杉本文楽や三谷文楽もそれぞれ良さがあるけれども、「不破留寿之大夫」の文楽の作品としての完成度は、それらとは一線を画している。


今回、初日観た時、ラストが全く予想しない方向への急展開に感じられ、違和感を感じました。これは考えてみると、「不破留寿之大夫」の広報で「喜劇」ということが少し強調され過ぎていて、軽いコメディという先入観から、「不破留寿」のテーマを捕らえきれなかったという部分もあった気がします。確かに全編を通じて喜劇的な要素がこれでもかというくらいちりばめられているけれど、物語自体は、原作となっている「ヘンリー四世」と「ウィンザーの陽気な女房たち」とでは、紛れもなく「ヘンリー四世」に軸足があって、それなりに重いテーマを観る人に投げかけている。しかし、そのテーマを観客に悟らせる伏線も少し足りなかったかもしれない。

初日に観た時は春若がどういう人がよくつかめなかったけれども、改めて観てみれば、結局、春若はあくまで放蕩を尽くすふりをして、来るべき王となるその日に備えて雌伏している人で、不破留寿をなぶって遊んでいるかのように見えるけれども、心から不破留寿に共感している訳ではないのだ、きっと。なぜなら、彼の立場では、そう生きる以外の選択肢はないのだ。一方の不破留寿はもっと人生を楽しもうとしている。そして、アリとキリギリスでいえばキリギリスの不破留寿は、キリギリスの悲劇も甘受する覚悟があるところが、「不破留寿之大夫」を単なる喜劇に終わらせないところだと思う。


長所、短所の両面ある「不破留寿之大夫」という作品。出来るだけ沢山の人に観てもらい、沢山のフィードバックを得、それを糧にもっともっと工夫が加えられてほしいです。成長を続ける価値のある作品、そんな風に思いました。