国立劇場小劇場 文楽2月公演 第一部

2月文楽公演 <第一部>11時開演
 二人禿(ににんかむろ)
 源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)
    矢橋の段
    竹生島遊覧の段
    九郎助内の段 
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2014/21012.html

二人禿

大好きな曲。紋臣さんと簑紫郎さんの、相変わらず可愛い禿ちゃんたち。


源平布引滝

矢橋の段から。この段は過去に1回ぐらいしか見たことなかった気がする。できればあともう一段手前から、やってほしい。

今回は勘十郎さんが実盛。私は今まで、文楽では実盛は玉女さんしか観たことなかったと思う。文楽の実盛=玉女さんの実盛というイメージだったので、勘十郎さんの華やかでダイナミックな実盛に、実盛のイメージが覆りました。勘十郎さんは実盛の陽の部分を光で照らし、玉女さんは実盛の陰の部分を光で照らしたようで、同じ実盛なのに、印象がかなり異なる。違う役者さんで同じ演目を観る醍醐味だと思う。こうなると、今度は、さらに他の人でも、たとえば玉也さんの実盛とかも、観てみたい。玉也さんが得意とする陰のある人物や慈愛に満ちた人物を演じる時の表現や、一転、立回りでの颯爽とした感じとか、実盛に合っていそう。

今回は、主に瀬尾(玉也さん)で、いままで気がつかなかった演出というか型で、新鮮に感じたものがいくつかあった。私が実盛物語を最初に観たのは、歌舞伎の仁左衛門丈で、古典芸能を観始めた頃に観て非常に印象に残っているので、そちらの印象に引きずられて、目新しく感じるのだろうか。

その一つは、瀬尾が実盛の肱の講釈の後の引っ込みと出の部分。

瀬尾は清盛から、葵御前の産んだ子が男の子なら殺し、まだ産んでいないなら胎内まで探せという上意を受けている。その詮議が厳しいため、九郎助夫婦は苦肉の策で琵琶湖から引き上げた女の肱を葵御前が産んだと主張する。それに対して実盛が援軍を出し、中国の楚の国の后が鉄の玉を産んだ例を持ち出す。そこで詮議の気勢を削がれた瀬尾は一旦、実盛を残して一人、注進に帰る。

このとき、そのまま九郎助の家の外にある小柴垣に隠れる演出もあるという気がしていたのだけど(他の演目と混同して記憶してしまっているのだろうか?)、今回は瀬尾はそのまま幕の中に引っ込んでしまう。瀬尾の立場に立って考えると、もし彼がこの後、実盛と九郎助が結託している証拠を見つけ次第、その現場を押さえようとするならば、引っ込んだりせずに最初から小柴垣に隠れている方が得策だと思える。なぜ、彼はここで引っ込んでしまうのだろう。ここだけを観る限りでは、ちょっと妥当な理由が思いつかない。

この後、その肱(かいな)に見覚えのある実盛から、その肱は実盛が竹生島遊覧の段で実盛が切った女のもので、それは九郎助夫婦の娘、小まんであったことが分かる。実盛が九郎助や太郎吉の涙の抗議を受けている最中、小まんの死骸が九郎助住家に運びこまれる。

瀬尾はこのとき小まんの死骸を運び込む村人の後に続いて、舞台に再度、現れる。このとき、今度は笠と蓑という姿で現れるのが面白い。瀬尾は笠と蓑をもって現れるために、いったん引っ込んだのだろうか。

「隠れ蓑」という言葉があるけれども、たぶんそういうことなんだと思う。歌人の馬場あき子さんの「鬼の研究」という本には、『枕草子』の「蓑虫は鬼の子にて」という段や、躬恒(みつね)の歌「鬼すらも都の内と蓑笠をぬぎてや今宵人にみゆらん」を引いて、平安時代、鬼は蓑笠で姿を見えなくすることができたと信じられていたという趣旨の説明がなされている。

この鬼の笠蓑の話は江戸時代も古典文学に詳しい人は知っていただろう。となると、瀬尾の笠と蓑は、実盛達に対して姿を隠しているという見物へのサインで、かつ、見物に対して瀬尾が鬼のような悪役であるという印象操作を行うためのものであったのではないだろうか。古典の教養を背景とした、しゃれた演出なのではないかと思う。そもそもこの「九郎助住家の段」は、『源平盛衰記』以外にも、お能の「実盛」における実盛像が重要な役割を果たしていたりして、この段の作者の教養の深さが忍ばれる。

そして、もう一つ、興味深かったのは、瀬尾の自害の場面。

葵御前の、
「もっとも父は源氏なれども、母は平家某が娘と九郎助の物語。一家一門広い平家。もし清盛が落とし子かも知れず、まづ成人して一つの功を立てた上で」
という言葉を受けて、瀬尾は実盛達の前に躍り出る。そして太郎吉をけしかけて自分を切らせようとする。その時、太郎吉は母小まんの形見の脇差をとって瀬尾を刺そうとするのだが、私が観た時は瀬尾は一旦はその刀を払ってから、再度、脇差を振りかざした太郎吉の刃でお腹を刺される。瀬尾が太郎吉などに刺されるはずのない屈強な武士なのだということを改めて感させられる。そのまま刺されるよりずっといいと思う。

それから最も驚いたのは、刀で自らの首を切る時に、その刀に太郎吉の手を添えさせ、瀬尾は太郎吉に首を切らせる形をとるのだ。今まではそういった型があったかどうか、気がつかなかった。瀬尾は、太郎吉に切られると葵御前に太郎吉の伺候を頼む。そして死んだ娘の小まんの迷いを晴らし、孫の太郎吉を出世させるために、太郎吉の手をとると、太郎吉の手で首を討たれたのだ。ここの部分は咲師匠の瀬尾になりきった演奏と玉也さんの迫力ある演技で、この段で最も心動かされる場面だった。

この後は、勘十郎さんの颯爽とした馬上の実盛と、最近重要な子役総なめの玉翔さんの太郎吉、籐蔵さんの襲名公演の時に聴いた三味線とはひと味も違う三味線で、すかっとした段切でした。