国立劇場小劇場 2月文楽公演 第三部

国立劇場小劇場 2月文楽公演 第三部 6時開演
国性爺合戦(こくせんやかっせん)
千里が竹虎狩りの段、楼門の段、甘輝館の段、紅流しより獅子が城の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2014/21012.html

その昔、竹本義太夫近松門左衛門が活躍する以前、「金平浄瑠璃」という、金太郎や渡辺綱等四天王が鬼退治で大暴れする浄瑠璃が長いこと大流行したという。そんな古浄瑠璃のしっぽを持つ、浄瑠璃の魅力の根元を見せてくれるような、狂言でした。一部から三部の中では最も面白かったかも。

「千里が竹虎狩りの段」では不思議な髪型をした中国人のツメ人形達や 虎の着ぐるみが出てくる。虎の着ぐるみは「傾城反魂香」にも出てくるし、初演当時、大受けだったのかも。この虎は和籐内にけしかけられて中国人の瀬子を襲うはずなんですが、気のせいか、瀬子が楽しそうに虎を襲ってる図に見えたような…?

ところで「千里が竹虎狩りの段」の冒頭、和籐内が竹藪の中で「四、五十里も」歩いたが竹藪から出られないと言ったり、「楼門の段」で、錦祥女が父のいる日本が唐土から「三千余里のあなた 」にあると言ったりする。事前に床本を読んだ時は、「いくら国土の広大な中国の話だって、スケールが桁違いすぎ!人間の大きさは日本と変わらないのに」と思ってた。

が、実は中国の一里は500mぐらいなのだそう。なので、「四、五十里も」歩いたというのは、160kmから200kmぐらい歩いたという意味ではなくて、「2kmから2.5kmくらい歩いたけど竹藪を出られない」と訝しく思った、ということみたい。それなら分かる。「160km歩く 前におかしいって気付こうよ!」という話ではないらしい。同様に、日本への距離「三千余里」も約4kmで換算したら1万2,000km+αとなってしまって、「一体地球何周するつもりじゃ!」という話になるけど、1,500km+αととらえれば、こちらも妥当な数字。浄瑠璃の中には里の単位について何の説明もないので、初演当時の観客達には中国の一里の距離は一般常識だったんでしょうね。それにしても、当時の大坂の人々はなぜこんなに数字の話 が好きだったのでしょうか。

そしてこの物語で何に一番心打たれたかというと、この物語の中の女性達、なかでも老一官妻(勘寿さん)の自らの命をなげうって初めて逢った義理の娘の錦祥女を慈しみ、夫や和藤内を助けようという無私の義性的精神だった。2008年1月、文楽劇場で観たときは、文雀師匠の美しくはかない錦祥女に見とれてしまって、あまり老一官妻のことを覚えていなかった。この老一官妻と錦祥女(清十郎さん)は、それぞれ自分の命と引き換えに、人を助けようとする。その強さにぐっと来てしまった。

何故かここのところ、文楽の中に出てくる女性のまっすぐな心とその強さにひどく心惹かれる。多分、日々いやになるくらい自分の弱さに直面しているからだと思う。でも心惹かれるのは私の個人的な思いのせいだけではなく、近松が描いたもっと普遍的な女性の本質への共感もあるにちがいない。

老一官妻や錦祥女の自害は、『忠臣蔵』の勘平くんや『千本桜』の知盛の自害とは明らかに違う意味を持っている。

人は生まれてから成長するなかでどうしても親に頼らなければならない。子供は親に依存せざるを得ないから、親の犠牲となる部分ももちろんあるけれども、親、特に女親の犠牲とひきかえに成長するのだ。このことは太古の昔から変わらない。

近松の描いた老一官妻と錦祥女の犠牲は、そういう女性のほとんど本能的な犠牲の精神の発露だ。この二人が自分のことを打ち捨てて大切な人のことだけを考えて思わず発するそのまっすぐな言葉に、胸を打たれるのだ。


この 日は1ヶ月ぶりに義太夫を聴けて、改めて義太夫が好きだと思った。あの深く鋭い三味線の音とその旋律に蔦葛のように絡み合うパワフルな語りが好き。

短い公演期間だけど、時間の許す限り楽しみたい。